魔幻~地球~夢の記憶④
……桜井!……桜井!!
――遠くで誰かが呼んでいる。
「桜井!!瑞月!蒼月!どっちもだ!!」
蒼月ははっと顔を上げた。
……教室だった。クラスメイトが皆こっちを見ている。
前を見ると桜井瑞月が、俺は今何処にいるのだろうといった風情で、辺りを見渡していた。あ、私じゃなかったんだと蒼月は一瞬安堵したが、榎戸先生の顔を見るとそうでもないらしい。
「ダブル桜井、いい度胸だな。授業開始5分で熟睡するとは。」
「すみません。」
瑞月が小さく呟いている。
「別に謝る必要は無い。只、これだけは言っておきます。皆も良く聞きなさい。今授業に付いて来られなかったら、この学校では本当に今後も付いて来られなくなる。今が一番大切な時期です。そんな期間は人生の中でもそう無いですから、心行くまでとことん勉学を楽しんで下さい。」
「はい。」
「うん、分かったならいい。でも、君達二人は罰当番です。放課後、教室に残りなさい。」
「はい。」
「蒼月、続きから読んで。篠原、教えてあげなさい。」
蒼月は振り返って、後ろの席のクラス委員長に朗読する箇所を聞いた。彼は眠そうな顔で頁を指差し、蒼月は礼を言ってテキストを読み始めた。
★★★
「蒼月、瑞月、待たせたな。」
担任の榎戸遥眞がプリントの束を抱えて、教室に入って来た。
このクラスでは、二人とも名前で呼ばれている。入学して早々、クラス委員長の篠原良平にそう宣言されたからだ。丁度一年程前、出席番号順に並んだ彼等の席に近付き、彼は聞いてきた。
「桜井君、桜井さん、君達は双子なの?」
ううん、と二人は首を振った。
「へえ、そうなんだ。何となく雰囲気が似てるから。桜井って姓がかぶるのも珍しいよな。鈴木とか佐藤じゃなくて。」
「そう言えばそうよね。私も初めて。」
「でさ、この学校は卒業までクラス替えが無いじゃない。クラス委員長として、同じ姓が二人いると何かと面倒くさいから名前で呼んでいい?」
「あ、なるほど。私は構わないよ。」
「俺も。」
「じゃあ、そういうことだから。」
篠原は何となく周りに宣言する。それ以来、彼等は名前で呼ばれることとなった。最初のうちは瑞月君とか蒼月ちゃんなどと呼ばれていたが、今ではすっかり呼び捨てが定着していて、教師も例外では無い。まめに席替えをするクラスではあったが、今は新科目の教師が覚え易いようにと元の出席番号順で並んでいた。
「どうしたんだ、二人とも。居眠りなんて珍しいじゃないか。何か悩み事でもあるのか。」
榎戸は心配そうに聞いてくる。
「いえ、別に……。何だか最近眠りが浅くて、夜に熟睡出来ないだけです。」
「私もそうです。悩み事なんてありませんけど、良く眠れなくて。」
そうか、と榎戸は頷いた。
「それなら、いい。進級して生活リズムに慣れていないのかもしれないな。実は僕も眠いし。」
そう言いながら、彼はふわあと大きな欠伸をした。
「ん。じゃ、これ罰当番な。」
二人の前に、どさっとプリントの束が置かれた。
「今の単元が終わったら、次にやろうと思っているんだ。コロンブス以前のアメリカ史なのだけど、面白そうな記述を色んな資料から抜粋してコピーしてある。全然整理してないから、時代順に並べ替えてくれ。」
榎戸は事も無げに言った。
「……あの、先生、いいですか。」
「何だ、瑞月。」
「コロンブス以前のアメリカ史なんて、どこの、何の試験で出るのですか?」
「良い質問だ。恐らく、どこの何の試験にも出ない。だから、どこかの何かの試験に出たら、僕に感謝するぞ。」
「……そうですね。」
「いいか。この学校の生徒なら、コロンブス以降の米欧史なんて出来て当たり前だ。まあ、楽しんでやりなさい。僕は職員室にいるから、並べ終わったら持って来いよ。」
二人は肩を落として頷いた。
★★★
教師が去ってしまうと、しん……とした静寂とプリントの束だけが残った。グラウンドから、運動部の元気な掛声が遠く聞こえている。
「……やるか。」
「そうね。」
二人は目の前の書類に手を伸ばし、黙読を始めた。
「うわ、何これ。イ……エ族?イ……オ族?ウ?……発音が全然解らない。
「こっちはインカなのかしら。見たことの無い名詞が有り過ぎて、何について書いてあるのだかさっぱり……。」
ふうと二人は天井を見上げた。
「……よし、蒼月。内容は措いといて、年号らしきものが出て来たら順番に並べていこう。」
「あ、それいいわね。全部を理解しようと思ったら明日まで掛かっちゃうわ。」
「じゃあ、こっちの席が大昔な。あっちの端がコロンブスに近いほう。」
「分かった。」
彼等はプリントを半分に分けて、年号だけを拾いながら並べていった。よく分からない物だけ外しておいて、相談しながら何となく配置する場所を決める。
「大体こんなもんかな。」
「そうね。じゃあ、先生の所へ持って行こうか。」
「ああ。……ふわぁ、眠い。」
瑞月は大きく欠伸をした。それに釣られて蒼月も欠伸をする。
「ちょっと瑞月、やめてよ。移るじゃない。」
「だって凄え眠いんだもん。」
「勉強のしすぎじゃない?」
「そんなことないよ。最近、本当に眠りが浅くって。」
「榎戸先生じゃないけど、心配事でもあるの?」
「俺ってそういうタイプに見える?」
「見えない。」
「だろ。……熟睡出来ないで、夢を見るんだ。やけに鮮明な夢だから、妙に印象に残ってしまってまた同じ夢を見てしまう。そんな感じ。」
「それなら分かるわね。どんな夢?」
「ん?まあ、いいじゃないか。」
「そう言われると気になるよ。」
「人の夢の話程つまらないものは無いよ。」
「私は割りと楽しめる方だけど。」
「そう?でも、今朝の授業中の夢はもう少し見ていたかったな。……俺に許婚がいて、やっと再会したって夢。」
蒼月の顔から笑いが消えた。
「それって……夢よね?」
「勿論。今の俺は学生で、許婚なんていないもん。」
「今のあなたは……?」
「そうだよ。どうしたんだよ、蒼月。顔が怖いよ。」
「あ、ごめん……。今のあなたは学生……よね。でも、昔は……?そうじゃ無かった?白馬に乗った……いや、違う、黒馬に乗った王子様?だったら……。」
「だったら……何?」
「な、何でもない。」
「何でもなく無いだろう。」
「夢の話でしょ。」
「そうだよ。でも、気になるんだ。蒼月、俺の夢がどんな夢だと思ったの?」
「えっと……黒馬の王子様は、小さい時に王女様と結婚の約束はしていたのだけど……それ以来会っていないから、婚約者っぽくしようと頑張っている夢……。」
ほんの少し残っていた、瑞月の笑みが消えた。
「…………その通りだよ。」
瑞月は愕然とした表情で、蒼月を見つめている。蒼月は、そんな瑞月を見ているうちに小刻みに震えてきた。有り得ないような可能性が、頭の中を真白にする。
「……蒼月、お前は何なんだ。」
瑞月が、怖い顔をして蒼月に迫った。返事をしたくても、咽の奥が貼り付いたように声が出て来ない。
「何故、俺の夢を知っている。」
蒼月は必死に首を振る。
「答えろ!!お前は何なんだ!?……夢使いか?テレパスか?それとも、覚りの妖怪の類なのか!?」
「違う!私はそんなんじゃない!!」
「じゃ、何だ!!」
「私は動物使いよ!!」
蒼月は思わず叫んでいた。
「何だって…………?」
「あ……。」
「動物使い…………?」
「あの、あたしはっ……。」
焦点の定まっていなかった瑞月の目に、はっとしたような光が宿り、それは蒼月に問い掛けてくる。
「嘘だろ…………。」
「…………。」
「……キラなのか?」
「あ、あたし……。」
「そうだな?キラなんだな!!」
その瞬間、蒼月は瑞月に抱きしめられていた。蒼月には一瞬何が起こったのか分からなかった。自分の顔が、紺のブレザーに押し付けられていることに気付き、ようやく事態を把握する。
「…………いた。こんな近くにいた……。」
背中に回された手に力が込められる。
蒼月は、頭からさーっと血の気が引いていく感覚があったが、こんな所で倒れてなるものかと意識を総動員し、瑞月に声を掛けた。
「……み、瑞月!」
「何?」
「何、じゃないわよ!離してよ!」
「離すもんか!時代を超えて巡り会った恋人だぞ!」
「き、気持ちは分からなくもないけど、私かなり混乱してるのよ!余計混乱するから離して!」
「やだ。」
「やだじゃないわよ!」
「蒼月。」
「何よ!」
「蒼月。いや、蒼月さん。好きです。僕と付き合って下さい。」
「あんた、人の話聞いてるの!?」
「聞いてる。好きだ、蒼月。」
「……瑞月。あんた、さっきまでそんなこと1ミリも思って無かったわよね。」
「状況が変わった。……ね、蒼月。」
「何!」
「キスしていい?」
「っい、いい訳ないでしょ!!」
「つれないなあ……。キラはしてくれたのに。」
「キラは生まれながらの王女だけど、生憎私は生まれながらの日本人なの!」
「あ、そう。……ね、お前は俺に感じるものが何も無いわけ?折角こうやって巡り逢えたのに。」
「ショックの方が大き過ぎるのよ!夢の内容も衝撃的だけど、この状況にもかなり混乱しているの!お願いだから離して!」
「あ……。本当に顔色が悪いな。……じゃあ、ちょっとだけハグしてよ。そしたらちゃんと離すから。」
「え?……あ、そう?本当に、絶対に離してよ!」
「うん。」
蒼月は、これじゃまるでキラの行動パターンだわと思いながらも、瑞月の背に手を回して軽く抱きしめた。
★★★
…………ちゃぽん…………
水音がする。
…………ちゃぽん……ちゃぽ…………ぽあん…………
水滴は場所を変えて滴り落ち、美しい音色を響かせる。
――そこは、鍾乳洞だった。人知れず存在する深い洞窟。何千何万という歳月が織り成した、神秘的な岩の造形と大きな水溜り。多くの人と時代が過ぎゆく中、一滴の雫が少しずつ形を変えてゆく。
岩壁には小さな穴が存在し、幾筋かの光線が天井から降り注いでいた。それは滴り落ちる雫をきらきらと反射させ、静謐な池を映し出し、雫の波紋が広がっていく様子を照らしていた。
何て美しいの――。
涙が溢れ出す。私が生きようが死のうが、泣こうが笑おうが、人知れず淡々と繰り広げられていく自然界がある。直向に、ただ只管に。どんな場所でも、いつの時代にも光を投げ掛け、前に向かって歩もうとする勇気を与えてくれる。
自分は小さい――本当にちっぽけな存在だ。しかし、こんな自分も、この大自然を構成する一滴の雫なのだ――。
…………ちゃぽん……ちゃぽ…………ぽあん…………
音は続く。
……何が見えるの。
遠くで声がする。
……鍾乳洞。光が射していて、とても綺麗……。
……そう。少しは落ち着いた?
……うん。
……良かった。何故泣いているの。
……泣いている?
……泣いているよ。
……あら、本当だ。多分……懐かしいのよ。そう、懐かしいのね。私、前にも此処へ来たことがあるわ。かつて……こんな景色を何回も、ううん何百回も見てきたのよ……。何故忘れていたのだろう。忘れることが出来たのだろう……。忘れていたなんて、信じられない……。
……仕方がないよ、長い時が経ったのだから。これからはまた、ずっと見られるよ。
……そうなの?……それは何故?
……それは……僕がいるから。
★★★
はっと蒼月の意識は現在に戻った。
「おかえり。」
瑞月はにっこりと笑った。
「癒者……。」
「うん。」
瑞月は蒼月の頬を拭ってくれている。
蒼月は、瑞月から目を離すことが出来なかった。――そう。嘗て自分は、何度もこうやって癒して貰ってきたのだ。
「さっきよりも大分血色がいいみたいだ。……もう少しこのままでいる?」
「え?」
言われて気付くと、蒼月は瑞月の袖をしっかりと握り締めていた。
「ええっ!?あ、ごめん!」
「そんなに大急ぎで離さなくてもいいのに。」
瑞月は蒼月を少し引き寄せてから、約束通り彼女を解放した。離れ際、蒼月は額に温かく濡れた感触を受けた。
「キスはしないって言ったじゃない!」
「ちょこっとおでこにしただけじゃないか!折角落ち着いたのに、また貧血を起こすぞ。」
「うう……誰がそうさせてるのよ。」
蒼月は近くの席に倒れ込むように腰掛け、手で顔を覆った。頭の奥がぼうっとしている。
「……蒼月、大丈夫?」
「……うん。」
ふと顔を上げると、瑞月が心配そうにじっと自分を見ていた。
「えっと……ごめんなさい、取り乱して。あの、瑞月。何であなたはそんなに平静なのよ。」
「……どこが……どこが、平静なんだ?……だんだん恥ずかしくなってきた。ごめんね、嫌がっているのに離さないなんて。」
決まり悪そうにしている瑞月を見ているうちに、蒼月は次第に冷静さを取り戻していった。何故か、遠い昔に感じた懐かしいような気持になる。
「本当にもう!先に手を出しておいてから謝る!……あんたって、本当にソーマなんだわ!」
蒼月は思わず笑ってしまった。
「だから後から反省するんだよ。」
瑞月は反論するつもりなのか口を開き掛けたが、ふと口を噤んで考え込んだ。蒼月も、日常的な会話のテンポを取戻すにつれて、この非日常について訳が分からなくなり、瑞月と同じように頭を抱えた。
「ね、蒼月。」
瑞月は顔を上げた。さっきまでとは違い、とても真剣な目をしている。
「お前は……授業中にどんな夢を見てたの。」
「多分、瑞月と同じだと思う。学校から帰ったら、急に許婚と会う段取りになっていて、会って……結婚の合意をして……両親に冷やかされると思っていたら全然そんなことはなくて。……学校でどうしようかと思い悩んでいたのだけど、いつの間にか寝ちゃって……。翌朝迎えに来てくれて、再会のキスをして、馬に乗って一緒に学校へ行った。瑞月は?」
「俺も、ほぼ同じ……。」
「……そう。共鳴して同じ夢を見たのかしら。私は昔からこの夢を見ていたけど、いつも瑞月と同じ夢を見ていたのかな。」
「違うんじゃないか。キラとソーマは結婚してたけど、全く同じ人生を送ってた訳じゃないだろうし。」
「そうよね。」
二人は再び考え込んだ。
「蒼月。」
「うん?」
「場所を変えてゆっくり話さないか。プリントも提出しなくちゃだし。」
気が付けば、結構長い時間が経っていた。
「場所を変えるって?」
「俺の家は?俺、一人暮らしだから心置きなく話が出来るけど。」
「あ、そうだったわね。」
「……何もしないよ。」
「分かってるわよ。あんたは……違う、ソーマは、本当に酷いことなんて絶対にしないのよ。」
「……ありがとう。」
「お礼なんて言わないで。でも……今日は止めておく。」
「何か用事でもあるの?」
「ううん、そういう訳じゃないけど。」
蒼月は窓の外に目を遣った。
「頭の中がぐちゃぐちゃだから、一旦家に帰って整理したい。明日じゃ駄目かしら。」
「別に構わないよ。……そうだな、その方がいいかもな。お互い冷静になって考える必要がある。」
「うん。」
「じゃ、これを先生の所へ出しに行くか。」
二人は立ち上がって、プリントの束を纏め始めた。
「俺……今夜は多分夢を見ないと思うよ。」
瑞月がぽつりと呟いた。
「……私も。」
「駄目だよ、ちゃんと寝ろよ。」
「寝られる訳ないよ。どうせ眠れないのだから、色々考えてみるわ。」
「そうだな……。考え過ぎて、全然関係の無いインディアンについても考えてしまいそうだ。」
「はは、有り得る、有り得る。いいんじゃない、予習にもなるし。」
「よくないよ。本当にそうなりそうで嫌だよ。……眠れなかったら魔幻でも見てる。」
「ん……。」
二人は暫し沈黙する。沈黙は、共有を意味していた。
「ね、瑞月。」
「うん?」
「あの後、どうなったかは知ってる?」
「あの後って?」
「学校に行った後。」
「え?どうだろう……。まだ見てないんじゃないかな。蒼月は知ってるの?」
「うん、前に見た。」
「へえ、どうなったんだ?」
蒼月はくすっと笑った。
「結局、殴られたのは私だったのよ。女子生徒数名に呼び出されて、引っ叩かれて。お陰で二、三日腫れが引かなかったわ。」