スパイは憎まれごとも仕事のうちってやつだ。
目も眩むような大きさの豪邸、入り口のゲートだけでも小心者の自分を圧倒させるには十分だった。そんなゲートから少し離れて紳士服の自分とドレスを着飾ったティルの姿があった。ティルは髪の毛をおろしていて、メイクアップも合わさり、絶世の美女と化していた。そんなティルの腰に手を置くのだがティルの顔は般若のお面をかぶせたかのようだった。ちなみに自分もティルからメイクアップを受けていて、セーラが言うにはそれなりのトリス美男子に見えるとのことだ。
「頼むから笑顔でいてくれ」本当にお願いしたい。
「なんで、あんたと夫婦役なんかしなくちゃいけないのよ」そう、僕とティルは夫婦として潜入することになっている。その案を出したのはセーラなのだがティルは大反対。セーラが一時間の説得の末、ようやくティルを納得させた。
「入り口を通り過ぎるまでだ」
「それでも嫌なもんは嫌よ」
「子供じゃないんだから我慢しろ」
「誰が子供ですって!」
「ほら、行くぞ」そう言ってゆったりと歩き出すと。ティルは不満そうに歩調を合わせた。
「招待状をお願いします」そう言う見張りの兵士はこちらを微笑ましそうに見つめる。笑顔を貼り付けたようなティルは、眉をピクリと動かして二枚の招待状を手渡す。
「こちらですわ」
「ふむ、確かに。ではパーティをお楽しみください」招待状を受け取った僕とティルは足早ににその場を立ち去ろうとするが、後ろから「少しお待ちください」と呼び止められる。
「なんでしょうか?」
「いえ、素敵な洋服だと思いまして」
「ああ、この服ですか。商店街の角のあそこで仕立ててもらったんですよ。いい出来ですよね」
「ええ、本当に良い出来です。私もいつかそう言う服を着てみたいものです」
「仕事に励めばいつか誰かを従える立場になるかもしれませんね。では」
「ははは!それはどうですかね。私はもう歳を食ってますし、それに第一女房もいますから。こう言う所で安全な仕事をして飯を食えるだけありがたいものですよ」
「そうですか、それでは僕たちは急いでいるもので」
「パーティをお楽しみください。奥様も、どうか、パーティをお楽しみください」奥様と聞いたティルは振り返ることなく歩き続ける。だが、後ろ姿しか見ていない見張りの兵士は知らない、ティルの顔が笑いながら激怒していることを。
庭を超えたあたりで、小走りに屋敷の裏側に回るとティルが本性を現した。
「あーもう!何よ奥さんなんて、あたしはこいつの奥さんになった覚えなんてないっつーの!」
「静かにしろ。バレたらどうする」
「わかってるわよ!」そう言うティルは小声だが、気迫だけで言えば屋敷中に聞こえそうだ。
「じゃあ、入るぞ」そう言ってドアをつかもうとするとティルが引き止める。
「あんたばか?鍵がかかってるに決まってるでしょ。それに警報も」
「ああ、そうだったか」
「ここは私が解錠するから見張ってて」そう言うとティルはドアノブに手をかざすとブツブツと呪文を唱え出した。魔法の鍵でもかかっているのだろう。自分の専門外のことに口を出しても怒られるだけなので見張りに徹する。ガンサーの仕掛けた爆弾の爆発音が周辺に鳴り響く数秒後、「開いたわよ」と言う声ともに僕たち二人は屋敷に潜入する。
「ちょっと!真っ暗じゃない!」
「だからうるさいっての」屋敷は窓もなく、光も差さない。その上、灯り用のろうそくが全部消えていたため、真っ暗だった。幸い、ブリーフィングで地図は暗記してきたので自分は問題なく歩ける。
「ちょっと!置いてかないでよ」
「何してるんだ」ティルは壁伝いにヨチヨチと歩いてきているようで、普通に歩けるこちらからすれば非常にもどかしい。
「よくこんなとこ歩けるわね」
「昔からよく暗闇で行動することが多かったもんでな。ほら、手を貸せ」そう言ってティルの手を取って足を進める。
「ちょっと!何触ってんのよ!」
「時間ないんだからさっさと行くぞ。それに敵地にいるんだから静かにしてろ」
「このっ」ティルは不満そうだったが、自分のナビゲートが正確だとわかると、文句も言えずに黙り込んでしまった。その後、階段でティルが戸惑いながらも、なんとか部屋の前に着いた。
「本当に兵士が出払っているな」
「そりゃ私が作った爆弾だもの」そう言うティルは得意げに僕の手を振り払うと、例の扉を開けた。
扉が開くと、ろうそくの淡い光が視界に入る。部屋は書斎に近いもので部屋の主のセンスなのか、なかなかに重鎮な趣きだった。本棚に囲まれた机。その机のある壁には大きな肖像画が飾ってあった。
「探すぞ」
「言われなくてもわかってるわよ」
そう言って二人で場所を探す。探したが、なかなか見つからない。と言うかティルの書類の散らかし具合が気になって集中できない。あとで元に戻さなといけないんだからもっと散らかさず探してくれ。本棚は僕が見落としなく探したが見つからない。ティルはもう机を調べ終わるはずだが進展はないようだ。
「本当にここの部屋にあるのか?」
「あるわよ!絶対に」
「ちゃんと探したのか?」
「ハァ?あんたこそちゃんと探したの!?」
「探したとも、全部のほんの一ページの見落としもなく!」
「怪しいもんね、そんなこと言うなら机を探しなさい。あたしは本棚を探すから」
「だぁれかいるのかぁ?」僕たちの声が大きかったのか、見張りの兵士が来てしまった。
「どうする?」小声でティルに聞く。
「ふん!あんたがうるさくしているからよ」ティルは臆することなく声を荒げる。
「そこにいるのは誰だぁ!」そう言ってドアが仰々しく開かれる。その先にいたのは瞼が眠たそうな、片手にワイン瓶をもつ兵士だった。酔っ払っているのか……
「これはこれは、申し訳ございません。妻と静かに過ごせる場所を探していたもので」
「なんだぁ?ヤリ場探しかぁ?」ヤリ場と言う言葉に反応したティルだったが、笑顔を顔に塗りたくって声を殺した。
「あはは、そんなことを言われてしまうとお恥ずかしい、おや?それはワイン瓶じゃありませんか?」
「えぇ?」男はワイン瓶を持ち上げて見上げる。「ほんとだぁ、こりゃぁ葡萄酒じゃねぇか」そう言うとそれをラッパ飲みし始めた。
「見張りの兵士がこんなところで酒を飲んでいるとは、これはデルーチェ氏に報告したほうがいいのでしょうか」そう言うと兵士の顔がみるみるうちに青くなる。
「に、にぃちゃぁん、そりゃぁないぜ」
「それに外の爆発騒ぎ、あれの対応もせずこんなところで酒を嗜む、これは一大事ですねぇ」
「お、おい、やめてくれよぉ。わかったわかった、あんたたちのことは誰にも言わねぇ。それでどうだ?」
「いいだろう。そう言うことにしておいてやる」兵士に近づき肩を叩く。そのまま元の持ち場に帰るように促すと、ティルが動いた。兵士が振り向いた瞬間ポケットからハンカチを取り出し、兵士の鼻に当てる。数秒ジタバタした兵士はすぐに意識を刈り取られたようで、その場で倒れる。ハンカチに何か染み込ませてあったのだろう。倒れた兵士を無表情に部屋の中に運ぶティルを唖然としながら見ていると。ドアを閉めて、と言う掛け声とともに我に帰り、言われたとおりにした。
「別に気絶させることなかっただろう」
「あんたこそそのまま返すつもりだったの?」
「こいつは聞かれなければ口を割らない」
「あら、どこにそんな保証があるって言うの?」
「経験上いつもそうなんだよ」ティルはそれを聞いて落ちていたワイン瓶を拾い、兵士にぼたぼたとこぼす。
「これなら向こうは酒に酔ったバカがこの部屋を荒らしたと勘違いするでしょ」
「わかったよ。全く」
「わかったら机を探しなさい。私は本棚を探すから」
言われて机を探し出す。だが、探して出てこないなら普通の場所にはないんだろう。あるなら普通は探さないような場所か……ああ、ここじゃないか。
「あったぞ」
「早!」
「絵画の裏に窪みがあったんだよ」
「何よ、あたりが付いていたなら先に言いなさいよ!」
「机を調べるのはお前の仕事だっただろ」
「絵画は机じゃないでしょ!」
「はいはい……じゃぁ行くぞ」そういって僕は警備書を窪みに片付けて、絵画を戻すとそのまま部屋を出ようとする。
「ちょっと!なんで戻すのよ?」
「ハァ?なんで奪うんだよ、向こうに気が付かれるだろ」
「なんでって……奪いに来たんだから奪うに決まってるでしょ」
「こっちじゃ暗記術はエージェントに教えないのか?」
「暗記って、警備書全部覚えたの?」
「一字一句思い出せるぞ」
「……あんたおかしいんじゃない?」そう言うティルはおかしなものを見るような目で僕を見る。いや、スパイはみんなこのぐらい記憶できるよ?
見張りの兵士の泥酔する部屋を後にした僕たちは特にトラブルもなくパーティ会場にたどり着く。会場はシャンデリアで明るく、オーケストラが音楽を奏で、貴族たちが酒を飲み、ケーキを食べ、踊っていた。そして、入り口で待ち構えていたのはセーラだった。
「あら、遅かったわね」グラスでワインを飲むセーラは頰を赤くしていた。
「こいつがうるさかったもんでな」
「あんたこそ」
「あなた達、少しは仲良くできないの?」
「無理ね」セーラの質問にティルは即答だった
「まぁ俺は早速帰らせてもらうぞ」そう言って帰ろうとする僕をセーラは肩を掴み引き止める。
「言い忘れてたけど、ここからは後少なくとも二時間は出られないわよ」
「なんでだよ」
「だって、いつも最初の貴族が帰るのがそのぐらいだもの、こんな早くに帰ったら怪しまれるわ」
「聞いてないぞ」
「言ってないもの」そう言うセーラはいたずらっぽく笑う。「そう言うわけだからあんた達、踊って来なさい。ティルも、ほら」
「ハァ?、なんでこいつと……」
「命令よ、ティル」そう言われたティルは絶望を浮かべた。
「僕は拒否できるのか?」
「拒否権はないわよ」
仕方ない、久しぶりだが踊るとするか。ティルに手を差し出すと、非常に嫌な顔をして手を握り返した、と言うか触り返した。スパイは憎まれごとも仕事のうちってやつだ。