いいことばかりじゃない
「何をしている」
ゆっくりと此方に近づいてくる巨体。その怒りの対象が自分であると悟ったロゼは思わず後ずさりそうになり、そして自分の腕にハンスの手が添えられたままであることに気付いた。
休憩時間の終わりを告げる鐘が、聞こえてくる。だがそれさえも今のロゼには、遠くの音のように感じる。
「――ロゼ、お前の訓練相手は俺だろう。他の者がお前に訓練をつける必要はないはずだ」
「なっ、そんな言い方――」
「ハンス=イグニス」
ロゼに向けられていた昏い視線が、反論しようとしたハンスを射貫く。
「鐘が聞こえなかったか。お前は自分の訓練に戻れ」
その言葉にハンスはまた反論しようと口を開くが、言葉を発することなくぐっと押し黙り、そしてその場から早足で去ってしまった。
男はその姿に目をくれることも無く、ロゼに近付き、そして至近距離から見下ろした。
「……あそこまで、排他的に接しなくてもいいでは無いですか。あんなに優しい人に」
ロゼは俯きながら、そう零した。
ハンスは、善意でロゼに弓を教えようとしてくれていたのだ。その善意に対する感謝を、あんな言い方で終わらせて良いわけがない。彼とは新人隊からの付き合いだし、今迄も何度かこうして教わったことがある。ロゼの担当とはいえ、ゼルドがそこまで口出しする権利は無いはずだ。
そう思って口にした反論だったが、それは目の前の男の逆鱗に触れる行為でしかない。
ゼルドに対して自分の正当性を主張しようと、ロゼは顔を上げた。
そして愕然とする。
ロゼを見下ろす男の顔には、なんの表情も浮かんでいない。男の下にいるロゼの全身を捉えるかのような眼孔は鋭いのに、まるで月の光を失った帳のように昏いのだ。
―――この目。また、この目だ。
この男は、たまにロゼに対してこんな目をする。見ていてゾッとするような、何か戻れないところまで進んでいってしまっているような。そんな危うさを孕んだこの瞳を、ロゼは時折目にしていた。
「……お前は分かっているのか?今の男はお前に下心があるんだ。訓練だなんだと言って、近付いて触りたかっただけだろう」
「……なん、ですかそれは。彼はそんなことしません。もし下心があったのだとしても、自分で対処できます。……わたしは、あなたが思うような、守られる子供ではないんですから」
「どうだかな」
その突き放すような言い方に、恐怖よりも怒りの勝ったロゼは、自分の二倍はある長身の男の顔をきっと睨みつける。
「分かっていないのはロードさんです!何故、私が子供のように自分さえも守れない者だと?仮にも戦闘職種、一般の男性よりも余程私の方が自衛できますっ」
「――では聞くが。なぜこの状況でお前は逃げない」
この状況、とは。ゼルドの言葉に、ロゼは一瞬理解が追いつかなかった。
今ロゼは、ロゼの顔に長身の影が落ちるほどの至近距離でゼルドに見下ろされている。
……そう言えば、少しいつもよりも顔が近い、ような。
そう思った時、ロゼの背中にゼルドの手が、腕が回る硬い感覚が伝わってきた。普段の体格差からして、ゼルドが普通に腕を伸ばしても立っているロゼの背に届くことはない。今この男は背を曲げ、ロゼを囲うようにしているのだ。
「お前は、誰にでもこうなのか?誰が近づいても、触れても、こうやって逃げずにその腕の中へ入り込むのか?」
「先程の、は、違います。ハンスが私に触れていたのは、訓練だったからで」
舌がもつれそうになるも、何とか言葉にする。しかしこの男は無情にも、その主張を切り捨てるのだ。
「何も違いはしない。では今は何なのだ。お前はこうして囲まれても、退路を立たれても抵抗もしない」
「っそれ、は」
―――あなたが、特別なだけで。
しかしその想いは、口から出ることなく喉の奥に消えてしまう。
言えなかった。口にするほどの勇気が、今のロゼにはなかった。
「……離してください」
……自分の、今の感情が説明できない。言葉にできないだけじゃなく、本当に自分自身でも分からないのだ。
怒っているのかもしれない。友人を酷く言われたことに、そしてロゼを信用してくれないことに。それと同時に、とても――とても虚しくなるような、そんな感覚。
その感情に合わせて口から出た拒絶の言葉は、ロゼが思ったよりも硬く、冷たいものだった。
その言葉に、ゼルドは腕を解き、そして離れていく。下を向いているロゼには見えなかったが、足音で彼がこの場から立ち去ったのが分かった。
自分で言ったことなのに、その言葉に従ってあっさりと離れてしまうゼルドに、またも言いようのない感情が浮かんでくる。
―――なんでこうも、上手くいかないのでしょう。ただ好きなだけ、では駄目なんでしょうか。
恋はもっと、眩しいものだと思っていた。眩しくて輝かしくて、幸福に溢れた世界なのだと。なのに今、自分はこんなにも醜い。
「……顔、暫くはあげられませんね」
ロゼは一人、自嘲気味にそう零した。
その日の訓練が終わり、擦って赤くなった目をしぱしぱさせながら、ロゼは図書棟に向かっていた。今の自分の感情を紛らわせるのに、読書が最適だと考えたからだ。
「前に、フランチェスカ様に教えて貰った図書を見てみましょうか」
手元にあるメモを見ながら、ロゼはそう独りごちた。このメモは、フランチェスカがロゼに渡してくれたものだ。流麗な字で書かれているそれには、数冊の図書の名前が載っていた。
コツ、コツとかかとを鳴らしながら歩く音が、思った以上に回廊にこだます。自分以外に歩いている人がいないからだろうな、と思いながら、ロゼは曲がり角を曲がった。
「っと」
「――あぁ、申し訳ない」
曲がろうとしたところで誰かとぶつかり、ロゼは思わずバランスを崩してしまう。
ぶつかった相手は声からして男性のようで、ロゼに詫びを入れながら背中を支えてくれた。
「申し訳ない。書類を見ていたもので」
「いいえこちらこそ、前方不注意でした。すみません」
「おや、あなたは御使いの方ですか?」
「は、はい。第一聖師団第一隊所属の、ロゼ=シュワルツェです」
「ああやはり。失礼、会議で話題に出たことがあるものですから」
緑がかった茶色い髪をオールバックで後ろに束ね、人の良さそうな笑みを此方に向ける男性。白い神官服を着ていることからして神官、それも高位神官のようだ。
ただぶつかっただけなのだし、立場が上の方に対して話を続けるのもどうかと考えるロゼに、目の前の神官は、その糸目を少し開き、ゆったりとした口調で喋りかけ始めた。
「随分と稀な性質をお持ちのようで。いやはや、得難いものですな」
「っあ、いえ。そんな大層なものでは」
「いいや、素晴らしいものですよ。だが、注意されるがよろしい」
「っえ?」
男の突然の忠告に、ロゼは目を瞬かせる。
「いつの時代も、得難いものは狙われるもの。――特に、あなたのような人間はね」
そう言って目の前の男は、柔和な笑みを浮かべる。
そこでやっと、ロゼは先程から感じていた違和感に思い当たった。
目の前の神官は、ロゼに名を名乗っていない。格下であるロゼに名乗りたくないと言われればそれまでだが、どうもそれだけではなさそうだ。しかし正体を隠そうとしている訳でもないらしく、人のよさそうな笑みでただ此方を見てくるだけ。
―――ただの直感でしかないけれど。この直観は、大切にした方がいいやつだ。
「ご忠告に、感謝致します。それでは、急いでいるのでここで」
早くこの男から離れようと、ロゼは別れを切り出す。そして歩き出そうとしたロゼの背中に、男の声がかかった。
「――ご実家の方は、確かシュワルツェ商社でしたね」
「?はい、そうですが」
突然振られた話に、思わずロゼは振り向いてしまう。
だが神官の男はそれ以上を口にする様子もなく、それでは、と言ってロゼの来た道を歩いていった。




