プロローグ
「キラ、疲れたかい?」
アークは、キラの手を軽く握って尋ねた。
キラはちっとも疲れてなんかいなかった。寧ろこうやって父親と二人で外歩き出来ることを心から楽しんでいて、彼女はごつごつとした指輪が当たる、父親の手を握り返しながら答えた。
「ううん、ちっとも。」
疲れを知らない元気な娘の様子に、アークは思わず笑みを浮かべる。
「そうか。もう少しで着くからな。」
「うん。」
彼は再びキラの手をきゅっと握り、逆側の手に抱えた黄色い箱を持ち直して歩き始めた。目的地まではあと少しだった。
噎せ返るように鬱蒼と生い茂った緑の中を、娘の手を取って歩いて行く。道と呼べるような道は無く、実際この道は彼と獣しか使っていなかった。大型の野生動物と遭遇することもあった為、指輪を使って移動して下さいと散々言われてきたのだが、彼は時間の許す限り自分の足で歩いて行くことを好んだ。それは、彼にとって神聖な儀式だった。この道程が多少の危険を孕んでいたとしても、自然の息吹に満ち溢れる道を、自分の足で歩いて行くことが重要だと考えていた。
それに――と彼は小さく笑い、きょろきょろと楽しそうに視線を動かしている娘を見た。取り敢えず、今日だけは獣に襲われる心配は無い。
彼は確かに自分の血を受けた娘を、愛おしさで胸を満たしながらそっと見つめた。
森を抜けた先に、突然その湖は現れた。
どこまでも蒼く、深く、ずっと見つめていると空を見ているのではないのかと錯覚してしまう程の青い湖。足場には小さな砂地があるだけで、森との境目は殆ど無い。
キラは瞬きもせず、微かに揺れる水面を見続けていた。
「どう思う、キラ。」
アークは娘の様子を伺った。
「どうって?」
「この場所について。」
うーん、とキラはぼんやりとした様子で聞き返した。
「これは……海?」
「違うよ。これは湖だ。」
「えっと……何も考えられないわ。こんなに美しいものを見たことが無いもの。こんな青ってあるのね。何て言うか……悲しいことなんか何もないのに泣きたい気持ちになるの。……父様、ちょっとだけ泣いていい?」
「ああ、好きなだけお泣き。」
父親が娘を抱き寄せて小さな背中を撫でると、彼女は声を殺して密やかに涙を流していた。
「あら、父様も泣いているの?」
娘は不意に顔を上げた。
「泣いてなんかいないよ。」
「嘘よ。涙の痕があるもの。」
「そ、そうか。」
「父様、ここは悲しい場所なの?」
「違うよ。父様は嬉しいんだ。」
「ふーん?」
キラは分かったような分からないような顔をしている。
「ここが父様のお仕事をする場所なのね?」
「そうだよ。そして、父様が死んだらお前の仕事になるのだ。」
「いや、父様が死ぬなんて言わないで。」
「うん。私も出来ることならまだ生きていたい。お前の成長をずっと見守っていたい。だけど、王の寿命は全く読めないんだ。七日後に死ぬのかもしれないし、ニ、三百年はいくのかもしれない。こればっかりはどうにもならないのだよ。だけど、突然死が訪れても良いように、少しずつ私の仕事をお前に教えていこうと思う。父様が大事にしている仕事だ。お前が継いでくれるね。」
キラは大きく見開いた目に、涙をいっぱい浮かべて頷いた。
「うん、いい子だ。」
アークは涙を必死に堪えている娘の頭をくしゃくしゃと撫でた。
自分は――本当に幸せ者だ。こんなに素晴らしい子供を授かることが出来たのだから。人生に悔いは無い……。いかん、いかん。そんなことを思っていると本当に早死にしてしまう。きちんとこの子の成長を見届けなければ。彼は自身の馬鹿な自問自答に思わず苦笑した。
そして、迷いを振り切るように頭を一つ振り、背筋を伸ばして三段に重ねられた箱に手を掛けた。
「キラ、良く見ていなさい。」
アークは箱の蓋を静かに開けた。
★★★
――あ、またこの夢だ。
蒼月は深夜に目覚めた。
ここのところ、ずっと同じような夢を見続けている。幼い頃から――それこそ記憶に思い出せないような遠い昔からその夢を見ていたのだが、最近はどちらが現実でどちらが夢なのか、少し考えてしまう程頻繁に見る。
進級したばかりで気が高ぶっているのかしら、と考えてみるがそうでないことは彼女自身がよく分かっている。蒼月が通う高校は有名進学校で、入学した時点で科目によるクラスが振り分けられていた。卒業までクラス替えは無く、今のクラスメイトとは去年共に過ごしてきた仲間であり、気心が知れているとまではいかないにしても、特に気を遣い合う間柄ではない。
蒼月はベッドから立ち上がり、窓辺に寄ってカーテンを少し開けた。
下弦の月が、閑静な住宅街を煌々と照らしている。しかし、蒼月の視線の先は、月を越えた宇宙空間を見つめていた。
――今夜も、魔幻が来ている。
蒼月はそっと息を吐いた。
自分にとっては常に当たり前の現象だった。しかし最近は、魔幻を見るとどうしようもない胸騒ぎを覚える。それはここのところ急に繰り返し見るようになった、夢と呼応していた。
――解らない。
蒼月は首を振った。
何か――何かあったのだ。
私は曾て、何かを誰かと約束している。それはいつ、誰と交わしたものなのかは思い出せないけど。だけど、それは凄く重要なこと――重要なことだった筈だ。こうして夢を見続ける程に。
蒼月は月の向こう側を見続ける。
まるでそこに答えが見出せるかのように。
彼女は時が止まったかのように、いつまでも空を凝視していた。