それだけ言うと彼女は去っていった。
僕の体は海の中を漂っていた。見上げると水面で屈折した光が眩しく、肌で感じる冷たい水は心地良いものだった。万有引力の法則に従い、深く深く沈んでゆく僕。不思議にも危機感や焦燥感は感じられない。重力に身を任せた僕の体には力が入らず、意識もゆっくりと沈んでいく。
意識を完全に手放しかけた頃。身体中に与えられた圧迫感から、意識がクリアになる。この圧迫感はまるで太いロープのようで、体を強く巻きつけていた。顔をそらして確認すると、そこには突然変異で巨大化したオオアナコンダのような大きさの、大蛇がいた。純白で真新しい皮をした蛇は僕の顔を睨みつけ、威嚇を始めた。対抗するように体を動かそうとするが、強く巻きつかれているようでビクともしない。その大蛇が僕に噛みつこうとした時の事だった。僕は目を覚ました。
「うわっ」目を開けると、目の前には蛇がいた。と言っても夢で見たような大蛇じゃなく、小さな子蛇だった。毒を持ってるかもわからない蛇の首を掴むとそこらへ放り投げる。
気だるい体を起こすと周りを確認する。ブラジルのアマゾンを彷彿とさせるジャングルの様相がそこにはあった。木々は生い茂り、見渡すだけでも何十もの小さな生き物たちが蠢いている。日光が眩しく、肌を照りつけると同時に、湿度の高い空気が体力を奪い取るようだった。
僕はあのホテルで死んでもおかしくない出血を経験したはずだ。それがどうしてこんなジャングルで怪我もせず倒れていたのだろうか。とりあえず現状を確認するためにも、文明の痕跡をたどるべきだろう。と行ってもそんなものが近くにあればの話だが。僕は起き上がると、早速行動を開始した。
夜までこのジャングルを探索してみてわかったことがいくつかある。まずは僕の体、これが若返っていたのだ。肌もすべすべで、身長も低く、何より来ていたスーツのサイズが全くと行っていいほど合っていない。次にこのジャングルについてだ。今まで色々な場所で任務を遂行して来たが、蛇にしろ蜘蛛にしろ植物にしろこんなものはみたことも聞いたこともない。最後に文明の痕跡だが、焚き火の跡がポツポツとジャングル中にある。インディアンでもこの森に住んでいるのだろうか。
そんなことを考察しながら、自分は獲った蛇を焚き火で焼いていた。頭の形からして毒はなさそうだ。蛇を食うのはブラジルでの任務以来だった。
久しぶりの蛇を楽しみにしていると、周辺の木々が揺れる音が聞こえて来た。ガサガサという音が夜のジャングルにこだまして不気味に響いていた。すると、明らかな人の声で叫ばれた。
「#$&$##%&&」さて、困ったことに僕の全く知らない言語だ。
「日本語……はさすがにわからないよな」それから自分は自分の知りうる全ての言語で叫び返した。英語、中国語、ロシア語、ヒンドゥー語、スペイン語、フランス語、イタリア語。全て試したが、帰ってくるのは意味もわからない叫び声のみ。しびれを切らしたようで、奴らの一人が降りて来た。
さて、降りて来た女の子がこれまたびっくりしたことに、尻尾が生えていた。黒髪のくっきりした顔からは細長い耳が生えていて、少なくとも自分はこんな人種は知らない。布をまとっただけの彼女は右足を太ももまで露出させ、そこからは艶のある黒い尻尾が生えていた。
「&%#$$&#&」さて、こんな美少女だが、僕に対して弓を構えている時点で好感度は無いに等しいのだろう。インディアンが矢に毒を塗って狩りをするように彼女が僕に引く矢にも毒が塗ってないとは限らない。とりあえずは降伏のサインとして両手を頭の上に回しておく。
彼女が他の木に向かって頷くと、僕の背中にチクリと痛みが走った。直後、僕の意識は刈り取られる形となった。混濁する視界の中、屈強な男が僕を運ぶ光景を最後に、またも僕は意識を途絶えさせた。
さて、目を覚まし、まず視界に入ったのは鉄格子だった。次に床の冷たさ、最後に鉄格子の向こう側で、僕に弓を向けていた女の子を確認する。つまりところ、ボロボロの服を着せられた僕は牢屋にでも入れられているのだろう。
女の子は椅子に腰掛け、足を組み、手に持つ本を黙読していた。僕が体を起こすと彼女も気がついたようで本を閉じる。お互い、お互いの目を見つめ、お互いを吟味する。彼女は人差し指でこちらに来いと合図する。それに従い鉄格子に歩み寄ると。彼女はその人差し指を彼女の胸に当てる。
「セーラ」そう彼女はつぶやくと今度は人差し指で僕を指差す。つまりは、自分の名前を聞いているのだろう。
「ハヅキ」そう答える自分に笑みを浮かべた彼女は手に持った本を床に置く。文の始めと思われる場所に指を置く。
「#$$##%%&$$#…………」彼女は指を文章でなぞるとともに、その文を読み始める。コミュニケーションが取れないと断定して言語を教えようとしているのだろう。囚人とは思えない待遇だ。ともかく自分は彼女の音読を終わるまで聴き続けることにした。
彼女はその本を読み終えると本を鉄格子越しに手渡し、去って言った。代わりに細身の兵士が椅子に腰掛け、自分を監視するように見つめた。
下っ端であろう兵士は無視して、僕はこの本、というか絵本を、音読し始める。兵士は驚いたようにこちらを見つめながら興味深そうに自分を見つめる。まぁ、一度聞いただけで覚えられるっていうのは、普通なら賞賛に値するんだろうが、スパイなら一度聞いた会話をアクセントまで記憶するのは基本中の基本だ。捕まった時、記憶媒体を持ってると言い逃れできないが、記憶しただけならなんとでも言える。
絵から判断して、この本はこの世界の始まりを描いたもののようだ。神が地を創造し、空を創造し、海を創造した、なんていう聖書みたいなストーリーだ。ただ、気になるのは神が巨大な大蛇として描かれていることだ。少なくとも僕の知る神学的には、どこの聖書も神の姿は書かれていないどころか、神の姿を表現すること自体が冒涜とされている。だが、この本だと蛇こそが神だとでも言わんばかりに蛇の描写が強調されている。
三度目の音読を終えた僕はなんとなくだがこの言語がつかめた気がした。
「君」たどたどく兵士に話しかけると、向こうもびっくりしたようで、目を丸くしている。
「な……なんだよ」
「本、単語の説明、あるか?」辞書があれば翻訳も楽になる。
「辞書のことか?」自分は頷くと兵士はわかったと言わんばかりに他の見張りに連絡して、辞書を持って来させた。
「ありがとう」僕がそう言うと兵士は恐縮したように黙ってしまった。
さっきから思っているが、どうも囚人に対する扱いには思えない。てっきり疲弊させるために罵倒されるかと思ったが、まるで腫れ物を触るような扱いだ。まぁとりあえずは言葉を覚えないと意思疎通ができないわけで、言語の習得が何より優先される。僕は辞書を片手に絵本を開き解読していく。
さて、あれから大分たった。多分腹の減り具合からして10時間以上経過しているんじゃないだろうか。絵本の解読はとっくに終わり、辞書を読みあさっていた。主要な単語は覚え、多分会話もできるだろう。まぁともかく腹が減った。
「君」眠りこけていた兵士はびっくりしたようで肩を緊張させると自分に気がついたようで肩を下ろす。
「なんだお前か、なんだよ」
「腹が減った。飯は無しか?」
「……」
「あるのか?ないのか?」
「い、いや朝飯ならもうそろそろくる。セーラ様が本と一緒にもってくるはずだ」
「そうか、ならいい」
「しかし、お前随分と早く覚えたな。大蛇様の加護のおかげか?」
「ハァ?なんだその大蛇様の加護ってのは」
「お前がまとっている加護だよ。まさか気がついてなかったのか?」
「知らん」
「人間族は魔力が乏しいと聞いていたがここまでとは……いいか、お前にはとても強大な加護が宿っている。まぁ感じ取れないのはお前の魔力が少ないからだろう」
「お前には感じ取れるのか?」
「そりゃもちろん、こんな大きが加護は今まで感じたことがない」
「ふーんまぁ俺には関係ないことだ」
「いや、関係あるんだよ。てゆうかこんな檻で済んでるのは加護のおかげだ」
「どう言うことだ?」
「蛇殺しはこの国じゃ重罪だ、普通なら即刻処刑なんだが……この国じゃ加護持ちは神の使いとも言われていて、殺したらそれこそもっと重い罪だ。親族全員処刑されてもおかしくない」
「つまりその神の使いが蛇を食べようとしていたからこの檻の中にいると?」
「人間で加護持ちってのも珍しいがそれが蛇を食べようとしていた、なんてこと今までなかったんだよ」
「で、僕は処刑されるってこと?」
「いや、まだ協議中だ。国中の役人が話し合ってるよ。まぁその加護じゃ釈放になるだろうがな。おっと、セーラ様だ、まぁまた後で会おう」
そう言って兵士は席をはずすと変わるようにセーラがやってきた。セーラは相変わらず露出の多い布をまとって自分の前に現れた。艶のある尻尾はセーラが座るとそれに伴うように彼女の肩にかかった。
「セーラ」声をかけると彼女は微笑んで本を開いて床に置いた。「いや、読み聞かせはもう必要ない」そう言うと彼女は驚いたようで、その手を止めた。本を仕舞い顔をあげる彼女は微笑んで自分を見据える。
「もう言葉を覚えたのですね」
「昔から言葉を覚えるのは得意だからな」
「加護のおかげでしょう」
「加護だかなんだか知らないけど、僕は何も感じないな」
「魔力が極端に少ないのでしょう、それほどの大きな加護を感じる事ができないなんて、嘆かわしいことです」
「あんたは魔力があるのか?」
「ええ、それほど多くはありませんが」そう言う彼女は右手を目の前に掲げると、その手のひらから火の粉を吹かせた。
「へぇ、魔力ってのはそんな使い方もできるんだな」薄々感づいてはいたが、自分は地球の常識の通じない場所に来ているらしい。
「魔法を使ったことがないのですか?」
「聞いたことも見たこともない」
「人間でもそう言う人は珍しいですね。どこからこの森に迷い込んだのです?」
「知らん、気がついたらここにいたんだ」まぁ地球のことを話しても話半分に受け取られるだけだろう。
「記憶がないのですか」
「自分の名前以外、何も覚えてない」
「でも、言語を覚えるのは得意と……」
「そう言うことはなんとなくわかるんだ」
「変わった記憶喪失ですね」そういう彼女はクスリと笑って自分を吟味する。自分が嘘をついてるか疑っているのだろう、まぁ嘘なんだが。
「疑うのは別にいい。だが、時期に釈放されるやつを疑っても仕方ないだろう?」
「釈放ですか?」
「ああ、兵士が言ってたぞ、これほどの加護持ちならまず釈放になるだろうって」
彼女は俯いて、沈黙共に大きなため息を吐くと、物乞いを見るような目で僕を見つめた。
「残念ながら、この食事があなたの最後の食事となるでしょう」彼女はそう言うと、スープとパンというなんとも質素な食事を床に置く。
「は?」
「ハヅキ……とても残念ですが、協議会であなたの処刑が決定しました。時刻は明日のこの時間」それだけ言うと彼女は去っていった。