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作者: ラジオ

 椅子一つ分――つまり五十センチほど。それが、向かい合って椅子に座る私の膝と彼の膝の距離だった。

 この広いアトリエには、私と彼以外、空っぽのがらんどうだった。西側の長い壁に連なる窓は全て閉まっていて、カーテンは隅に留められている。時計はないが、窓の外の斜光がガラスを貫いて私の顔の半分を照らしている。

 直接目を向けてはいないが、世界を赤く染め上げるきれいな夕日だった。私と彼を分かち、彼を隠すように、鮮やかな赤い光は二つの椅子の真ん中で影と平行線を描いていた。

 窓の外には確か海が見えたと思う。今は夕凪。穏やかな風は窓を打つこともなく、海鳥や鴉が侘びしげに鳴くこともない。世界は今、大いなる落日の視界とその死角のみによって分断されていた。

 彼の視線は、私とカンバスの間を往復していた。しばらく私を――私の瞳を覗くと、カンバスに顔を戻して手を動かす。少しして、また私の瞳――まばゆい赤い光に照らされている方の瞳を覗き込む。彼はおそらく鉛筆で絵を描いているが、まるで本当はそこには存在しないかのように何の音も立てなかった。

 二つの椅子の間の平行線がまた少し角度を変えると、徐々に世界を照らす光に暗然とした色が混ざり始め、斜光は世界を照らし出す仕事を終え始め、私の腰から下は世界から消えた。

 私はほんの少しだけ、右の肩を動かした。

 彼は気付いて、私の瞳から私に視線を移した。

「痒いの?」

 私は彼の声量に合わせて小さく「はい」と答えた。

 彼は立ち上がって私の後ろに回り、右肩に触れた。

「このあたり?」

「もう少し下……肩甲骨のあたりです」

 彼は痒みが生じていた私の右肩の周辺を服の上から強めに押したり、強めに掻いたりしてくれた。

「いい?」

「……はい」

 ありがとうございます、と言いかけたが、彼ならその言葉は間違っていると言いそうな気がしてやめた。

 できた、と彼が小さく呟いたのは、それからすぐのことだった。一週間毎日欠かさずこの時間に絵を描いてきたにしては、抑揚のない、あまり完成を嬉しく思っていないような冷淡さを孕んだ声だった。

「見る?」

 私は小さな動作で頷いた。

 彼はカンバスを反転させた。

 そこに大きく描かれていたのは、やはり瞳だった。モノクロのはずなのに、その大きな瞳は光を通して黄金色に輝いていた。

「見える?」

 彼がそう問う頃には、私はこの瞳の中にぼんやりと描かれているものに気付いていた。

「これは……兎?」

 はっきりとは描かれていないが、どこか哀れな雰囲気を醸す兎がそこにはいた。

「僕はね、探しているんだ、ずっと。僕自身を」

 この兎が何を表していて、彼が何を考えているのか、一週間彼と過ごしてきた私にはすぐにわかった。廊下の壁に並ぶたくさんの瞳の絵。地下室の入り口近くから漂う異臭。薄々察してはいたが、私はやはり、彼にとっての多くの中の一つだった。

「でも、見つからないんだ。この絵も、廊下にある絵も、全部僕の自画像だ」

 彼は俯き、暗がりの中で萎んだような表情を見せた。

「また、新しい人を探さないと。今度こそ、ちゃんと僕自身を見つけてくれる人を」

 彼は私に目を向け、穏やかな表情を作った。

「君は今日から地下室で寝てくれるかな。ぐっすり眠れるようにしてあげるから」

 今、私はおそらく用済みとなった。地下室には、廃棄されたたくさんの鏡たちが死屍累々と斃れているのだろう。

 私は、目の前の哀れな兎に、やはり憐憫の情を抱いた。

「そうやって、死ぬまで他人の中に映る自分を探し続けるんですか」

「おそらくそうなるだろうね。でも君には関係ない」

 彼は冷たく言った。

「自分が何者なのか、自分がどこにいるのかというのは、きっと誰にもわからないのだと思います。自分の目に自分は映りませんし、他人の目に映る自分も、本当に自分自身なのかどうか、本人に確かめる術はありません」

「そうだね」

 彼は窓外の景色に目を細めた。尊大な遠景を睥睨しているのか、したたかな残光に眩んでいるのか、わからなかった。区別はないのかもしれない。

「自分がわからないのは、怖いですか?」

 彼は答えなかった。

「あなたとは違うことを経験してきた私には、きっとあなたの恐怖は理解できません。でも……」

 空はさらに黒さを増し、夜の気配がぐっと近づいてきていた。

「昔、兎を飼っていました。小学校に上がるまでは、四六時中一緒にいました。でも、学校に通うようになって、兎といる時間は減っていきました。中学生の時、兎は死にました。私以外の誰も、泣きませんでした。いつも私が独り占めして一緒にいたからです。でも、私もその頃には学校のことで頭がいっぱいで、一日に一回、餌を上げる数分間しか顔を見ませんでした」

 彼の目から涙がこぼれるのを見た。

「あなたは、泣いてくれるんですね」

 私がそう言うと、彼はバツが悪そうに涙を拭った。

「あなたが私をここに連れてきたのは、本当に自分の絵を描くためですか?」

「もういい。ここは今晩燃える。ここから南に道路を進むと町があるから、君はそこに行くといい」

 彼はポケットからナイフを取り出すと、私の背後に回り、私の手足の拘束を解いた。

 私はすぐさま立ち上がって反転し、哀れな兎を腕に抱いた。

 宵の薄闇の中、床から金属音が響いた。足に伝った振動は私の神経の奥底まで震わせた。

 彼のか細い手が、私の背中におずおずと触れるのを感じた。たったこれだけの動作に、強い罪悪の意識を覚え、大きな罰が与えられないかとひどく怯えているのがわかった。それはさながら、臆病な小動物のように。

 私は言った。

「あなたは、その手の中の温もりと共に、今ここにいます」

 すでに世界は夜の影に覆われていた。


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