8 夫のとんでもない事情
過去話が終わり、第一章の時点の話に戻ります。
「本日を以って私は離婚することに致しました」
何の脈絡もなく突然彼女は言った。それは侯爵家で催した夜会が終わった直後のことだった。
その場に残っていたのは、侯爵とその息子である次期侯爵、そして今発言をした次期侯爵夫人。そして侯爵の娘である公爵夫人とその夫。
それから執事を含む本邸に残っていた使用人達と、別館の侍女とメイド、そして商会の支配人だった。
助っ人に来てくれていた方々には十分過ぎる謝礼金を渡して、既に帰していた。後片付けは屋敷の者でやりますからと告げて。
そして侯爵夫人はどうしたのかというと、お酒を呑んで大いに盛り上がり、友人達と共に屋敷を出て行ってしまったのでその場に居なかった。
次期侯爵夫人の離婚宣言に夫は茫然自失となり、侯爵は慌ててそれを撤回させようとした。
しかし執事によって次々と彼らが彼女にしてきた無慈悲な行為を追求されると、いかに自分達の置かれている立場が弱いものなのかが見えてきた。
そこで追い詰められた彼らは卑怯にも子供を使って彼女を引き止めようとした。
しかし、それは無駄な足掻きどころか最大の悪手だった。
息子の嫁は軽蔑の眼差しを義父に向けると、静かにこう言った。
「娘を渡さないですって? そんな権利は貴方方にはとうの昔にないのですよ」
「どういう意味だ? あの子はこの侯爵家の孫であり、息子の次の後継者になる可能性だってあるのだぞ」
「子供の親権を持っているのは私だけですよ。父親は娘などいらないと言って放棄したので。既に二年前にはその手続きは済んでいますわ。
ですから娘をここに閉じ込めたら拉致監禁罪になりますよ」
「なんだと! お前はなんていうことをしたんだ。あんなかわいい娘を捨てようとするなんて。この愚か者め!」
どうやら侯爵は、二年前の出来事の詳細を全て把握しているわけではなかったようだ。項垂れている息子を見て怒鳴りつけた。
「お義父様、そんなに怒ることはありませんでしょう?
夫の後継者なら、これからいくらでもお作りになれるのですから。私と離婚して新しい奥様と。
もしくはお義父様ご自身が、これから奥様とお作りになったら良いではないですか。まだまだお若い奥様なのですから」
「失くなった妻以外の女性に、私の子を産ませるつもりはない」
「君以外の女性との子供なんていらない」
父と息子が同時にとんでもない発言をした。それを聞いた妻は信じられないという驚愕の表情をした。
そして取り敢えず息子の方、つまり今現在まだ夫である男に向かってこう言った。
「何を言っていますの?
二年前お腹の膨らんだ女性をこの屋敷にお呼びになって、生まれて来る子を跡継ぎにするつもりだから、娘を連れて出て行けと仰ったのは貴方ですよ」
「あれは私の子ではない」
「そんなことは関係ありませんわ。それはたまたまですわ。貴方の子だったとしてもおかしくなかったのですから。
もし、あの時の子供が本当に貴方の子供だったら、その子を跡継ぎにするおつもりだったのでしょう? それなのに今更娘に固執する必要はないでしょう?
これからは浮気されないように最初から屋敷に閉じ込めて暮らせばよいのですよ」
「違う、違うんだ」
「何が違うのですか?」
いつものように一向に真実を認めようしない夫に、さすがの妻もイライラしてきた。すると夫はとんでもないことを言い出した。
「私が愛しているのは君だけだ。過去も現在も未来も……」
「よくそんな白々しいことを言えますね。私と離婚したいと言ったのは貴方なのに」
「自分の意志で言ったんじゃない。言わされたんだ。私は……私は……」
何か言いたいのに言えないと、夫が苦しげに口を閉じかけた時、少し離れた場所にいた商会の支配人をしている中年男性がこう口を開いた。
「若旦那様、もう本当のことを話してしまいましょうよ。このまま黙っていたら、貴方もこの侯爵家も商会もおしまいです。
若奥様がいらっしゃらなくなったら、貴方はどうせ廃人同然になってしまいますよ。
もうあれから一年半も経っているんですよ。もう限界です。旦那様もよろしいですよね?」
「ああ、そうだな。もう、これ以上国に義理立てることもあるまい。確かにこのままでは侯爵家は崩壊だ」
支配人の言葉に侯爵も同意した。すると、ようやく夫が徐ろに口を開いた。
「私は……私はあの女に薬を盛られて、服従させられていたんだ。あの女に命じられて君に離婚を迫り、愛する娘まで捨てると言わされたんだ」
「「「・・・・・」」」
思いもよらない意外過ぎる告白に、その場にいた者達が絶句した。
「若奥様、今若旦那様が仰ったことは本当のことでこざいます。
最初からおかしいとは思っていたのです。
確かに若旦那様はよく女性に手を出してはいらっしゃいましたが……」
「おい!」
「その全ては軽いもので、単なる遊びというか、コミュニケーションと申しますか。相手も皆それを弁えておりましたよ。
何せ若旦那様が若奥様一筋なのは世間では有名でしたからね。それならそんな遊びなどしなければいいとは思うのですがね」
『全くだ…』
父親である侯爵以外の、この場にいる全員がそう思った。
「ところが若旦那様の軽い誘い言葉を本気にした馬鹿がおりましてね。それが例の子爵とその令嬢でした。
その子爵とは茶葉の取引をしていたのですが、どうやら陰で闇の取引もしていたらしくて、親子で商会にやって来る度に若旦那様の飲み物に、こっそり怪しい薬を垂らしていたみたいなんです。
しかしあの女がお産で実家に戻っているうちに薬の効果が落ちてきて、若旦那様も徐々に正気に戻ってきた時に子供が生まれたんですよ。
どう見ても子爵家の使用人の種だとわかる子供がね。
我々商会の人間がすぐにその使用人を捕まえて白状させたら、案の定子供の父親はその使用人である若者でした。
そこですぐに知り合いの警邏隊員に内偵してもらったら、なんと若旦那様は薬を盛られていたということがわかったんですよ。もちろんその薬も押収できました」
支配人が理路整然とわかりやすく説明してくれたので、みんなはすんなりと、二年前の真実を理解することができた。
『若奥様を溺愛していた若旦那様が、あんな小娘に夢中になって離婚しようとするなんて、おかしいと思ってたんだよな』
『目に入れても痛くないほどかわいがっていたお嬢様を手放そうとするなんて、絶対にありえないわよね』
『大体正常な頭をしていたら、あの若奥様を追い出したらこの侯爵家がどうなるかなんて一目瞭然。絶対にそんな真似しないよ』
使用人達は互いに目線だけでこんな会話をし合った。
やがて最後まで黙って話を聞いていた公爵夫人が徐ろにこう口を挟んだ。
「それって、どう考えてもお家乗っ取りよね。どうして慰謝料を取って子爵家を潰しただけで公には罰せられていないの? 侯爵家の恥になるからってあの件を有耶無耶にしたの?」
「違う。公に処罰するのはこれからだ。取り調べをしているうちに、子爵家の後ろには闇の取り引きを仕切る裏組織があることがわかったんだ。
それを国に報告したら、我が家だけではなく、あちらこちらで薬による犯罪の被害が出ていたことがわかったんだ。
そこで、この機会に一気にその悪党どもを炙り出そうということになって、元子爵家の連中のことも泳がせるために見逃したんだ。
それに国から箝口令が敷かれていたから、家族にもこのことを話せなかったんだ」
と侯爵が言った。
「最近息子が接触していた男爵家の未亡人も、この事件の情報提供者であって浮気相手などではない。諜報機関から依頼されて会っていただけだ。
大体あの子爵令嬢の件で散々君を傷付けたのに、それに懲りずにまた浮気なんてするわけがないだろう。
息子は妻である君だけを心底愛しているのに。亡き妻だけを愛している私と同じだ」
「「「・・・・・」」」
「最後のお父様の言葉で、お兄様の気持ちまで信用できなくなったわ」
「何故だ?」
「止めてくれ!
私の飲まされた薬は服従薬で媚薬ではなかった。いや、それどころか精力が減退する副作用があったんだ。だからあの女とは体の関係なんてない。
しかしあの女は既成事実を無理矢理にでっち上げるために、子爵家の使用人に媚薬を飲ませて襲わせて妊娠したんだ!
私は精神的に服従させられていただけだ。確かに迫られはしたが、愛する妻がいるのに、だれがあんな気色の悪い小娘なんかに手を出すものか!
父上と一緒にしないでくれ!」
「何故だ?」
まるでコントような親子三人のやり取りに、周りの者達は固まった。そんな中で公爵が妻の義姉の耳元でこう囁いた。
「なんだか想像していた舞台とは趣向が変わってきましたね。シリアスからコメディータッチに……」
「本当ですね……」
少し困ったように彼女は言った。
本当なら夜会が終わったらみんなの前で離婚宣言をして、纏めてある最低限の荷物を持って、娘と共にこの侯爵家を出るつもりだったのに、と妻は思った。
行き先は義妹の屋敷内にある別邸。隠居した前公爵夫妻が領地に行っている間だけ、そこでお世話になるつもりだった。
そして住む家を探すつもりだった。実家は使用人達の寮にするつもりだったので。
二年前夫に離婚を求められてからずっと準備をしていて、一年前に義母が亡くなった後は、いつ離婚届けを出されても困らないようになっていた。
ところが契約の一年が経つずっと前に、夫は愛人と別れて屋敷に戻ってきてしまった。
そして離婚の話題などは一切出ないうちに義母が亡くなり、約束の一年も過ぎたが夫は離婚届を出さなかった。
それどころか、ろくな謝罪もせずに図々しくも復縁を求めるような素振りをしてきたので、妻は屋敷の者達の協力を得て夫を追い払っていた。
すると、さすがに妻にはもう相手にされないとわかったらしい夫は、やがて男爵家の未亡人と付き合い始めた。
だから今度こそ離婚届が提出されると思ったのだが、一向にそれは実行されなかった。
そんな不安定な日々に妻が疲れ果てて嫌気がさしてきた頃、侍女頭や主な使用人達が屋敷を辞めることになった。そのことでようやく彼女も踏ん切りがつきかけていたのだが……
読んで下さってありがとうございました。
次章で完結となります。続けて投稿します。




