心の整頓、そして急展開の前兆
だいぶ間が空いてしまい、申し訳ありません。
思いがけなくゼルドとの距離が縮まった日の、翌日の朝。目の下に隈を作りながらも、ロゼはいつも通りの時間に起床した。
「………うわぁ、ひどい顔」
備え付けの鏡にうつる少女の顔は、どう見ても健康そうとは言えないものだ。目の下にできた不健康そうな隈は一日でできたとは思えないほどに濃く、このまま定着してしまうのではないかという懸念さえもちらつく。
鏡に映るくたびれたような寝間着姿を、起き抜けの稼働していない頭で何となしに見つめる。頭に浮かんでくるのは、この隈の原因となった昨日の出来事だった。
「~~~っ」
ロゼは思わず喉から声にもならないような詰まった息を吐き出し、鏡の前に座り込んだ。
昨日のすべてが鮮明に思いだされ、嫌でもあの男の事を考えてしまう。
自分の太ももの下にある、力強く大きな脚。
腰に回された腕。
唇の輪郭を確かめるようになぞり上げた、熱い指先。
――そして、此方に向けられる、どろりとした粘度をもった瞳。
ロゼはその場にしゃがんだまま身震いし、両腕で自身を抱き込んだ。この体の内からの震えが、恐怖からのものではないことをロゼは理解していた。
……捕らえられるような、貪りつくされるような。
あの視線だけで、全てを暴かれてしまうような、そんな感覚。
ロゼは恋というものを体験したことがなく、またその感情を他人から向けられたこともなかった。だから今の、自分のこのぞくぞくするような感覚が普通のものなのか、それが分からずにいた。
―――ううん、私だけじゃない。多分…………ロードさんも、同じなのかもしれない。
なぜ今まで気が付かなかったのだろう。彼の目には、瞳の奥には、ずっとあの狂おしいほどの熱が宿っていたのに。
……本当に気が付かなかったのか。
自分の頭の、どこか冷静なところがそう問いかけてくる。
いつも自分に触れてくれるあの熱い手から、何も感じなかったのか。見つめてくる視線から、あの鼓膜を震わせる低い声から、自分は何も気付かなかったのか。
恐らく、期待が微塵もなかったと言えば嘘になる。浅ましくも少し期待し、触れられることに喜び………………そして同時に、その向けられた感情に切り込む勇気もなく、子供に向けるようなものなのだと勝手に落胆していた。
「――――」
ロゼはむくりと立ち上がり、昨日からずっと考えていることを頭の中で巡らせた。
――人にはそれぞれ、人に対する想いがある。ロゼのゼルドに対する想いは、間違いなく”恋情"だ。
……だがゼルドのロゼに対する想いが完全に自分と同じであるとは、ロゼには思えなかった。
大切に思ってくれていることは、痛いほどにわかる。今更それを疑うことはしない。だがその中に果たして、ロゼと同じ想いがあるのか。
友愛、親愛、情愛…………切り離して考えることの難しい感情のうち、ゼルドがロゼに向ける、執着に似たものは恐らく、恋情のように一つに定義することが出来ない。
自分の思いを伝えるべきなのだろう。そして相手に聞くべきなのも分かっている。
だがここまで来ても、怖がっている自分が、そう小さくない心の内を占めている。決定的な言葉を口にして、その後に戻れなくなってしまうことが怖い。
もし自分が何かの間違いを犯して、彼に拒まれてしまったら。彼を好きでいることもできなくなってしまったら。
そうやって自分の足をがんじがらめにする見えない鎖は、ロゼ自らが断ち切るべきものだ。そう分かっているのに、心の中の小心者な自分が、未だに出てくるのを拒んでいる。幸せな未来だけを描くことなどできないと、恐れている。
己のわが身可愛さに、ロゼは自嘲した。これほどまでに自分が強欲で、自分本位で醜いなどとは以前は思わなかったことだ。
ゼルドに出会って、自分は随分と変わってしまったらしい。
―――あぁ、でも……もし、心を通わせ合うことができたら。彼を好いていると、私の全身全霊で伝えることができたなら。
いつかの日に脳裏によぎった、彼との未来を思い浮かべる。
――それは、とても幸せで、満ち足りた未来だ。
「――――……っよし!」
ロゼは勢い良く、自分の両頬を張った。
不安が、恐怖があるのなら、望む未来を思い浮かべればいい。彼を自分のものにするくらいの気持ちでやらなければ、与えられるものだけ教授するのでは、掴んだ幸せとは言えない。
「大事なのは……自信を、もつこと。……ふふっ、これもロードさんに教わったことですね」
彼がロゼに与えてくれたものの大きさに、顔を綻ばせた。こうやって彼のことを考えて、行動することは………………とても、とても幸せなことのように、ロゼには思えた。
顔を洗った後、毎朝の日課であるストレッチを行う。
ロゼは体が柔らかく、柔軟性を駆使した体の動かし方を得意とする。足場の悪い森の中で木に飛び乗ったり、戦闘中に空中で体を捻ったりと、そのしなやかな体と神力を生かして体を動かすのだ。
一通りの柔軟体操を終え、隊服に着替えた後に一度部屋を出る。朝食前にロビーにある自分あての配達物を確認しに行くのも、ロゼの朝の日課だった。
「あ、やっぱり来てた」
配達物の中には全体が生成り色の、縁に可愛らしい唐草文様の描かれている封筒があった。その見た目から、ロゼの実家であるアデライドの邸宅に住む母が、定期的にロゼに送ってくれる手紙だと分かる。筆まめな母は、自分からの手紙だと分かりやすいように毎回同じ封筒で送ってくるのだ。
「……あれ?」
いつものように封蝋をはがして開けようと裏返すが、封蝋が見つからなかった。どうやら完全密封状態の封筒のようで、ペーパーナイフを使って封をあけるしかないようだと気づく。それによく見てみれば、生成り色の封筒もいつものものとは少し異なり、幾分かぶ厚い紙でできていた。まるで、届く途中で誰かに開けられたり、透かして中身を覗かれたりすることを恐れているようだ。
―――何か、実家であったんでしょうか。
逸る気持ちを落ち着かせながら部屋に戻り、机の引き出しにしまってある銀のペーパーナイフを取り出す。
中の手紙を破かないように慎重に刃を滑らせ、封を切った。中から出てきたのは、いつもと同じ二つ折りになった白い手紙。
自分の杞憂かと、ほっと息をつき二つ折りになった手紙を開く。
しかし、手紙に綴られている文字に目を滑らせた瞬間、ロゼは息を吞んだ。
「―――――……っ!!」
最後まで読む間もなく、つい先ほど入ってきた部屋の扉を乱暴に開けた。背後で扉の閉まる大きな音がしたが、今のロゼにはそれに気を取られている余裕など微塵もない。その小さな足で限界まで早足で歩き、一つの扉の前に辿り着く。
「ロードさん、ロゼです!開けてください!」
コココン!とせわしないノックをすると同時に中に声を掛けるが、次の瞬間にはっと我に返る。
今の時刻は、朝の六時。戦闘職種である御使いにしてみれば早朝というほどの時間ではないが、人によってはまだ寝ていることもある時間帯だ。そんな時間に、自身の都合で、しかも異性の部屋に突撃するなど迷惑以外の何物でもない。それに、この事に関してはゼルドよりも隊長であるリデナスに報告すべきなのではないか。
しかしそんなロゼの葛藤や少しの後悔とは裏腹に、目の前の扉はすぐに開かれた。
「――どうした。なにかあったか」
目の前に立つゼルドは、既に隊服を着て身だしなみを整えていた。昨日の今日でこうして向かい合うことになり、どこか気恥ずかしさを感じてしまうが、今はそんな甘酸っぱい思いに浸っている場合ではない。
「私の実家が、家族が――」




