黒い影⑤
こん、こん、こん、というノックの音が聞こえたので、シューバはドアを開き、ドアの前で立っているキラとソーマを招き入れた。キラの胸には、小さな服が抱えられていた。
「入って。……どう?」
「取り敢えず、癒して寝かし付けてきた。」
「ちゃんと寝てる?誰かを付添わせた方がいい?」
「いや、それには及ばない。」
「そう。……血は結構出ているように見えたけど、傷は浅かったみたいだ。それに、自分でも癒していたみたいだよ。医錬師がそう言っていた。」
「そうか。シューバ、君の迅速な対応に、僕達は心から感謝している。本当にありがとう。」
「私からも。何とお礼を言って良いか分からないわ。」
「僕は何もしていない。あの状況を見たら、誰だってこうするよ。」
「どういう状況だったのか教えてくれないか。」
「勿論そのつもりだ。」
シューバはそう言って、水差しからお茶を淹れた。指輪を翳すと次第にほんわりと湯気が立ち昇り、良い香りが部屋を満たした。
「まあ、掛けて。……話せることは、本当に余りないんだ。キュアは、この本丸付近で衛兵に見咎められた。黒の王子だということはすぐに分かったから、衛兵は僕と医錬師に連絡して保護された。此処と黒の王宮が繋がってるということは知ってる?」
「何となく聞いたことがあるわ。」
「余り知っている人はいないのだけどね。黒王宮と紫王宮の正門は全然違う方向を向いているのだけど、庭の奥の奥の森……というか、山の一部で行き来が出来る場所があるんだ。」
「キュアは、そんな所を通って来たというの?」
「恐らく。土地勘があって来たのだと思う。ちゃんと本丸まで来てるし、僕に会いに来たんだと思う。」
「キュアは何か言ってた?」
「……こんばんはって。」
「こんばんは?」
「彼自身、どうすれば良いのか分からなかったんじゃないかな。だから、僕もこんばんはって言って……ちょっと血が出てるみたいだから治そうねって、医錬師に引き渡した。その後すぐに君達を呼びに行ったんだ。」
「そうだったのか。じゃあ君にも、何故キュアが此処へ来たのか分からないのか。」
「うん。……君達にはお話しした?」
「いや……。何か言いたそうな顔はするんだけど、結局黙ってしまうんだ。」
「そうか。一体どうしたというのだろう。」
「な、そう思うだろ。」
「彼が、虐待を受けていないのならいいけど……。」
「俺達もそれを心配している。……君に頼みがあるんだ。」
「絶対に言うと思った……。」
「お願いよ、シューバ!それが分かるのは、物読みのあなただけなのよ!」
「物は記憶再生機では無い!」
「分かってるわよ!でもこのままだと、私達どうしたら良いのか分からないのよ!」
「……物読みが読むのは人の念だ。思い入れを以って作られた物か、思い入れを以って使われた物のどちらかだ。それに僕は、読んで貰いたいと願っている物にしか、決して手を付けないんだ。」
キラは、手にしていた小さな服を差し出した。
「キュアが着ていた服よ。私が思い入れを込めて縫った物だわ。」
「それで足りなかったら、今キュアが手に握っているハンカチがある。俺のお守りだったんだけど、キュアにあげた。」
「そんなの駄目だ。ソーマの念が入り過ぎている。」
「そう。では、この服で見てくれるのね?」
「もう…………。僕は何で、君達にこんなに甘いんだろう……。」
「では……?」
「ありがとう!」
「本当はこういうの絶対に駄目なんだからね!君達だって嫌だろ。僕が君等の私物をいつの間にか失敬して、勝手に念を読んでいたとしたら。」
「そういうことを絶対にしないから、君が物読みなんだ。」
「違うよ。子供の時に手当たり次第試してみて、酷い目に遭っただけ。下手をして、大きな傷が入った家具とか呪いの宝石なんかを見ちゃうと、こっちの魂が持っていかれる。」
「……それは怖いな。」
「色々と反省があるのです。……ま、いいだろ。やるだけやってみよう。もしかしたら、キラがキュアに向けた愛情だけしか出て来ないかもしれないけど。」
「それならそれで構わないわ。やれることをしたいのよ。」
「分かった。」
シューバはキュアの服を手に取り、掌を翳した。
「ああ……。大丈夫だ、この服は見て貰いたがっている。血が付いたのが幸いしたみたいだ。……ふーむ、黒王宮の廊下だな。薄暗くて……ああ、何処かから微かに呻き声が聞こえている。何だろうと思って声の方に行くと……真暗な部屋の中からだな……酒瓶が転がっている……。ヤグナがソファで寝ていた。自室じゃないな……。1階みたいだし、酌をしている者もいなかったようだ。呻き声は、彼が魘されている声だ。……え?」
「どうしたの?」
「うん……。泣いている。魘されながら、涙が零れ落ちている……。」
「…………。」
「キュアもそれに気付いた。泣いていて可哀想……。そのままヤグナに近付いて……抱きしめた。ああ、これは僕には読むことが出来ない、複雑な精神状態だ。ヒーラーとしての特殊能力を使っている。……ああ!!」
「どうしたんだ!!」
「ヤグナが起きて、キュアを跳ね除けた。頭を打って、血はその時に出たんだな。……痛みは感じていないようだ。寧ろヤグナに意識がいっている。ヤグナは怒っていて……何とも複雑な表情をしている……。見られたくないものを見られてしまったという感じ……。」
「…………。」
「ヤグナはそのまま、黙って部屋を出た。キュアは……呆然としているけれど、自室に戻る気にはなれなかったようだ。ふいと庭へ降りて……歩いているうちに紫王宮と繋がっていることを思い出して、そのままこちらへ来てしまったみたい。」
「そうか……。余りにも冷たい仕打ちだとは思うけど、虐待とは言えないな。」
「そうだな。……キュアも、これではどうお話して良いか分からないと思うよ。」
「どういうこと?」
「うん。……怪我をしたのは偶然だった訳だし……彼自身も戸惑いを感じている。」
「戸惑い?」
「見てはいけないものを見てしまったというか……。寝てる人を勝手に癒してはいけなかったんじゃないか、とか。」
「……そうなの。」
「ヤグナは何故泣いていたのだろう。」
「分からない。言っておくけど――。」
「分かってるよ!ヤグナの念を読んでくれなんて言わないよ。」
「ここまでしてくれただけで、本当に感謝しているわ。」
「そうだな。余り良い方法とは言えないけど、僕も分かって良かったと思う。キュアに、今回のことを説明させるのは、とても難しいだろうから。子供が思いを言葉にするということは、案外大変な作業なんだ。」
「そう。あなたは随分子供の考え方に理解があるのね。」
「僕は口が重い子供の代表みたいな感じだったもの。そういうもどかしさっていうのはよく分かるんだ。あ、キュアが口が重い子供だって訳じゃないよ。複雑な感情を目の当たりにして、何と説明して良いのか分からないんだと思う。」
「つくづくあなたを頼って、此処に来てくれて良かったわ……。」
「よく思い出してくれたよな。余り大した事はしてあげられ無かったのに。……キュアは暫くこっちで預かるよ。ヤグナにも僕からそう言っておく。庭で迷ってこっちへ来てしまったみたいだ、怪我をしてるから治るまで滞在させるって。別に反対はしないだろう。」
「まあ!ありがとう、シューバ!」
「君達もその間、こっちに滞在するといい。久し振りに親子水入らずで過ごしなよ。」
「本当にありがとう。恩に着るよ。」
「何てことはない。僕だってこの王宮が賑やかだと嬉しいよ。」
★★★
三人は、同時に目を覚ました。




