3 愛されている若奥様
一年半前、たった一年で運命の人である子爵令嬢と別れた夫は、いかにもそれが当たり前だというように侯爵邸に戻ってきた。妻に簡単な謝罪の言葉を述べただけで。
騙されたとか、利用されたとか、あの時は正気ではなかったとか、ブツブツ言っていたが、それは浮気男の言い訳の常套句だ。
もっとはっきりと説明してと妻が要求しても、夫はモゴモゴと口籠るばかりで、その態度が余計に彼女の神経を逆なでした。
ただし、いくら鈍感で図々しい夫だったとしても、出て行く半年前とは屋敷の雰囲気が違っていることだけは感じていたようだ。
使用人達は必要最低限のことしか夫である次期当主には話しかけてこなかったし、彼の方から話しかけてもそれは同じことだった。
若い使用人達はスキャンダラスな次期当主しか知らないので、彼を軽蔑していたし、彼が優秀だと評判だった頃を知っている古参の使用人ですら、次期当主を既に見限っていた。
そもそも滅多に屋敷に戻らず、連絡先さえよくわからない者を頼るのは無駄だ、ということはとうの昔に皆の共通認識になっていた。
それはもちろん次期当主に限らず現当主にも言えることで、侯爵夫人が元気だった頃から、屋敷の相談事は全て夫人達に頼っていた。
自分達が侯爵夫人に頼り過ぎて無理をさせてしまったから、彼女は体調を悪くしてしまったのではないか……
使用人達は侯爵夫人に申し訳なく思うと同時に、侯爵やその息子への不満や怒りを次第に募らせていった。
そこへ持ってきて、今度は親子揃って女を囲ってさらに屋敷に戻らなくなったのだから、僅かに残っていた主に対する尊敬や忠誠心も跡形もなく消え去ったのだった。
侯爵夫人が病で倒れた後、次期当主夫人が背負った負担は、想像以上だった。
彼女は普通の嫁とは違って元々侯爵家で育っていたし、義母からしっかりと侯爵夫人としての教育を受けている、かなり優秀な女性だった。
それでもまだ若い女性が一人で背負うには荷が重過ぎる。このままでは侯爵夫人の二の舞を踏むことになる。そんなことになったらこの侯爵家は終わりだ。
執事や侍女頭はなるべく屋敷に戻ってきて欲しいと、何度も己の本来の主達に懇願の手紙を認めた。
奥様(お母上)のお見舞いをして欲しい、若奥様のご負担を減らして欲しい、お嬢様にお顔を見せてあげて欲しい、屋敷の内情を把握して欲しい……
しかしそれに対する返事は一切なく、その願いが叶うことはなかった。そしてもちろん戻って来ることもなかった。
その上二年前には、当主だけでなく次期当主までが、突然愛人を連れて来て、使用人もいる中で離婚宣言をしたのだ。
侯爵家の者達はあの時全員がこう思った。
「若奥様は奥様のためにこのお屋敷に残られたのだ。
それ故に望まないその日がいずれ訪れたら、その時こそ間違いなく、若奥様はお嬢様を連れて出ていかれるだろう。
だから私達は若奥様がここにおられる間は精一杯お仕えし、若奥様がこの屋敷を出る際には一緒にお暇をしよう」
と。
使用人達は一致団結し若き女主をフォローした。そしてこの屋敷を辞めても他所で雇ってもらえるように、若い使用人達を厳しく躾けた。
若い使用人達も先輩方の気持ちをよく理解していたので、その厳しい指導に対して恨み言も言わずに、精一杯己の仕事に励んだ。
そして若き女主も自分の今後のことよりもまず、使用人達の身の振り方を心配し、看病や子育て、家政をしながらもあちらこちらで内密に再就職先を探した。
そして半年後の想定外の夫の帰宅前には、既に使用人達だけではなく、彼女の今後の目処も立っていた。
何故そんなにスムーズに事が進んだのかと言えば、この侯爵家の娘で今は公爵夫人になっている義妹が手を回してくれたからだ。
「馬鹿ぁー、なんで何も言ってくれなかったの? 貴女がそんな目に遭ってるなんて知らなかったわ。お母様も何もおっしゃっていなかったし」
夫が愛人の下へ行って暫く経った頃、侍女頭から手紙をもらって飛んできた義妹は、泣きながら義姉に抱きついた。
義妹は名門公爵家の夫人として、そして二人の男の子の母として毎日忙しくしていたが、週に一度は必ず母親の見舞いのために実家にやって来ていた。
しかし平日だったために、父親や兄が屋敷にいなくても何の疑問も持っていなかった。
それに母親も何も言わなかったので、まさか侯爵家の男二人が揃いも揃って外に女性を囲って、病気の妻(母親)を放置していると思ってもいなかったのだ。
し・か・も、義姉を溺愛して無理矢理結婚した兄が愛人に子供を孕ませた挙げ句に、たった一人のかわいい姪と共に親友でもある義姉を追い出そうとしただなんて。
そんな暴挙を許せるわけがない。
「ほうら、公爵夫人だというのに、私のこととなると貴女はすぐに感情が露わになるでしょ。だから貴女には黙っていたの。お義母様にだけは知られたくなかったから。
これ以上お義母様を苦しめたくはないから。貴女にもわかるでしょう?」
義姉の言葉に義妹も深いため息をついた。
「そうね。でも大丈夫。私もいつまでも娘じゃないわ。二人の子持ちなんだから、それくらいの芝居できるわよ。
それに私だってあんな状態のお母様をこれ以上苦しめたくないもの。
あのお母様のことだから二人の浮気のことはとうにお見通しでしょうけど、まさかお兄様が貴女との離婚を宣言するだなんて思いもしないでしょう。
だから知ったら酷いショックを受けるに決まっているわ。絶対に秘密にする」
「ありがとう」
「ありがとうだなんて。私は貴女には本当に申し訳なくて。まさかあの兄がそんな酷いことをするだなんて。
学生時代に貴女に両想いの相手がいることをわかっていながら、無理矢理婚約を結んだでしょう。私は兄を許せなくてなじったの。人でなしって。
そうしたら兄は私の前でこう言ったわ。
『いくら本人達が愛し合っていたって、両親だけでなく親類一同に反対された結婚なんて幸せになれるはずがない。ボロボロになった挙げ句に捨てられるのがオチだって。
だけど僕と結婚すれば嫁姑だけでなく小姑の問題も無いから、余計な苦労をかけずに幸せにできる。元々私達は家族なんだから…』
って。絶対に貴女を幸せにすると言ったから引き下がったのに」
兄を許せないと義妹は泣いた。
この侯爵家に引き取られた時、義姉は両親を亡くしたばかりで、まるで抜け殻のようになっていた。ほとんど喋らないし笑わない。
そんな彼女の感情を取り戻したのは、半年違いの侯爵家の令嬢だった。
金色のふわふわヘアーに明るくて大きな水色の瞳を持つ、まるで向日葵のように光り輝く愛らしい少女で、貴族令嬢には珍しく喜怒哀楽を素直に表現する子供だった。
本当なら同じ年でしかも同性の子供が引き取られてきたら、親の関心を奪われると思って嫌がるものだろう。
しかし義妹は違った。愛想がなく何に対しても無反応な相手にも、色々な感情をぶつけた。
そんな義妹のおかげで彼女は徐々に心を開くことができたのだ。
彼女にとって義妹は、大切で愛すべき家族であり、幼馴染み、親友、そして救世主だった。
「私ね、この家に引き取ってもらえて幸せだったわ。
もし貴女やお義母様と暮らせていなかったら、きっと感情のない人形のままで、ろくな人生を送れていなかったと思うの。
それに、この結婚、完全な失敗だったというわけでもないわ。お義母様や貴女と本当の家族になれたし、かわいい娘にも恵まれた。屋敷のみんなにもよくしてもらえたし。幸せだったわ。
それと……今頃こんなことを言うのもなんだけど、本当は、好きな人と別れてイヤイヤあの人と結婚したわけでもないのよ。
あの伯爵令息とのことは、今思うと初恋というより、単なる憧れだったんだと思うわ。
だって普段貴女のお兄様からは女扱いをされていなかったでしょう?
だから、お姫様扱いをされてのぼせてしまっていただけ。
本当はね、ちゃんとあの人を愛していたの。だから、小さな浮気くらいなら目を瞑れたのよ。
陰ではいつも私達を守ってくれていることはわかっていたしね。
でも、娘と共に出て行けと言われた瞬間に、その愛情は消えたわ。
だって妻としてだけではなく、家族としての情も無いと言われたんだもの。
でも、私のお義母様と貴女への気持ちはこの先も何も変わらない。
いつかこの屋敷を出ることになっても、私達は家族だと思ってもいいのよね?」
「当たり前じゃない!
私達は姉妹で親友よ」
義姉妹は抱き合って泣いた。
そしてその後、今後のことをじっくりと話し合ったのだった。
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