宴も闌 ~宵夜に月は笑う~
とんてん、とんてん、とんてんぱらり。
からころ、からころ、からころからり。
つきよに、きつねび、ひと、ふた、みっつ。
こちょうは、はなからはなへ、ぱたぱたとんで。
つぎからつぎに、かれゆくはなを。
だれがすくうと、いうのでしょう。
つきはみまもり、やさしくひかる。
よいやみやしきに、おんなのこがひとり。
むかしばなしをききに、きょうもきょうとてとってんぱらり。
あ、また鍵開いてる……。
先日の無礼をお詫びしたく、私は再び少女の邸に来ていた。
少女は矢張り絢爛豪華な椅子に、威風堂々と座り、窓の外の蒼いモルフォチョウを目で追っていた。
気付かれてないと思いこんでしまった私はどうかしていたのだ。
その蝶を追う目が、無色で何の生気もなくて……その奥底を覗いてみたくて……私は一歩二歩と少女へと近付いていく。
――ギィ。
床の軋みが聞こえた。
此方に話し掛けず振り返りもせず、ぼうとしている少女は噺に聴いた幼い悪戯っ子の様な愛嬌は欠片もない。
総てを捨て、有象無象が煩わしいと言わんばかりの纏う空気の色は……浅葱色。何もかもが気怠げなその少女は、声を発した。
『畏れなければ、否定しなければ、隠さなければ……、きっとアイせたのに。』
と。ポツリ呟いたようで。
近づく度、少女の息を感じ、近づく度、少女の纏う空気を感じ。
――ガタッ。
しまっ……。
私は少女に釘付けで足下を見ていなかったのだ。分厚い本に足が当たり、本が動いた先の木の小箱に当たって静かな邸に音は響かせた。
『のぅ、こそこそと何をして居るのじゃ? 先日の客人。と……もう一人誰を連れてきたのじゃ?』
外見にそぐわぬ古風な言い回し。少女は、私が視惚れて静かに近づいているのが判っていたかのようで、私に言葉を投げてきた。 吃驚した私は慌てて謝罪の意を述べ、今日何故来たのかを話した。
度々なる無礼お許しください。今日挨拶を述べるのさえ忘れてしまうほど、蒼い蝶を目で追う貴女に見惚れていました。
今日参った次第は、先日の無礼窮まりない言動のお詫び申し上げたく――。
言葉は軽やかな声の誰かに遮られた。人が話しているのに被せるとは……。
「やぁやぁ、勝手にお邪魔してごめんよ。やっぱ、この程度じゃ流石に驚いてはくれないかぁ。流石、万の顔保つ娘♪ そう簡単には堕ちない辺りが他の娘とは違うね。そこが、良いんだけど♪」
人の言葉を遮った、背後に居るであろう人物に声を掛ける。
あの、私が話していたのですが……。
「ぇ? あぁ、君居たのかー。もぉー言わなきゃ分かんないよー。まぁ、知ってたけどね。くすくすくす。」
にこりと屈託無く笑う顔は、少女とは違う無邪気さが伺える。私は溜息を吐いた。
何故こうも、思い通りにはならないのだろうか。
黄昏時に移り変わるとき、先の蒼い蝶はひらひらりと見失ってしまった。
『ふむ……面倒くさいのぅ。』
そう呟いた少女は、深く椅子に腰を掛け体重を預けた様だ。
『先日の客人……と、珍しいのぅ。月が顔を見せるとはな。して、各々用件はなんぞ?』
私は、先日の無礼窮まりない言動お詫び申し上げたく参上仕った次第に御座います。
「ボクはねー、噺を聞きに来た…かな。こないだ良いとこで終わったよね。だから来たのさ。」
ウィンクをしながら、月と呼ばれた影はくすくす笑いながら少女に近付いていった。
いや、待て。よく考えろ。月と呼ばれる影は先日の噺の時、私の記憶違いでなければ居なかっただろうと思うのだが。
気にせず少女は話す。
『ふむ。さうか、而して面白可笑しい噺はないぞ。本も、丁度読み終わった頃じゃ。』
そして、少女は語り始めた。
その時、淡く甘い花の薫りが漂った気がした。
それは、まるで――。
『僕は君が好きだ、付き合ってくれないか。』
邪神異、胡蝶は来香にそう云ったそうです。世は大晦日から元日に変わる頃。本当に、傍迷惑な御方です。
『なんで? だから、だから、何なの?』
『いきなりとか、バカ?』
『あんた、何にも知らないじゃん。』
『まぁ、いいや、理由。』
『理由教えてよ。何処が好きなの?』
矢継ぎ早に問う来香異妖狐様に、胡蝶は何を考えたか今となっては知り得ませんが、簡単に済まされたことだけは覚えていましょう。
『一目惚れ……かな。』
『はぁ……。』
『君の歪んでるところだとか、病んでるとことか。僕、ヤンデレが好きなんだ!』
『……。』
さしもの妖狐様も無言に成れます。胡蝶は妖狐様より二つ上だと書いてありますが、其れは電磁の上の噺。実際はどうなのでしょうか。そして、何より無言になれた理由は返答が頓珍漢だったと言った所でしょう。
『あの、さ。ヤンデレって何か知ってるの?』
『束縛が強いとこ好きだよ。』
『僕、メンヘラやヤンデレが好き。』
『其れ正反対だから。対局してるから。』
『一緒でしょ。』
呆れたのでしょうか。最早、胡蝶と話すことも嫌気が差したのでしょうか。よく解らないまま、適当に相槌を打つことにしました。
何より、妖狐様は意味も無く束縛したりはしません。本当に好きで好きで気が狂うほどの相手で無い限り。
愛は海より深いモノ。
愛は憎より浅いモノ。
恋慕は、人を、生物を、人世をも、盲目にさせます。
また、裏切られるだけだ。
また、遊ばれるだけだ。
また、棄てられるだけだ。
また、また、また、また、また、また、また、また、また、また――。
もう、ウンザリだったのです。馴れ合いの関係に。云萬年も生き長らえて来た不老長寿の妖狐様。怪妖と人は、馴れ合うべきではないのです。
それが、人世を狂わす邪神ならば尚更に。
『嘘憑かない?』
『視棄てない?』
『嫌わない?』
『ずっと傍にいるって、約束できる?』
『嘘吐き。』
条件は他にも沢山ありましたが、とても書き切れませんね。
実は、胡蝶……この時既に、憂いの華に愛を囁いていたそうですね……。あぁ、手元に新しく書き記しておきましょう。
忘れぬように。
嗚呼、こんな時に彼の有名な詐欺師ならどう答えたのでしょうか……。
嗚呼、こんな時……彼の道化はどう答えたのでしょうか……。
これを窓の外から眺めている憂いの華は、どう思ったのでしょうか……。
今となっては、泡沫の沫となった記憶です。
あぁ、煩わしい……。
あぁ、忌まわしい……。
あぁ、穢らわしい……。
妖狐様は……否、来香は邪神に言いました。
『いいか、ボクはあんたの"お試し"だ。』
高慢に貪婪に……。意図も知らずして邪神は喜びました。
男とは時に単純で扱いやすいモノです。妖狐様の本性も知らずして……。
『やったネ! 姫様たちに報告してくるよ!』
思い出話は美化し易いですね。妖狐様は、日記を付けることにしました。美化され易い思い出話を可笑しくモノガタリとして継がれるように。
『戯けが。あんたは直ぐに来香を棄てる。……私は予知者。努々、藻掻きなさい。』
胡蝶が妖狐様の屋敷を去った後、暗闇にニンマリとした三日月型の口だけ見えました。それは、童話の彼の摩訶不思議な猫の様で――。
『アァ、思い出した……。其れは……、その言葉は……。そうじゃ、妾が云ったのじゃ。』
ふわりと不可視に揺れ動く耳と九つの尾。その尾の一つを優しく撫でた妖狐様は、その屋敷から一粒の光も遺さず掻き消えました。
屋敷には、誰かが居たと言う温もりだけです。
“妖狐様は孤独を好む”
原因は、矢張りあの時……最愛の方を自ら死に追いやってしまった自分自身でしょう。
禁術を、違反と知りながら行ってしまった妖狐様自身を、妖狐様は憾み、そして妖狐様は多勢に紛れながらも孤独を好む様に生ってしまったのです。
『ランファ……蘭花……。初めて人から貰った名前。』
『来香……夜来香……。吾奴が……否、うぬが、妾に付けた名前。』
『誰も、妾の名前を知りはせぬ。彼の変わらず空に浮かぶ月さえも、湖に浮かぶ月さえも……誰一人として妾の本性を知りはせぬ。』
噂通りの高慢知己な気高さと気怠げ怠惰を併せ持つ、齢云萬歳の妖狐様の本性を誰が知るというのでしょうか。
カラコロカラコロと人世を嘲嗤い、見下しながらも孤独と生き長らえた妖を傳時ノ邦の住民は誰独りとして知らないのでしょうね。
悲しいことに、彼の道化も堕ちたる月さえもモノガタリの住民でしかないのです。
雪月花を見守る妖狐の手の内の人形に過ぎないのです。
名前など無い、妖狐様。
栄華を誇った、妖狐様。
怠惰を究めた、妖狐様。
孤独を愛する、妖狐様。
たった独り……死を求め彷徨う妖。
死ねずの躯に死にたがりの妖狐。
『何時しか、笑い話として、童話として、語り屋が騙るときが来るかしらね。』
淡い月夜に、妖狐を騙る少女の声が響きます。
絃似ノ國の水辺の森にひっそりと建つ少女の邸。
邸の一室。鏡張りの部屋。少女は佇んでいました。周りには、少女が映ります。然し、移った鏡にはそれぞれ少女と似て非なるモノが映りました。その鏡の一枚に、妖狐様も映っていました。
『偽るのも辞めじゃ。我らが主君が目覚めるとき。』
『僕が代わりを演じるよ。』
『私が彼奴の相手をするね。』
『おィおィ、ンな甘ェ事言ッてられッかよ。』
『妾は、秘書ぞ。総ての秘書じゃぞ?』
『たかだか、狐風情が導くモノたる俺様に適うわッきャねェだろ?』
『まぁまぁ。二人とも傍観者に代わりはないよ。』
『アァ?』
『あらん? まだ言い争ってるのん?』
『姫様、起きるョ。』
『法螺、我らが空虚の姫君のお目覚めである。』
一枚の鏡がそう放った途端、
少女は崩れ落ち、鏡張りの部屋に伏せってしまいました。
そして再び、目を開いた少女は……。
ニィィっと悪戯に顔を歪め月夜に嗤ってました。
『……偽りだらけの、御伽草子はこれにてお終いじゃ。』
ニンマリ弧口の、少女は古めかしい口調で言った。また、また中途半端に語りを辞める気紛れさは、流石少女と言ったものだろうか。
「そっかそっかぁ、ありがとね~♪ また、聞きに来るよ~。またねえ、神無ちゃん♪」
言うや否や、月と呼ばれた影は、すぅっと消えてしまった。まるで、闇に吸い込まれた様に。
然し、カンナとは一体何なのだろうか。この少女か……。そう言えば、昔だが私の館に「栞那」と言う来客が居たがその御仁と目の前の御仁は同一人物なのか?
月と呼ばれた影も、懐かしさを感じる声音と香りだった……けれど、本当に其れは……。
考え事をしていると、徐に少女は口を開いた。私をじぃっと見つめながら、口を歪めていく。
『ほぉ、憂いの館は創立一周年か……。』
喉の奥で笑っているようだった。嗤いながら目は据わっている所は少女らしい。
何故、貴女は総てをお話しなさらないのですか?
私はそんな事を口にしていた。すると、笑っていた少女は、すっと目を細め私を見つめたが、哀しげに首を振ったのだ。
『記憶は曖昧。苦い思い出話は美化して書き留める。その間に、不確かな事は偽りとして記憶される。この意味が判るかぇ?』
それに、と、彼女は続けた。
『そうすれば、また、うぬらと会えるじゃろう? 其れが楽しみなのじゃ。』
頬を掻きながら、少女は絢爛豪華な椅子から立ち上がり此方に歩み寄って来た。
生憎、月光が逆光に成りその表情は視得無い。
ひんやりとした、冷めた指先が私をなぞる。暖かみの無い、その手が……まるで死人の様なその少女が、一筋の滴を垂らした。
『貴方は、幸せ者だな。私とは違う。矢張り、貴方とも相容れぬ器なのだ。』
そうでしょうか。私には貴女が無理を為さっているようにしか見えません。
『私が……無理? 貴方は相変わらず面白いね人だね、――――よ。貴方にも、姫が居るそうじゃないか、そろそろ帰った方が……。』
えぇ、無理をしています、貴女は自分にすら偽って居るのです。嘗ての……否、今も変わらない私のように。
貴女を見ると、貴女の話を聞くと、矢張り胸糞悪くなりますね。
『ははっ、貶し文句も上等だね。ま、私には無効にも程があるけれど。』
そうですよ、このくらいで弱ってどうします? 私は、あの時に聞きたかったのです。総てを、彼の白夜城に居た頃に。
『叶わないものと成ってしまったね。斯く言う貴方は、自らの館を燃やしてしまったじゃないか。』
それは苦い記憶など棄ててしまい、新しく気持ちを……。
『貴方も所詮ヒトだな。安心したよ。寄り添うことで疵を嘗め合う、可哀想な生き物だ。苦い記憶を捨てたい? 莫迦だな、貴方もあれほど書いたじゃないか。』
叶わないものに縋りたくなる、少女の気持ちが判らなくもないのは確かで。
逃げることで疵を隠すのも、確かで。
斯く言う、少女も逃げた。苦しみから逃げて、疵口から目を背けて夢語ながら現実の忌みを無視して来た。
けれど、過去を無かったことにしたくなくて、私も、そして少女も、斯うして書き留めて居るではないか。
そう、私は幾度と書いて、立ち止まっている人や過去を畏れて逃げ惑い暗闇に残され脅える人々に告げてきた、それは……。
少女と私の声は被る。
“過去はどれだけ遠くに逃げ離れても憑いてくる、と。”
少女だけが、続きを話す。何故なら、その先は今、少女が考えたから。
『そして、貴方の直ぐ後ろに息を潜めながら追憶を待っている。後悔を繰り返さないために、過ちを繰り返さないために。』
嗚呼、その言葉は一体誰が放ったものだろうか。
ただ、少女も私もその言葉を互いに知っている。其れだけが確かな事だった。
少女と別れ屋敷を離れた私は、ふと月を見上げた。
まさか、本当に貴方だったんですね。矢張り、侮れません。
ルナロッサ……。
あぁ、貴方方は厭きませんねぇ。
とんてん、とんてん、とんてんころり。
からころ、からころ、からころからり。
月夜に、狐火、一、二、三つ。
胡蝶は、花から華へ、ぱたぱた飛んで。
次から次に、涸れ逝く花を。
誰が掬うと、云うのでしょう。
槻は見守り、優しく輝る。
宵闇屋敷に、女の子が独り。
昔話を聞きに、今日も今日とてとってんぱらり。