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あの頃、僕らの溜まり場になっていたのは別の友達のアパートだった。そっちのほうが僕のところよりも新しくて綺麗で、駅やコンビニからも近くて何かと便利。自分のアパートを溜まり場にしたくなかった僕にはそのほうが都合が良かった。ひとりだと寂しいくせに、友達でも彼女でも、常に他人がいる状況だとそれはそれで僕は疲れてしまう。
それでもときどき篤志は僕のアパートに泊まりに来た。大学までの長距離を時間をかけて通学していた篤志にとって、通学の面倒を減らす意味でも、親から離れて息抜きする意味でも、僕らのアパートは都合の良い場所だったのだろう。
10代の終わりから20代の始まり。良いこともあればそうでないこともあるけど、心を揺さぶられるような出来事がたびたび事件のようにして起こる。そんな時期を近くで過ごした篤志とはいろんな話をした。好きになった女の子の話。好きになった女の子との別れの話。男同士の友情や妬みや裏切りの話もした。ビールを飲みながらタバコを吸いながら、そんな話を何度も何度も繰り返した。
行き場も結論もなく単なる愚痴や不満をぶちまけるだけのときもあった。話題が愚痴や不満になると、たいてい話をするのはいつも篤志で僕は聞き役になることが多かった。篤志は2人兄弟の兄。同じ長男でも上に姉がいる僕とは違い、篤志には自分が兄であるというプライドがあることがとても分かりやすく感じ取れた。家でもときどき面白くないことがあったようだ。
僕のほうは、実家の親とは相変わらずだった。普通は親元を離れてみると「親のありがたみが分かった」とその経験を糧にして成長するのだろうけど、成長が止まってしまっていた僕にとって、やっぱり嫌いなものは嫌いだった。
もし今であれば、素直に感謝する気持ちが少しは持てたのかもしれない。でも当時の僕は篤志の言うとおりで、なんでも親のせいにして向き合わず、自分が甘えていたことにも気づかないくらいバカだった。だから僕の父は僕に嫌われたまま死んでいった。本当に死んでしまうなんて考えたこともなかった。
「お父さんが入院したから帰ってきて」
アパートの留守番電話に残されていた母からのメッセージを聞いたとき、僕はまだ事の重大さにまったく気がついていなかった。そのときすでに父は意識不明の状態だったけど、僕を動揺させないため、母も姉も父が危篤であることを僕に言わないでいた。本当はそれ以前から何度も入退院を繰り返していたことすら、僕は何も知らなかった。翌日の朝にもあった姉からの催促で僕はようやく実家に帰る気になって、午前のみ授業に出て午後から帰省の途についた。
それから1週間の後、最後まで意識が戻らず集中治療室でいろんな管が刺さった状態の父は、僕と話すことも出来ないまま他界した。その悔しさがどれくらいなのかは分からないけど、僕と話せず悔しかったんだろうということは、親になった今ならようやく僕でも少しは分かる。
父が亡くなる数日前、篤志が僕の実家に現れたときには信じられないくらいびっくりした。スマホもカーナビもないどころか、携帯電話ですらまだ普及するより前の時代。初めて訪れた土地勘のない田舎で、年賀状に書いた住所だけを頼りに僕の実家にたどり着いた篤志は凄いと思う。きっとあちこちで聞いて探したのだろう。
「お前に呼ばれた気がしてな」
篤志はそういうやつだった。言わなかったはずの僕の気持ちを察して駆けつけてくれた。それまで張りつめていた気持ちがそのときずいぶん和らいだことを僕は覚えている。