黒い影②
ほうっ……と、キラは湖を眺めながら、一つ溜息を付いた。
今日の仕事も無事に終わった。太陽は少し西に傾き始めていて、この時刻に照らされた湖は例えようもなく美しい。夕刻の湖は蒼をいっそう蒼くして、深い色合いは彼女の心を穏やかに癒していた。
静けさの中に誰かの足音が聞こえて、振り返るとヤグナが歩いて来るのが見えた。
「あら、ヤグナ。わざわざ魂を取りに来てくれたの?」
「…………。」
ヤグナは無言で近付いて来る。
「折角来て貰って悪かったけど、今日は黒の魂は出なかったわ。」
「別に、魂に用があった訳じゃない。君に用があって来た。」
「何かしら。」
畏まって向き合ったキラに、ヤグナは笑った。
「なあ、キラ。男が一人だと詰まらなくないか。」
キラは、馴れ馴れしく肩を組んでくるヤグナの腕を払った。
「男はソーマ一人って訳じゃないだろ。俺達の人生は長いんだ。楽しまないと。」
キラは嫌悪感を覚えて大きく溜息を付いた。一日を振り返り、何故彼がそんなことを言い出したのかを思うと、くだらなすぎて口を開く気にもなれない。彼女は立ち上がって帰り支度を始めた。
「無視か?」
「ヤグナ……。今日あなたが提案した、囚人の更生の為には、看守は囚人を殺しても罪に問わないという案を、ソーマが一蹴したもんだから根に持っているんでしょう。提案するのは自由だけど、私にそんなことを言ってくるなんて冗談じゃないわ。」
「冗談じゃないよ。」
「あんた、自分の王宮に取っかえ引っかえ愛人を入れているじゃないの。それでいいじゃない。」
「あいつらは王妃狙いのメス豚共だ。元々が王妃っていうのはいいな。」
「あんたが良くても私は良くないわ。それとも私に恨みでもあるの。」
「恨みってほどでもないけどな。幸せそうなカップルを見ると、壊したくなるのが人の常だろ。」
「馬鹿々々しい。寝言は寝てから言いなさい。」
キラはヤグナに背を向けた。その途端、強い力で手首を掴まれた。
「冗談じゃないと言っただろ。恨むのなら自分を恨め。それだけ美しいと汚したくなるのだ!」
「ソーマに殺されるわよ。」
「あいつに人は殺せない。」
「……そうね。汚れ仕事を彼に押し付ける訳にはいかないわね。……自分でやるわ!」
その瞬間鳥がヤグナの頬を掠め、血飛沫がぱっと飛び散った。
「この野郎!」
次の瞬間、キラは地面に押さえ付けられていた。自分では逃げたつもりだったのに。
……時を、使われている……。
彼女は一瞬の意識の中で、獣を呼んだ。
――何度攻防が続いたのだろう。
時が動く一瞬で獣を呼び、ヤグナを襲わせる。自分は地面に押さえ付けられ、着衣が乱れていくのを感じていたが、獣の数も増えてヤグナの鮮血の範囲が広がっていることを確認出来た。ヤグナの血が滴り落ち、自分を濡らしていく。やがて、目の届く範囲に、ムーゲが来ているのが見えた。ムーゲは灰色の大きな雄狼だ。
「次、狼がいくわよ。命乞いをするなら今のうちね。」
ヤグナはゆっくりとキラの手首を離した。その途端腕を振り上げたが躊躇い、やがて立ち上がると森の奥へと消えて行った。
キラはよろよろと身を起こした。強く抵抗した為身体の節々が痛んだが、そんなことは問題では無い。キラは、日が暮れ始めた空を見上げて考えた。取り敢えず、出来ることをしなければ。
ムーゲは完全に戦闘モードに入っていた。彼を鎮めないと、悲惨な被害が出る可能性がある。この時間ではまだ森に入っている者もいるだろうし、ここから少し距離はあるが、セシルも入っているかもしれない。
彼女は一羽の兎の耳を掴み、ごめんねと囁いた。そして、森の奥へと放り投げる。ムーゲが弾かれたように後を追い、暫く藪の中を駆け抜ける音が聞こえていたが、それは急に止まった。ムーゲが生贄を仕留めたのだろう。せめて、自分の目で見届ける責任があるとは思うのだが、湖が見える範囲での殺生は避けたかった。ごめんね……。キラは再び呟き、深く溜息を付いた。
どうしたものか。
ソーマに報告する……。キラは即座に首を振った。ヤグナは、ソーマには人を殺せないと言ったが、そんなことは無い。彼は事実を知ったら、躊躇うこと無くヤグナを殺すだろう。……他の王に報告する。それも、結果として同じことだった。
王を犯す――。
これは未遂であっても、極刑に値する。それを考えると迷いが生じた。彼の命を惜しんで、では無い。彼は今迄、いつ極刑に処されてもおかしくないような行為を数々行っていた。このような者が王として立つこと自体、魔幻全土を危うくしていると考えることも出来た。しかし結局のところ、彼はキラにとっていなくなって欲しい存在ではあったが、死なれては困る存在でもあった。
黒王の不在は、行き場の無い黒の魂が累積することを意味する。黒の魂は他の魂と違い、それ自体が危険分子となる可能性を秘めていた。出来ることなら避けて通りたいことだった。
だけど、黒王が狂気を孕んでいるのだから、何れもっと大きな災いを招き寄せることになるのかもしれない――。
キラの心は揺れ動いた。しかしキラは、彼に手を下す決断をすることは、どうしても出来なかった。




