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【第103話】嫌な予感

 病室を出た二人は、両サイドに木製の手すりがある廊下を歩く。さすがは大病院と言うべきか、床や壁に汚れの一つ見当たらない。


 そんな真っ白な壁と強い照明が重なり、朝霧と黒崎は脱水症状のようにクラクラしていた。今までの緊張とも言える心配が裏切られるような形で解かれたため、安心感よりも脱力感が強く襲ってきたのだ。


「ごめんね、朝霧君。真昼に呼んじゃって。忙しくなかった?」


 黒崎が力のない声で呟いた。その声からは、申し訳ないという気持ちが痛いほど伝わってくる。

 朝霧は応える。


「別に暇だったから大丈夫大丈夫」


 しかしその言葉からは、いつもの元気が感じられなかった。それは、あんな頑固ババアといえど、心配しながら走ったことが原因だろう。


 そしてそれは黒崎も薄々と気づいていた。


「んじゃ、そろそろ帰るわ。ファンも待ってるだろうし」


 だから黒崎は、帰ろうとする朝霧の右腕の裾を掴む。

 なにかお礼をしなくては……。そう思ったのである。

 ただ少なくとも、夕霞さんに負けないよう朝霧君との距離を縮めなければ! という私利私欲のためでもあったのだが。


「この近くに美味しいパンケーキ屋さんがあるんだけど……一緒に行かない? あの、今日のお礼もしたいし」

「あ、え……じゃ、じゃあ行こうか! ファンには連絡すりゃ良いしね!」


 朝霧の返事に黒崎は心の中でガッツポーズをする。その間に朝霧は黒崎を連れて、そそくさと病院から出ようとしていた。


 朝霧から手をつないでくれたことに舞い上がる彼女は知らない。


 彼女の胸が朝霧の右腕に密着していたことを。その様子を後ろの方から睨みつける雪華がいたことを。朝霧はその存在から逃げるためにそそくさと病院から出ようとしていることを。


◇◇◇


 病院から出ると、そこは灼熱地獄だった。朝早く来たときはそこまで気温が上がっていなかったため、そして今までクーラーの効いた病院にいたため。二人とも完全に忘れていたが、今は八月上旬の真夏なのだ。


 それも関東のジメジメとした真夏である。まるで身体からドロドロとした汗が噴き出すようで、とても気持ち悪い。


 さらに、セミの煩わしい鳴き声が『イラつき』という相乗効果を生み出す。この環境はまさに最悪だ。


 しかし病院内ではセミの声など微塵も聞こえなかった。まぁ大病院ということもあるし、結構性能の良い防音技術でも採用されているのだろう。


「朝霧君、お店まで歩ける?」

「慣れちゃいるけど、ちょっとキツいな……。とりあえず早めに行こうか」


 朝霧と黒崎は、とにかく暑さから逃れるため急ぎ足でパンケーキ屋へと向かった。

 三車線の大通り。そのアスファルト。一番向こう側が揺らいでいるのが見えた。


 そんな体感的にも精神的にも暑く感じる通りを歩くこと約一〇分。『元祖・パンケーキ屋』という大きな看板を構える店にたどり着く。


 赤レンガのこじゃれたお店の前には、小さな黒板にメニューが書かれてあったが全て英文。もちろん英語の成績が悪い朝霧にはなにがなんだかである。


 かろうじて読み取れるのは『GANSO-HARAJUKU-pancake』ぐらいだ。


「良かった……今日は空いてる」


 そんなメニューと悪戦苦闘をしている朝霧の傍らで、黒崎はホッとしながら呟いた。いつもと混み具合が違うことに気づいている辺り、どうやらこの店の常連のようだ。


「いつもは混んでるんか?」


 黒崎はそんな朝霧の問いに、特に考える様子を見せず答える。 


 数ヶ月前にオープンしたんだけど、「この店のパンケーキオススメ!」というブログが拡散されてから人気沸騰。おかげで初見の人が大勢押し寄せ、常連だった私もその人の多さから最近は来なくなっていた。とのこと。


 そういえば夏期講習のとき、クラスの女子がパンケーキのお店の話題で盛り上がっていたっけ。まぁ俺はそれどころじゃなかったわけだが。


「そんなに美味いのか……。今度、ファンを連れて来るかな」


 そんな些細な一言が黒崎の表情を曇らせた。まるで浮気を疑うような目だ。

 しかし「でりかしーがない」と幼女ファンに言われるほどの朝霧は、そんな黒崎に気がつくことなどなかった。


 そして何事もなかったかのように「そろそろ店内に入ろっか」とのん気に言いながら黒崎と一緒に自動ドアをくぐる。


 店内は一言で言えば洋風だった。明るい店内に、壁は真っ白。それに相反するようにテーブルとイスは暗い茶色。それらを調和するように床は明るい茶色といった具合だ。


 朝霧達に気づいたのか、すぐさま女性の店員が駆けつけた。


「何名様ですか?」

「二人です」

「分かりました。お席にご案内致します」


 どこの飲食店でも行われそうなやり取りをすると、女性店員は店の奥へと入っていく。そして角っこの席に案内された。


 朝霧と黒崎は向かい合うように席に座る。


「こちらメニューです。お決まりになりましたら、お声かけください」


 女性店員は言うなり、早歩きでその場を去っていった。満員ではないが、空いているわけでもない店内。恐らく接客以外の仕事にも追われているのだろう。


 朝霧はそんな彼女の後ろ姿を見ながら「お疲れさまです」と心の中で呟く。


「さて。朝霧君はどれにする?」

「お、俺は黒崎さんのオススメで良いや」


 英語表記は読めません、などと言えない朝霧はとりあえず黒崎に選んでもらうことにした。

 対して黒崎は「んー……」とアゴに手をくっつけながら、朝霧のために一番美味しいパンケーキを品定めする。


 そんな子供らしい仕草をする黒崎を見て朝霧はファンへの電話をしていないことに気がついた。

 さすがにガヤガヤしている店内では、ファンの言葉が聞こえづらいと思い朝霧は席を立つ。


「ちょっと電話してくるね。その間に頼んでおいてくれる?」

「うん、分かった」


 朝霧はよろしくと言いながら、一旦店外へと出た。クーラーの利いていた店内がオアシスに思えるほど日差しが辛い。


 スマホをズボンのポケットから取り出すと、自分の寮の固定電話にかける。数秒の呼び出し音が鳴った後、ファンの声が聞こえてきた。


『は、はやて!? どうしたのかな、いきなり!?』


 まるで不自然な驚き方。なぜか朝霧の嫌な予感が警報音を鳴り響かせた。


「いや、ちょっと帰るの遅れるって伝えたくて……」

『そ、そうなの? じゃあご飯とかも外で食べてきたり……?』

「あぁ、悪い。夜にでも食べるから──」

『わかった! ご飯は私が全部食べるから大丈夫! あと気をつけてね!』


 その後に続いた言葉は機械的なピーピーピーという音だった。

 なにかがおかしい。絶対になにかをやらかしてる。

 朝霧の嫌な予感が全力で「寮へ向かえ!」と指示する。だが黒崎とのお食事もあるためそれはできそうない。


 朝霧は今更寮に舞い戻っても、起きたことは仕方ないと思い、とりあえず黒崎のもとへ戻ろうと身体を半回転させる。

 それにファンが電話にでる余裕があったということは、少なくとも寮が全焼……などのヤバい事案は発生していないはずである。


 クーラーの利いた店内に入ると、日差しのせいで噴き出した汗なのか、それとも嫌な予感が生み出した冷や汗なのか。


 とにかく朝霧は異常な寒気におそわれた。

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