26.ジークリフの負傷
楽しい時間が過ぎるのは早いもので、季節はそろそろ秋に差し掛かろうとしていた。
私は夏の間に気温差や暑さにやられ三度体調を崩して寝込んだが、それ以外は至って平穏な日々を送っている。
世は並べて事も無しである。
抱いていたはずの妖精に関する不安は充実した日常の中に埋もれ、薄れていった。結局のところ、心沸き立つ出来事や事件など絵本のようにそうそう起こりはしないのだ。
そんな日常でも、小さな事件はたまに起こる。今日はまさにそういう日だった。
早朝の教室で毎日繰り返される私とエイミー二人きりのお喋りの時間は、普段より早くに来たジークリフによって中断された。
ジークリフは私達の姿を認めると、すぐにこちらへ向かって来た。何か用件があるのだろうか。
よく見るとジークリフの左腕は包帯が巻かれており、少し血が滲んでいる。
「二人はこんなに時間から教室に来ていたのか。随分早いのだな」
ジークリフに話し掛けられ、エイミーは私の陰に隠れてしまったので、私がエイミーを庇うようにして答えた。
「お母さんがここの先生だからね。一緒に家を出るから早いの。それよりその腕、どうしたの?」
私が質問を返すと、ジークリフは腕の包帯をチラッと見て、苦い表情を浮かべた。
「……転んで怪我をしただけだ」
思ったよりも単純な理由だった。いつも悠然としているジークリフが転ぶ瞬間を想像して吹き出しそうになったが、ここで笑っては彼が怒り出すに違いないのでグッと堪えた。それに、血が滲んでいるという事は傷が塞がってないのではないだろか。ちゃんと治療した方が良い気がする。
そこでふと疑問が浮かび、尋ねてみた。
「ジークリフ、区長様の所のお坊ちゃんなのに、ちゃんとした治療も受けられないの?」
「な、そんな訳ないだろう! 我が家の専属医にきちんと手当を受けている。だかこの傷は……いや、何でもない」
私の言葉が気に障ってしまったらしく、少し怒らせてしまった。怪我について何かを言いかけていたが、どうしたのか言葉を濁してしまった。気にはなるが、追求してもまた怒られるのが容易に想像付くのでやめておこう。
「何にせよ、ちゃんと治した方がいいわ。フローレス先生に頼んで、フィリア先輩の治療を受けてみたら?」
「聖女の癒しか、それならすぐに治るかもしれないな。ギードの治療を間近で見た事があるが、確かに見事だった」
そういえば、ギードが怪我を負って来た時に保健室に同伴したのはジークリフだったか。その時にフィリアの治療を見たらしい。
「しかし、フローレス先生はいつも不在と聞いているぞ。捕まるのか?」
「お昼はだいたい居るから大丈夫よ。私達、保健室でお弁当を食べてるから、今日は一緒に行きましょうか?」
どうせついでだからと誘ってみたが、ジークリフは嫌そうな表現を浮かべた。
「……先生が居るなら同伴はしよう。それよりも保健室を食堂代わりにするとは、相変わらず無法者だな、妖精女」
いつもの如く苦言を呈されてしまったが、もう慣れたものなので私は軽く肩をすくめて流しておくに留めた。
とりあえずジークリフの治療を行う予定が立った所で、私達の話はそこで切り上げられた。
授業が終わり、予定通りジークリフを伴って保健室へ向かう。
既に友人達には伝えていたのだが、やはり居心地が悪いのかエイミーとベラは私を挟んでスッと距離を取っている。マルティアだけは慣れた様子で世間話をしていた。
保健室に着いて勝手に入室すると、フローレスはいつも通り何かを調合していた。私達が昼に保健室を占領する事には既に慣れているので、フローレスも最近は何も言ってこない。
しかし今日は一人多い事に気付いたようで、フローレスは調合の手を止めて身体をこちらへ向けた。
「何だ、珍しいな。今日は区長の所の次男坊も一緒か。これ以上増えると部屋が狭くて邪魔だから、食事が済んだらさっさと帰りなさい」
普段と変わらない雑な生徒の扱いは私達には見慣れたものだが、ジークリフには衝撃だったのか、唖然としたまま固まってしまった。
仕方ないので、私が代わりに用件を伝える。
「ちゃんと見て下さい、ジークリフは怪我をしているんですよ。うっかり転んで怪我しちゃったんですって。フィリア先輩を呼んで貰えませんか?」
私は聞いた事をそのまま説明したが、転んだ下りは余計だったようでジークリフに睨まれてしまった。
「フィリアを呼ぶのは構わないが、あの子も今は食事時だ。先に私が見ておこう」
ごもっとも。どの生徒もお昼時なのですぐには呼べないだろう。
とりあえずフローレスが診察を請け負ってくれたので後を任せ、私達は昼食の準備を始めた。
食前の挨拶をしてお弁当からパンを手に取ったところで、突然フローレスの刺すような声が静かに響き渡り、私は驚いてパンをお弁当の上に落としてしまった。
「ジークリフ、これは転んで出来た傷ではないだろう。誰にやられた?」
いつも面倒そうに気の抜けた話し方をする彼女とはまるで雰囲気が違う様子に、私達は思わず視線を向ける。
そこで目に入ったのは、左腕の包帯を解かれ、流血の残る深い切り傷が剥き出しになったジークリフと、彼を冷たい目で睨むフローレスの姿だった。
私は採血で自分の血を見慣れているので耐性があるが、女の子には刺激が強かったようでエイミー達はヒュッと喉を鳴らしてすぐに目を逸らした。
それにしても、フローレスがここまで怖い表情をするとは何事だろうか。ジークリフと交互に見比べながら、私は首を傾げた。
私の疑問をよそに、二人の会話は続いていく。
「……転んだだけです。ここでの治療が難しいなら私は失礼します」
「いや、フィリアに治療させる。妖精による負傷は自然治癒か妖精でしか治せない。止血出来ていないのもそのせいだ。君はまだ自分で治癒出来ないし、普通の傷薬ではほとんど効果が無いだろう」
フローレスの説明に、ジークリフはギョッとしていた。
当然ながら、私も驚いて言葉を失った。エイミーとベラも驚いているが、マルティアは一際大きく衝撃を受けている。
私はたまたま学園長に教えて貰ったから知っていたが、マルティアもどうやら気付いているようだ。
そう、妖精で人に危害を加える行為は重罪なのだ。誤魔化して良い問題ではない。
どうりでフローレスが犯人を追及する筈である。
「さあ、答えなさい。誰にやられた?」
空気の凍り付くようなフローレスの声に、ジークリフは観念したように項垂れて、目を合わせないまま答えた。
「……ヴァルクリオ……兄さんです」
室内がシンと静まり、しばしの沈黙が流れた。
まさか兄弟間で危害を加えるような行為に及ぶとは、どんな事情があったのだろうか。
フローレスは考え込むように額を押さえていたが、暫くすると顔を上げて話を続けた。
「怪我の理由を誤魔化したのは、兄を庇っての事か。もう少し話を聞く必要がありそうだな。セシリィ達は食事が済んだら今日はお喋り禁止だ、すぐに帰りなさい」
事情聴取をするから私達はさっさと帰れ、という事らしい。他所の家の事情なんてプライベートな話題を部外者に聞かせるわけにはいかないので当然だろう。
私達は了承して急いで昼食を済ませ、保健室を後にした。
「あら、セシリィ。今お帰りなのね?」
「はい、そうです。さようなら、フィリア先輩」
いつの間にかフローレスが呼んでいたのだろう。保健室の外で丁度フィリアと鉢合わせたので、私達は挨拶だけを交わしてその場で別れた。
「ジークリフ様、お兄ちゃんと喧嘩しちゃったのかな」
帰り際、ベラがポツリと零した。
ジークリフの事が苦手な彼女だが、同じく兄を持つ身として心配だったのだろう。本当に素直で良い子だ。
「そうかもね。でも、きっとすぐに仲直り出来るわよ! だって兄弟ってベラとベルみたいに仲良しなものでしょう?」
私が元気付けるようにそう言うと、ベラはほわっと笑った。
「うん、そうよね。そうだといいな」
彼女の笑顔を見て、私も笑顔で大きく頷いた。
そう、皆が幸せなのが一番。平穏が一番。
これからもきっと、世は並べて事も無しだろう。




