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黄昏時に別れを告げないで

 




 この日を思い返せば、私の婚約者であるマッティアは終始かしこまった態度だった気がする。

 目の前にいる彼は、憂いた瞳をこちらに向けて丁寧に言葉を紡ぐ。



「フローラ・アン・イーグス。本日をもって君との婚約を解消したいんだが、宜しいだろうか」



 あと少し、もう少しだけカップを口にするのが遅ければ、飲みかけていた琥珀色の液体は綺麗に私の器官へと流れて行き、激しい咳嗽(がいそう)反射(はんしゃ)を起こしていた。その反動は目の前で私の返答を待つ彼へと向かって、小さくとも打撃を与えていたことだろう。

 今となっては、その少しの差ですら(ぼそ)を噛む思いだ。




 しかしこの時の私は、彼からの婚約解消という予想外の言葉にひどく動揺してしまった。


 カップ内の水面が波紋を広げるように、私の動揺も脳から心臓へそして体の末端まで広がっていき、カップとソーサーの接触音が辺りに響き渡る。


 彼の落ち着いたグリーンの瞳はこれが冗談ではない事を示していた。

 温かい紅茶を飲んだ後の体の温度変化は感じられない。店内に漂っていた美味しい匂いは遮断されて、自分の立てた音すら鼓膜には届かなかった。


 ただ目の前のマッティアの言葉だけが脳内で反復されている。その言葉が反復する度に、長年築いてきた温かいモノが音も無く崩れ去っていくように感じた。



マッティア……どうして………




 二つ年上の婚約者であるマッティア・パルヴィンの実家は、歴代でも輝かしい功績を成し遂げた騎士を次々と輩出してきた由緒正しい侯爵家であり、彼はその嫡子である。


 彼が通っている王都の学園は、魔力、学力、武力、そして財力のいずれかが秀でていなければ入ることは出来ないという、この国一番の名門校だ。彼は親の財力にモノを言わせて入学することを嫌い、騎士としての剣術(武力)を磨き上げて入学した。


 私はそんな謹厳実直(きんげんじっちょく)である彼を見習って、お父様の莫大な財産とコネを使わずに必死に勉強に取り組み、彼と同じ学園へ見事首席で合格を決める事ができた。


 私の家は彼よりも爵位の低い新参者の伯爵家だが、父親が領主の傍らで経営していた事業が大成功を収めて、今や世界でも指折りの資産家となっていた。

 私とマッティアの婚約が決まった五年前の当時、彼の実家であるパルヴィン侯爵家の領地は不作の年が続いており、パルヴィン家の懐事情は火の車であったという事を最近知った。

 要するに私たちの婚約は、爵位と財力のwin-win婚だったのである。


 そう考えると、マッティアが入学するにあたって、私の家から流れてきたお金に頼りたく無いと思うのは至極当然だが、真っ直ぐな彼の性格を考えると、お金が有る無しに関わらず、自分の力で道を切り開くのは変わらなかったと思う。



 そして入学してから半年が経った。学年は違うけれど、私はマッティアと同じ生徒会の役員になれて接する機会も増えていき、毎日他愛のない会話ができるようになっていた。そんな小さな幸せを噛みしめていた私の元へ、突然マッティアから食事の誘いが舞い込んでくる。


 彼は学園の外にあるお洒落なレストランを予約してくれて、一緒に夕食を食べる事になった。食事を共にするのは、この学園に入ってからは初めてで、私は嬉しさと緊張で終始興奮していたが、必死にそれを隠す様に繕っていた。

 そのせいだろう、マッティアのいつもとは違う変化に、私は全く気づかなかったのだ。


 彼の気持ちなど露知らず、もしかしたら私達は今後も上手くやっていけるんじゃないか…と、期待しつつ夕食を食べ終わった。

 食後の紅茶を飲みながらお互いの話に花を咲かせようと思っていた矢先に、私の胸を切り裂く様な婚約解消という言葉をマッティアは放ってきたのだ。



「どうして……」



 どうしてなの?と理由を問いただす為に出た言葉ではない。

 ()()()()()()()()()()?と、動揺と悲しみにより自然と出てきた言葉の最後が濁ってくれただけだった。


 そう、実はマッティアが私と婚約解消したい理由はすでに分かっているのだ。そして婚約破棄をされるという事も()()()()()()()()


 でも私は、もしかしたら…という心の中にある僅かな可能性に賭けてきたのだ。その天から垂れてきた蜘蛛の糸の如く、細い僅かな希望を必死に掴んで登れば、彼との婚約は解消にならず、幸せになれる未来があるのではないかと、ずっと願っていた。


 しかしその僅かな希望の糸は、今、彼の手にしているハサミによって呆気なく切られようとしている。



「私はマリアのことを愛していると気づいてしまったんだ。そんな気持ちを抱えたまま、君に不誠実に接したくは無いんだよ。突然の事で本当に申し訳ないが、どうか理解してくれないだろうか」



 分かっていた事だったが、直接彼から言葉にされると、ズキンと胸が痛んだ。

 愚直さを表す様な彼のハサミの刃は、無自覚にも丁寧に研ぎ澄まされていたようだ。


 彼が言うマリア。それは半年前に学園に入学した私と同級生の女の子だ。

 滅多に使える人が現れないという光属性の魔法を彼女は使う事ができた。その魔力で、名門と言われるこの学園に合格した一般市民の生徒である。

 ピンク色の珍しい髪の色と、こぼれ落ちそうな程大きな目をした可愛らしい顔の彼女は、誰もが守ってあげたくなるような可憐で儚げな存在で、生徒会長であるこの国の王太子を始めとする数々の男たちを虜にしていた。

 マッティアもまた、その中の一人だということは勿論気づいていたのだ。



 そう、前世の頃から。



 ここは、私が前世で夢中でやっていた乙女ゲームの世界の中だと気づいたのは十年前の事。

 同時に自分が悪役令嬢のフローラだと分かってしまった事に愕然とした。


 悪役令嬢であるフローラは、主人公のマリアが自身の婚約者であるマッティアと恋に落ちた事に逆上し、虐め倒した上で断罪され、終いには国外へ追放されてしまう。

 そんな悲しい未来は断固阻止しなければならない。その為にも、まずはマッティアと婚約などせずに距離を置こう、と心に誓った。



 誓ったはずなのに…その思いも虚しく、五年前、初めてマッティアと会った瞬間にまんまと恋に落ちてしまったのだ。実際には前世の頃から推しキャラだったので、もしそれも含めるとしたら恋愛期間は五年では済まないだろう。



 私は彼の事をどうしても諦められなかった。



 ゲームの中の悪役令嬢みたく、高圧的で高飛車な性格なんて一ミリも感じさせなければいい、ヒロインのマリアの様に可憐で儚い性格になれば好きになってもらえるかもしれないと思い、できる限りの努力をした。

 声や言葉遣いは柔らかく優しい口調に変えて、趣味は刺繍と料理になった。料理なんて貴族のやる事ではないと家族から大反対されたが、それに従うほどマッティアへの愛情は少なくはなかった。



 しかし、そんな努力もこのザマだ。



 だけどゲームでは、半年後のマッティアが卒業する直前に婚約破棄を言い渡されるはずなのだ。

 こんな中盤の時期に言われるなんて思ってもいなかった。どうして……。

 もしかして私は、気づかない内に何か嫌われるような事をしてしまったのだろうか。

 マリアへの虐めなど一切していないというのに、ゲームの悪役令嬢であるフローラ以上に、マッティアは私と婚約している状況に耐えられなかったという事だ。



 悲しくて苦しくて虚しいよ……



「分かりました。では、これからは陰ながらになりますが、マッティア様の幸せを祈っております。

五年もの間、婚約者として色々とお心遣いをいただき、ありがとうございました」



 落ち込む気持ちとは裏腹に、彼の婚約破棄に対する私の回答は昔から決まっていたので、感情を読まれない様に丁寧に言葉を発音する。


貼り付けた様な笑顔の裏で、私の脳内にはゲーム中に婚約破棄されたフローラの姿が鮮明に蘇っていた。


 婚約破棄にどうしても納得できなかったフローラは、その場で暴走してヒロインを殺害しようとする。それによって断罪されてしまうんだけど、その時にマッティアがフローラを見下しながら「貴様が私の婚約者だったと思うとおぞましいな…」と捨て台詞を吐いて去って行き、フローラは泣き崩れていた。

 そのシーンを思い出すだけで心が凍りついて震えてしまうし、そんな自分には決してなりたくない。


 婚約解消された時点でもう私は詰んでいるのだ。今更私が足掻いた所でどうにもならないし、足掻く分だけ逆効果になる。

 予想では半年後だったが、この話が彼から出た時点でキッパリ諦めると、婚約を結んだ時に決めていたのだから。



「マッティア様、お話は以上で宜しいでしょうか?」

「あ…ああ。それだけだが………」



 私がマッティアを想う気持は、彼も薄々気付いていたんだろう。それなのに、私のこの反応を聞いたら彼が戸惑うのも当たり前だ。



「そうですか。では、(わたくし)はお先に失礼致しますね」



 私の心内など微塵も見せたりはしない。と、満面の淑女の顔で挨拶をして、その場を去った。

 立つ鳥跡を濁さずである。



「アン……」



 そんな私の後ろ髪を引く声がした。彼はどんな顔をして私のミドルネームを呼んだのだろうか。

 止まる事なく足を前に踏み出した私には、それは永遠に知る(よし)もない事だった。




―――さようなら、マッティア





 焼け落ちる様な空を背に、目の前の低い闇の上には薄っすらと新月が見える。もう夏は終わったはずなのに、この時間になってもまだ明るいのか。

 いっそ泣いてしまいたい。思い切り泣いてしまえば楽になれるのに、この空はそれを許してくれなかったみたいだ。もしも暗闇の中だったなら、流した涙は誰にも気付かれず夜に溶け込んだだろうに。


 私はどうやって学園まで辿り着いたのだろうか。そんな渇いた気持ちのせいなのか、帰り道の記憶は(おぼろ)げにしかなかった。


 学園の中にある自分の寮まで虚ろに歩いていたんだろう。横から誰かが声を掛けてきた。



「アン、大丈夫か?」



 この学園で、私のミドルネームを家族とマッティア以外で知っているのは一人しかいない。



 幼馴染のリアムだ。



 私より頭二つ分高い彼の顔を見上げる。


 リアムの澄み渡った青い瞳に夕陽が灯っているのが見えた。彼の綺麗なそれは、目を逸らしたら負けてしまうと感じる程、真っ直ぐに私を捉えてくる。


 まるで瞳に灯った夕陽を使い、私の奥底に沈んだ暗闇を探るかのように―――――



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