幾星霜を駆けこの手を離さないで
教室の前まで無言のまま私の手を引いたリアムは、振り返って私を見つめた。廊下の窓から吹き込む風がリアムの少し伸びた前髪を揺らして、彼の切れ長の目元が見え隠れする。
今日は雲ひとつない気持ちの良い晴天だ。
幼い頃の私だったら、これから川辺へ向かおうと誘うだろう。そして、どっちが早く魚を捕まえられるか競争して、お昼御飯はその魚を焼いて一緒に食べようとリアムの手を取り言うのだ。そんな私に、いつもリアムは「負けないからな」と言って微笑んでくれる。私は嬉しくてリアムの掴んでいた手を引っ張り走るのだ。
毎日が楽しくて色鮮やかだった私の日常。もう戻れないあの頃……。
目の前のリアムの顔はまだ赤らんでいる。口元がわなわなと震えている様子だ。まさか、ハゲって言っただけで引きずるような人じゃないし、どうしてこんなに怒らせてしまったのかが分からない。彼はもう昔のリアムじゃ無くなってしまったのだろうか…。あの頃の笑顔のリアムが遠すぎて悲しくなる。
マッティアと婚約解消した今、リアムとまた昔のようにとまではいかなくても、友達に戻りたいと思った。何に対して怒っているのか全く分からないが、彼に許してもらえるように謝ろう。
「リアム、私が何かしてしまったなら謝るわ。あなたをそんなに怒らせてしまった理由が見当もつかなくて……ごめんなさい」
「……え?!」
未だに離されていないリアムの大きい手が、一瞬私の手首をギュッと強く握った。
「いた…っ」
「あ、ごめん!」
そう言って手元を緩めてくれたけど、リアムの手は離れていかない。ちょっと手首が熱くなってきた。
「何も怒ってないから。俺、そんなに怒ってる様に見えた…?」
「うん、すごく。リアムはもうリアムではなくなってしまったのかと思って悲しかったわ…」
「ふ…、何だよそれ。俺はずっと俺だし」
リアムがほんのり微笑んだ。
昔とは違い、大人びた男性の笑顔に変わったが、切れ長の目が細くなった時の優しい面影は変わらない。リアムはリアムだと思い、心が少し温かくなった。
「良かった…」
怒っていなかった事に安堵して、私もつられて自然と笑ってしまった。
あ……。あんなに辛い事があった次の日なのに、私ったらもう笑えるんだ。思っていたより自分は強いのかもしれない。まぁ、相手がリアムだからなのかな。
そう思って顔を上げたら、リアムの顔がまた赤くなっていた。そんなに暑いのかな?リアムに掴まれている手首は熱を持ち、ジワっと汗ばんできた。
確かに暦では秋に入ったけれど、夏はまだ終わっていなかったみたいだ。頬を撫でる風もまだ温かい。
「こんな日は川辺に行きたいわね」
あ……。安心したのか、思っていた事が口から出てしまった。もうそろそろ先生が授業を始めに教室に来る頃だ。昔みたいに、そう思ったって行けるわけはないのに。
教室の中からはざわざわと人の話し声が聞こえるが、廊下には私とリアムしかいない。窓の外からは、まだ夏を終わらせないと言っているかのように、必死に生きる蝉の声が聞こえてきた。
「行こう」
「え……?」
一瞬私の妄想の中にいるのかと思った。
先程よりも細めた目元から覗いているリアムの透き通った青い瞳がキラキラ輝いている。
「今から一緒に川辺へ行って魚を釣ろう。アンは釣れなくても俺が絶対釣ってやる。昼メシはその魚を焼いてご馳走してやるよ」
リアム……。目の奥がジワっとした。
「何を言っているの?その時は私も絶対釣るんだから」
冗談でもリアムの言葉が嬉しかった。今日はこの学校に来るのも息苦しかったけど、リアムと昔のように笑顔で話せて本当に良かった。
「バーカ、その時じゃなくて今からって言っただろ」
リアムの手が汗ばんだ手首から離れて、その手でガッチリと私の手のひらを握りしめて走りだした。汗ばんでいたリアムの手は、怒っていたんじゃなくて緊張していたんだという事に今更気付く。
不思議なことに廊下には誰一人いない。先生が誰か一人でもいたのなら、二人で手を繋いで走っているという、この非常識な行動は阻止されただろう。
この予想を上回るリアムの行動には驚いたけど、繋いでくれた手を離したくは無かった。走るなんていつ振りだろうか。
息が上がる。
廊下に響くのは二人の足音だけ。
温かい風は涼しい風に変わって頬をかすめる。
後ろになびく髪の毛からは辛い気持ちがスルリと流れ出ているかのよう。
目の前にいるリアムに引っ張られて全力疾走しているこの場所はいったい何処なんだろう。
いつもの廊下はいつもの廊下じゃ無くなった。
前に進むたび世界が色ずくようなこの感覚が懐かしい。
現実を置き去る足は弾む。
また息が上がるけれど、苦しくなんて無かった。
驚くことに、学園の門の外まで誰にも会わずに無事に出ることが出来た。
二人で息を切らして笑い合う。
流れ出る汗が風に吹かれて気持ちいい。心がスッと軽くなったのを感じた。
「リアムありがとう」
私が改めて笑顔で言うと、リアムの繋いでいる手がキュッと締まった。走ったのでリアムは耳まで真っ赤っかになっている。
「…なんかリアムが可愛い」
「どこがだよ」
リアムは少し照れたのか、そっぽを向いて歩きだした。リアムと繋いでいる手の温度のせいなのか、私の冷え切っていた心も温かく溶かされていくのを感じていた。
***
俺の心臓の場所は、アンの白くて華奢な手と繋がっている部分にあるんだと思う。
たとえ今、アンにその心臓を握りつぶされて死んだとしても俺は本望だ。
心からそう思う。
でも、まだ死ねない。アンの悲しみを拭い去るまでは俺は死ねないんだ。
それがまさか、こんな状況になるとは……!!
昨日の夜、マッティアから全ての事情を聞いた俺は、渾身の力を込めてマッティアを殴った。俺はアンを悲しませる為に言ったんじゃないのに、マッティアにアンを幸せにして欲しいと思って……くそ!!
マッティアは抵抗もせず俺に殴られた。奥歯が欠けたのか、殴られた後吐き出していた。イケメンが台無しだな、ざまぁ見ろ。
去り際にマッティアは「実際私はフローラ嬢に好かれてなんていなかったのではないだろうか。あんなにあっさりと婚約破棄を了承されるなんて……」と、神妙な面持ちで言い出した。
いや、まさかとは思ったが、マッティアは阿保なのか?フローラがどれだけマッティアの為に努力していたと思っているんだ?
婚約する前は、太陽のように朗らかなアンの声が、マッティアの好みに合わせて月が映る湖のように淑やかな声に変わった。
あんなに外を駆け回るのが大好きだったのに、家で刺繍や料理を熱心にし出したと聞いた。
勉強を頑張ったのも、生徒会に入ったのも全てマッティアが居たからだろう。
そもそも、アンがマッティアを見る眼差し自体が好きと言っているようなものだった。
なのに……マッティアはアンに引き止められなかっただけで、アンの純粋に好きだった気持ちを否定するのか?好きなら駄々をこねて泣きながら縋って欲しかったとでも言うのか?!
あっさり婚約解消をしたと言うのなら、それはアンのいじらしい最期のプライドじゃないか……。
五年間も婚約しておいて、アンの事を何も見ていなかったマッティアに、怒りを通り越して呆れてしまった。
「マッティア先輩にアンは勿体ないです。あんないい女を振った事、後悔すればいいんです」
初めてアン以外の人の前で、フローラではなくてアンと言ってしまった。まぁ、マッティアだって知ってるだろうし、構わないか。
アンのこのミドルネームは、家族以外に俺だけにしか教えていないと前に言っていた。俺はそれがすごく嬉しくて、自分だけが知っているアンって名前を他の人の前では極力言わないようにしていたのだ。
俺はマッティアの顔を見ずにその場を立ち去った。
新月で今日は暗闇が深く、アンの気持ちを思うとより一層空が黒く感じた。
今朝、アンが学校に来られるか心配になって教室を見に行ったら、案の定彼女は居なかった。
俺は授業どころではないと思い、今日はこのまま出席しないで帰ろうと職員室へ向かったら、アンとマッティアが一緒に歩いていた。
もうアンをマッティアに近づけたくは無いと思ったら、体が勝手に動いていた。
そしてまさかのこの状況だ……。
汗で濡れている手を繋ぐのは申し訳ないと思いつつ、アンの手を離したくなかった。
日差しが強い……。
俺はアンと手を繋いで歩くこの時間がずっと続けばいいと思ったが、アンの白い肌が焼けてしまうのは大変だ。すぐさま空間収納が付いている制服のポケットから魔法道具を取り出した。
これは一回行った事のある場所へ転移できる魔道具だ。これを使って川辺まで一瞬で転移しようとしたらアンがそれを止めた。
「昔みたいに、このまま歩いて行きましょう」
アンは笑顔でそう言った。
その笑顔は昔の純粋で朗らかな表情と違い、大人の女性に成長したんだと思わせる芯のある美しい笑顔だった。
その笑顔を直視できなくて一瞬で顔をそらしてしまったけど、アンの優しい紫色の瞳には昔と変わらず純粋で朗らかな彼女が宿っているように見えた。
アンの言葉に嬉しさが込み上げてくる。
素直じゃない俺は、彼女の言葉にしょうがないなと言ってそのまま歩く事にした。
力強い太陽がアンの白金色の髪を輝かせている。穏やかな風が彼女の流れる髪を梳かしてとても綺麗だ。
俺の心臓以外はとても穏やかな時間を一瞬たりとも逃したくはないと、一歩一歩大切に進む。
そろそろ汗ばんだ手を繋ぐのも申し訳無くなって離したら、アンはハンカチで俺の手を拭いてくれた。
それからまた繋ぐ勇気は無くて、離れてしまった手が寂しく揺れていたら、アンが前に来て手を差し出してきた。
それは昔と変わらない行動だ。人見知りで引っ込み思案だった俺の目の前に来ては、手を差し出していつも引っ張り上げてくれた。俺の母親が亡くなって暗闇に何日も閉じこもっていた時も、扉を開けて変わらず手を差し伸べてくれたのはアンだった。
いつも変わらないその手に何度助けられていたことか。
そしてアンの瞳に輝く純粋で無邪気な部分もやっぱり変わっていない。
今、俺の前に差し出された手は嬉しかったのに、男として全く認識されていない事に気付き悲しくなった。
俺はその手を掴まず、アンよりも前に踏み出してから彼女の手を取った。
「走るぞ!」
俺のことを見て欲しい。意識して欲しい。好きになって欲しい。
そして今度は俺がアンの事を必ず救ってやる。
マッティアという枷が外れたアンに向けて、湧き出ては止まらない欲望と共に俺は走り出した。




