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自我は確かに潰えた

 蒸し暑い夜、スターバックスでスーツ姿の僕は足を揺すっていた。飲みきったアイスコーヒーのコップの中で氷が溶け出す。待ち合わせの時間はすでに一時間前のことだった。スーツケースを大事に抱える僕は日本政府の防諜員で、フランス大使館に勤める情報提供者と接触しようとしていた。とある機密書類の入手が僕に与えられた任務だ。いつの間にか氷は全部溶け出して、僕の腕時計も十一時半をさそうとしていた。そろそろ帰るかな。

『ハヅキ、久しぶりね』後ろからパリ訛りのフランス語で話しかけられた僕は振り返る。ロングストレートのブロンドヘアーを後ろでまとめた彼女は胸のひらけたYシャツ姿だった。片手には抹茶ラテ、もう片手には分厚いファイルを手にしていた。ラテには口紅の色が混じっていた。


『カミーユ、遅かったじゃないか』パリ訛りのフランス語で返す。

『バーでお酒飲んでたら遅くなっちゃった』隣に座った彼女の息は確かに酒の匂いがした。

『報酬はこのスーツケースに入ってる』スーツケースを机に置きファイルを手に取るとその手首を掴まれた。

「あら、デートに連れて言ってくれるんじゃなかったかしら」流暢な日本語に切り替えた彼女は深緑色の目で僕を見据えてくる。これだからこういう女は苦手だ。手を払い、ファイルに手をかけようとすると『路地裏から監視、黒髪ロングの日本人女性』と、カミーユは告げる。


 笑顔を顔に貼り付けてカミーユを見据え返す。彼女がいる身でこんなことは言いたくない。

「そうだったね、デートの約束だったっけ」そうしてカミーユと僕はほぼ同時に席を立つと、ガランとしたスターバックスを後にした。


 急遽デートが決まったカミーユと僕は繁華街に来ていた。カミーユのチョイスなのだが来たかった理由が、しばらく来てなかったからだそうだ。繁華街は人が多く、チカチカする看板が目を疲れさせる。店々から発せられる陳腐な音楽は聞いているだけで飽き飽きしてくるものだった。


「こうして歩いてると最初に会った時のことを思い出すわね」

「確かナンパがきっかけだったか」

「いい男が話しかけて来るんだもの、まさか政府の人だなんて思わないわよ」

「ハニートラップには気をつけろってフランスで教わらなかったのか?」

「教わったわ、それでも魅力的すぎた。一年も一緒にいた人なんてあなたぐらいよ?」

「でも、僕は運命の人じゃなかった」

「そうね、あなたは私を情報提供者に仕立て上げるためだけに近寄って来た」

「そして僕は見事に君を情報提供者に仕立て上げた」

「気がついた時にはすでにペラペラと機密を喋ってしまっていた。初めから愛なんてなかったものね?」


 彼女の目には悲しみと懐かしさが浮かんでいるようだった。こちらを見つめる彼女は何も言わずに僕の腕を取り彼女の腕と絡める。お互いがお互いの手を握り、時が止まったようにも思えた。

「……僕には本当に愛するべき人ができた。今君を愛しているといえば嘘になる」彼女はうつむく。「でも僕が君に近づく際、恋に落ちた男として近づいたのは君が魅力的だったからだ」カミーユは僕の腕を離すと微笑んだ。

「そう言ってくれると自信が出るわ」

「君はいい女なんだ、俺なんかじゃなくてもっとお似合いの男ができるさ」

「あなたとその新しい彼女とはうまく行ってるの?」

「ああ、そろそろプロポーズしようかと思ってる」

「だったらこういう場所はまずいのかしら?」カミーユが突然立ち止まった場所はビジネスホテルの入り口前だった。

「ああ、まずいな。僕は彼女一筋、彼女も僕一筋。もし君みたいな女性と入ったら……彼女に殺されか八つ裂きにされるかわかったもんじゃない」

「あら怖い、でも……プライベートな場所で取引するならここじゃない?それに……」彼女は顔を唇が触ってしまうぐらいに近づけて来ると一言『さっきの監視、まだついてるわよ』それだけ言うと勝手にホテルへ入ってしまった。

「仕方ないか」これだからこういう女はめんどくさいんだ。大きなため息の後、彼女の後を追うようにホテルのドアをくぐった。


 ホテルの受付で一晩、最上階の部屋を頼むと僕が支払いをすませる間にカミーユは先に部屋に向かって行った。ロビーを見た所、ホテルは新しくも古くもなく三つ星と四つ星の間ぐらいのもので、エレベーターが妙に古かった以外には特に取り柄もないような普通のホテルだ。


 僕もカミーユの後を追って、エレベーターに乗り込む。ボタンの効きが悪くて何度も押さなくてはいけなかったが、それさえ済めばあとは上昇感に身を任せた。訪れるひとときの沈黙。それがどうにも耐え難く、スーツケースに入った、一千万円をこっそりと確かめる。確かに一千万ある。何もおかしくない。


 チーン、とエレベーターが開くとそこには銃を持ったカミーユの姿、正確には銃を僕に突きつけたカミーユの姿があった。

「酔っているのか?」

「かもね、でもこうすると決めた時には酔ってなかったわ」

「さて、具体的にはどういう理由でこうすることにした?」

「まぁいろいろあってね、高飛びする前に不安の種は潰しておこうと思って」

「おいおい、やめてくれよ。僕を殺しても不安の種は潰れないぞ、なんせ日本政府を相手に取るわけだ」

「ごめんなさいね、でも気は変わらないわ……死んでちょうだい」


 カミーユがグリップを一層握り締める、僕はスーツケースを盾にカミーユに向かって行った。発砲二回、一発目はスーツケースに直撃し貫通せず。二発目は左耳をかする。チクリとした痛みが広がり、アドレナリンがそれをかき消す。カミーユが銃を捨てると懐からナイフを取り出した。僕は彼女の腕を取り、無効化しようとするが重心をずらされて背負い投げられる。

「っ!」床に叩きつけられた背中の痛みは感じないが、どこか骨をやられた気がした。とゆうかこの女、外交官じゃないだろう。

 僕にまたがるカミーユはナイフを喉に突きつけていた。

「ゲームオーバーよ」

「まさか外交官だと思ってた女がフランスのエージェントとは」

「あら、惜しいけどちょっと違うわ。」ふふんとカミーユは鼻を鳴らす「私フリーランスなの」

「へぇ、今の時代は他国の防諜員を殺してお国のサポートもなしに高飛びできるのか。時代は変わったね」

「自分を殺せばまるで私は終わり、みたいな言い方ね」

「実際そうだろう?」

「それが違うのよ」彼女はそういうとナイフで僕の腹を突き刺す。

「グアァァァッ」刺された痛みはアドレナリンではかき消されなかった。

「これで時間さえ立てばあなたは出血死よ」感覚が薄れるのを感じる僕には彼女の声がぼやけて聞こえた。「冥土の土産に教えてあげる」


意識が朦朧とする中、カミーユの姿と僕の彼女……カスミの姿が一瞬だけ重なった。

「あなたの近辺調査をさせてもらったわ。親とは死別、兄弟もなし」

死ぬ前に一度だけ、一度だけでいいからカスミの顔を見てさよならと言いたかった。

「だけど、そんなあなたには上にも報告していない彼女がいた。冬野カスミ、民間人」

ああ、知っているのか。頑張って必死に隠蔽してきたのに。

「それでね、もしその二人が同時に行方不明になったとしたら上も納得でしょう?」

口には鉄の味、視界はぼやけ、音もかすかにしか聞こえなくなっていた。

「でね、監視してた黒髪ロングの女性、カスミさんなのよね」その一言で意識が一気に覚醒する。


「つまり……今から彼女を殺しに行くのか?」喉を絞り出すように出した声はラジオのノイズのようだった。

「あら、まだ喋れたのね。でももうじきに死ねるわよ」そういう彼女は立ち上がり落とした銃を手に取る。「あとね、一つ訂正してあげる。彼女が殺されにくるのよ」そういうと彼女はエレベーターに向かって銃を構える。「すごい、嫉妬してると思うわよ。なんせ私たちがイチャイチャしてるのを後ろからずーっと眺めてたんだもの」エレベーターはあと二十秒もあれば到達するだろう。「まぁ私が監視するように仕向けたんだけどね」


 僕は渾身の力を振り絞って腹のナイフを引き抜くと彼女のアキレス腱を切った。僕の腹は不思議にも痛くなかった。そのまま立ち上がると、姿勢を崩したカミーユの心臓をナイフで捉えた。彼女は動きを止めると、恨めしそうな顔をこちらに向ける。その顔を足で蹴り上げると不意に、カミーユは銃を手放した。銃をとり顔に向かって構える。

「な……なんで…………」

「銃を捨ててナイフで応戦した対応は間違ってない。だが刺す場所が間違っていた。喉と心臓を狙うべきだったのさ。あと長々と話をしてるからだ」パンッ! その音はフロア中に響き渡り、銃の弾が一つ減り、カミーユの頭には開くべきでない穴が開いていた。


 エレベーターはあと数秒で開くだろう。それまでに僕は朦朧とする意識をエレベーターに向け、笑った。死に顔は笑顔で、彼女に看取られながらっていうのが夢だったんだ。開くエレベーターには黒髪ロングの可愛らしい女性。怒り顔が真っ青になっていき驚愕を浮かべている。ああ、夢が叶ったよ。彼女は何かを叫んでいるがもう聞こえない。朦朧とする僕は膝を突き、彼女に向かって倒れる。彼女が頑張って僕を支えてくれると、僕の人生は終わった。死因は大量出血。落ちてゆく意識の中、自我は確かに潰えた。

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