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その日の試合は夜だった。たぶん6月とか7月頃だったんじゃないかと思う。
バックスタンドから見た向かい側の、メインスタンドの照明がとても綺麗に輝いていた。それはまるで光の線を横に大きく引いたかのよう。スタンド上部の席を覆って端から端まで広がる屋根の、その先端に沿って無数の光がずらりと並ぶ。試合が始まる前の時間は美しい夕焼けをバックに浮かび、夜の帳が下りるにつれてより一層の輝きを放っていた。
ピッチの芝もそう。明るく照らされた芝の緑は、まるで絵の具で描かれたかのように色鮮やか。空気や音もたぶんそう。会場を彩るすべてのものが僕にとっては新鮮で輝いて思えた。もうそこは以前から知っている陸上競技場とはまったく別の、初めて訪れたサッカーのスタジアムだった。
気がついたのは試合が始まって少し経ってからだったと思う。大型ビジョンに出場選手の名前の表示があることを知って、目で追って何度か探したけれどそこに福さんの名前がなかった。
「えー、せっかく来たのにー」
美紀はとても残念がっていたけれど、
「ほんなら早めに帰ろうか。終わってからやと帰りに混むし」
すぐに開き直ってそんなことを言い出した。そういう切り替えの早さや堅実なところに何度も助けられてはきたけれど、初観戦に感動している僕にとって、この話の流れは嬉しくない。
「いーよ。もう飽きたし」
美紀の向こう側から顔を出して、真帆がその意見に賛同する。僕の席からいちばん遠い、4人が並んだ左端。その日の真帆は裕太との席争いをすることもなく、自ら左端に座って美紀の隣を平和的にゲットしていた。
その真帆がもうとっくにこの場に飽きていたことは僕も分かっていた。サッカーの試合には目もくれずに下を向いて、持ってきていたたまごの形の小さなゲーム機をずっとさわっている。ペットのようなキャラクターをお世話しながら育てるゲーム。当時はそのゲームが大人にも子どもにも女性に大人気で、同じシリーズの古い機種を美紀も持っていたことがあった。
「福さん推しなんですか? 福さんベンチにいますよ」
神の声。後ろの席から声がした。
驚きと、その声が僕に向けられたものなのかという迷いのままに振り返ると、すぐ後ろに座っていた男性も驚いているような表情をしていた。突然話しかけられたほうの僕と、つい話しかけてしまったほうの彼。目が合ったときに一瞬の沈黙があった。
「あ、すみません。聞こえた話が気になって、つい反応しちゃいました」
その彼が照れくさそうにそう話す。愛嬌を感じさせる笑顔の中で、笑って細くなった目が特に印象的だ。そして今度は丁寧に、福さんが今はベンチにいるということを教えてくれた。
僕はその男性に好感を抱いた。それが哲也さんだった。
「推し? っていうわけじゃないですけど、福宮選手? と偶然の繋がりがあって、とりあえず見に来た感じです」
当時の僕は「推し」という言葉に馴染みはなかったけれど、それでもなんとなく意味とか使い方は理解できた気がした。
「いいですね、選手と繋がりがあるなんて。羨ましいです」
「繋がりって言っても、深いものではないですよ。たまたま妻の仕事のお客さんとして来店された、っていうだけで」
「それでも十分、羨ましいですよ」
最初の頃は僕も哲也さんも、お互いに敬語で話していたんだなぁと思い出す。見た目の感じは同世代。お互いの年齢を確認し合うような会話はたぶん今までにはなくて、スタジアムで会って話をするたびに、どちらからともなく会話の口調がくだけていったのだと思う。何かのときに哲也さんが僕より3つも年上だったことを知って驚いたけど、仲良くなった後でわざわざ敬語に戻すことのほうが失礼な気がして、普段の会話は今ではもうすっかりタメ口だ。