忘却の里
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
◇ ◇ ◇
パチパチ…
木の爆ぜる音が遠く聞こえる。
「……ん……」
(暖かい……)
目覚める直前の記憶は、ただ寒い、という感覚に尽きる。
寒い。冷たい。痛い。寒い。寒い。寒い。
顔や手足が、冷えで感覚をなくしていった。雪で目の前が見えなくなり、何処を歩いているのかもわからなくなっていた。
はっきりと覚えているのは、ただ寒い、寒いと頭の中で自分が叫び続けていたことだけだ。この叫びが止まる時自分は死ぬのだろうと思った。
ところが――
「起きたか」
「…………」
目の前に、男がいる。
裸の。
そして――
裸の、自分がいる。
「……!!!!!!!」
(嘘……!)
毛布を慌てて引き寄せる。
「おっと」
自分に毛布を引き寄せた所為で、男の肌がより露わになった。
「す、すみません……!!」
どうしていいかわからずに、毛布に顔を埋めて自分の視界を覆う。
(一体何が……!? どうして、私……)
衣擦れの音がする。男はきっと着替えて――そもそも着ていなかったので、服を身につけているというべきか――いるのだろう。
「道の途中で倒れていた。身体がとても冷えていたので……」
服を着ながら男がそう言ったのは、きっと自分たちが裸でいる理由の説明だったのだろう。
とにかく寒かったという記憶はある。
どうやら私は雪の中で倒れているところをこの男に助けられたということのようだ。
「……すみません。ご迷惑を……」
自分の身体を毛布で覆ったまま、私は身体を起こした。
暖炉の前で男が女物の服を手に取っていた。
あれは……私の服だろうか。
見覚えがない。
「乾いたようだ。着るといい」
男は服をベッドの上に置いた。
「ありがとう……ございます」
「貴女が着ていた服だ」
この服に見覚えはない。
だからと言って、ここに来るまで自分が何を着ていたかという問いへの答えが私にはなかった。
なにも。
なにも。なにひとつ。
名を名乗り、倒れていた経緯でも話すべきだということはわかる。
けれどどの答えも私は持っていない。
服に見覚えはないけれど、服の着方はわかる。
名前はわからないけれど、ここは名乗るべきだということはわかる。
「記憶が、ないのだろう?」
「……記憶……」
「この山の門をくぐる時、貴女は署名をしているはずだ」
「署名……?」
「あぁ」
「…………」
わからない。
なにも。
なにも。なにひとつ。
「私……」
私は、誰?
ひどく頭痛がする。
「無理をしなくてもいい。記憶は戻らない」
「……わかりません。なにも……」
「この山は『忘却の里』と呼ばれている」
「忘却の里……」
「この山の門をくぐる時、人はすべての記憶を失う。俺も、己のことは忘れている」
「なにも……覚えていないのですか」
「あぁ」
男の言葉は簡単だった。
或いは、こうした『記憶を失った者』と話すことに慣れているのかもしれないとも思った。
底のない沼に足をとられてしまったような恐怖が、ひどく私を落ち着かなくさせた。
けれど、何をしていいのか、皆目見当もつかない。
「まずは、服を着てくれ」
「……!」
その男の言葉で、まずは自分がまっさきにすべきことを認識した。
「すべて、ですか」
「すべてだ。自分自身に関することはすべて忘れている。貴女も同じはずだ」
男はそう言って、野菜を煮込んだスープを一口飲んだ。
スープを作ったのは私だ。
料理の仕方は身体が覚えていた。イモにニンジン、玉ねぎ、ロイの根。野菜の名前もわかる。
置いてあった塩が桃色をしていたことに違和感を覚えた。私は塩が桃色ではないことを知っているということだ。
けれど自分の名前は覚えていない。
何処から来たのかも、親の名前も、子供の記憶も、住んでいた土地の風景も、歌っていた歌も、好きだった食べ物もわからない。
なにも、何1つ。
「俺は、今は里の役人をしている。兵士だ。この里に来る前も兵士であったようだ。剣の扱いは誰に教わらずとも知っていた」
「…………」
「貴女も、きっと家族のために料理を作っていた人なのだろう。――美味い」
ふっと男が微笑んだ。
兵士らしい朴訥な印象の人だが、意外と人好きのする笑顔だ。
「この里にいる者は皆、過去のすべてを忘れている。この里でどう生きて行くかは貴女次第だ。明日にでも里を案内しよう。記憶は失っても、身体が覚えていることがある。そうしたものを探していくのもいいだろう」
「あの……」
「俺の名は、イアンだ」
「その名前は、貴方の名前ですか? その……持ち物に書いてあったとか……」
「いや。俺が身につけていた剣に彫られていた名だ。ここの者は大抵、ここで初めて目にし触れたものを自分の名にする。……名のないまま生きるのは、なかなかに辛いものだ」
「……『イアン』が、本当に貴方の名だったということはないのですか」
「それはない。刃に刻まれるのは鍛冶屋の名だ。自分のなにもかもは忘れても、そうしたことは覚えている。生まれた時の名を思い出すことは生涯ない。死ぬまで俺は『イアン』だ。……そう呼んでくれ」
「イアン……さん」
「あぁ」
『イアン』は頷いた。
「呼び捨てで構わない。ここの里の者は皆、互いを家族だと思っている。イアンと呼んでくれ」
私が、「イアン」と呼ぶと、今度は少しだけ頬を緩めて頷いてくれた。
「貴女にも名前が要るな」
「…………」
名前は、欲しい。
強烈な喉の渇きに襲われるのにも似た、欲求が湧いてくる。すぐにでも、欲しい。
けれど欲しいのは自分の名であって、即席の名ではない。
そう思うのに、何であっても構わないから、名前が欲しいと思う気持ちも同時に湧いてくる。
私は辺りを見渡した。
――名前が欲しい。
そんなところに、名前など落ちているはずもないのに。
「『リサ』というのはどうだろう」
そう言ったのはイアンだった。
「リサ……?」
「俺が持っていたハンカチに刺繍がしてあった」
男――イアンは自分の懐から1枚のハンカチを取り出した。
リサ、と確かに書いてある。
その字が読めたことで、私は自分が『字が読める』ということを認識することが出来た。
「……でも……」
(それは、大切な人の名前なのでは……)
私の躊躇いを見てとったのか、イアンは申し訳なさそうな表情を見せた。
「好きな名をつけるといい。強いるつもりはない」
「あ、いえ。違うのです」
私は両手を胸の前で振って、幾分必死に言い訳をした。
「その……貴方の大切な方のお名前なのではないかと……」
ハンカチに刺繍されていた名前、となると、妻や娘……イアンは見たところ若いので、恋人の名前かもしれないけれど、何にせよ簡単な関係の人だったとは思えない。
「大切だったのかどうか、思い出せない」
「……そう……ですよね」
「名前は貴女に任せよう。何か縁のある名を……」
不意に、恐怖が湧いた。
今その名を拒むことで、目の前にいる私にとっての『唯一の知人』との縁が切れてしまうような気がした。
――里の者は皆お互いを家族だと思っている。
――最初に出会った名を自分の名前にする。
記憶を失った者は、皆同じように感じるものなのだろうか。
そうした、約束事のようなものが、ごく自然に自分の中からも湧いてきている。そう思わずにはいられない。そんな種類のものが。
「その名前を……いただいてもいいですか」
イアンは微笑んで、「リサ」と私を呼んだ。
その声がとても優しくて、嬉しくて、胸に湧いた温かな感動が湧く。
私は涙を一粒零して、「ありがとう」と言った。
夜になって、どちらがベッドで休むのかという一悶着を経て、イアンは床に毛布を敷いて眠り、私がベッドで眠ることになった。
「明日は私が床で寝ます。約束して下さい」
それが今日、私がベッドで眠る条件だった。
「わかった。約束する」
イアンは笑っていた。
「俺は兵士だ。多少の寝心地の悪さは気にならない」
「兵士だろうと王様だろうと、床の方が寝心地がいいと思う人なんていません」
「わかった。約束する。……おやすみ」
「おやすみなさい」
ベッドに入り、私は自分の腕に触れてみた。
イアンのような筋骨隆々とした身体つきをしていれば、役所の文官だと自分を認識することはないのかもしれない。
自分の身体から、何かがわかるような気がして暖炉の明かりを頼りに改めて手を眺めた。
手には生活の跡がある。料理も出来た。鍋の使いかたもわかる。調味料の使い方も。
洗濯をする場所は何処だろうか。干し場は何処に? そう思ったところからも、自分は家庭を守る女だったに違いないと思った。少なくとも貴族の娘ではないはずだ。
腹は平らだった。子供はいなかったに違いない。
黒い髪に白いものはない。だから老いてはいない。
料理をする時、手際はよかった。好みの味付けも、野菜の角が丸くなるまで煮ようと思ったのも、きっと身体が覚えていることなのだろう。他のどんなことよりも、料理をする時に身体がよく動いた。
きっと自分は料理が得意なのに違いない。
(だけど……それだけで生きていけるのかしら……)
じわじわと不安が身体を蝕むように襲ってくる。
(見知らぬ土地で女1人……どうやって生きていけばいいの?)
不安だけが募る。
眠れぬ夜はとても長く、私は夜が白む頃まで孤独と不安に怯え続けていた。
翌朝、イアンは里を案内すると言ってくれた。
「そのままでは寒いだろう」
イアンは手袋やら襟巻やら外套やらを、てきぱきと私に着せてくれた。私が身につけていたらしい手袋は、片方しかなかったそうだ。
「イアンはどうするのです?」
私とイアンではずいぶんと体格に差がある。ブカブカの外套を着せてもらった私はまだしも、私の身につけていたらしいショールは、イアンには襟巻程度にしかならないだろう。
「古着がある」
納屋に向かったイアンは、説明されるまでもなく古着だとわかるようなボロボロの外套を着て戻ってきた。
「新しいものを買おう」
「ごめんなさい、お世話になって」
「構わない。皆助け合って生きている。俺もそうして命を繋いだ」
「……イアンは、どなたに助けてもらったのです?」
「この家に住んでいた老兵だ。俺を拾って2ヵ月ほどで病みついて死んでしまった。……俺は彼を父と呼んでいた」
すると、イアンの着ている年季の入った外套はその老人のものなのかもしれない。
外に出る。
道の雪は踏み固められていて、歩きにくいということはなかったが、足をとられて何度か転びかけた。
「私、雪に慣れていないみたい」
「そのようだな。俺も最初はそうだった」
そんなことを話すと、少しだけ気持ちが楽になる。自分だけではない。いずれ自分もこの環境になれる日がくる。そう思うことができた。
イアンの家は里の外れにあって、雑木林に遮られている為に窓から里の様子は全く見えていなかった。
イアンに手を取ってもらいながら雑木林を抜けると、町並みが見えてきた。
(思ったより大きな町なのね……)
記憶を失った者たちが、家族のように生きていると聞いて想像したよりも、規模は大きい。通りには店が並び、道に馬車が走り、人々が行き交っている。
「……どのくらいの人が、里に住んでいるのですか?」
「500人ほどだ」
「賑やかですね」
「そうだな」
当たり前の暮らしをしているように見えて、彼らのすべては過去を失っている。
けれど私の目には少なくとも、当たり前の人の営みとしか映らなかった。
「…………」
「皆、ここに来てからそれなりに時を経ている。不安なのは最初だけだ。この里で過ごす時間が長くなるうちに、皆それぞれに過去を作っていくことになる。リサも、すぐに当たり前の暮らしもできるようになるだろう」
「できるでしょうか」
「大丈夫だ」
「……ここの暮らしに、皆満足しているのでしょうか」
「ここを出ることは里の掟で禁じられているが……掟で縛らずとも、逃げ出した者は記録の限りで誰もいない。この里で生まれた者も、役人になって外と交渉するのがせいぜいだ。皆……恐れている」
「恐れる? 何をです」
「この里にどうして自分が来たのかを、誰も知らない。犯罪に手を染めたものか、追われる身だったのか……俺たちにとって、天地はこの里だけだ。外の世界に夢を見る者はいない」
「わからないのですか。その、署名をするという門に行けば……」
「門には近づけない。……あれが伝えてくるだけだ」
イアンは空を見上げた。
青い澄んだ空に白い鳩が飛んでいる。
「門のことはあの鳩が伝えてくれる。貴女のことも、あの鳩が伝えてくれた。役所から兵舎に連絡があって、俺が捜索に出た」
「……すみません……」
「門でも貴女を止めたそうだ。だがどうしても朝に……何としても雪の降る朝に里に行かねばならないと言って、制止を振り切って山に入ったと聞いている」
そんな話を耳にしても、全く心当たりなどはない。
風景などから察する限り、この里は山の高い場所にあるようだ。雪の降る山に女1人が、制止を振り切って入っていくというのは、私に残っている常識の感覚では考えられないことだ。
(何か事情があったのだろうけれど……)
そこまでして、雪の朝にこだわる理由など想像もつかない。命をかけるほどの何かがあったのだろうが、私の記憶にはなにも残ってはいない。
「ともあれ、助けることができてよかった」
そう言ってイアンは、優しく微笑んだ。
「よぉ、久しぶりだな、イアン。お、そのお嬢さんかい? 噂の命知らずは」
外套を買う、と言ってイアンは1軒の店を訪ねた。
店主の男はイアンよりも10才ほどは――イアンは20代くらいに見える――上のように見えた。
「名前は? もうつけたのか? まだなら、トラかイノシシにするといい。雪の山に入るなんて、獣みたいなお嬢さんだ」
「リサだ」
「よろしくお願いします」
私が挨拶をすると、店主は私とイアンを交互に何度か見て、ニヤニヤと笑っていた。
「リサ、どうだ。古着屋のおかみさんになる気はないか?」
「え?」
「兵士の妻は留守がつらい。その点この商売なら……」
「そこまでにしておけ、ゼンダ」
店主と私の間に、イアンが割って入る。
「外套と、手袋が欲しい。襟巻もだ」
「はいはい、わかったよ」
店主は店に並んだ棚の1つから、幾つかの外套を持ってきてくれた。
「好きなものを選ぶといい。イアンは高給とりだ。何でも買ってくれるさ。いい男を見つけたな、リサ」
「ゼンダ」
イアンが店主を嗜める。
「いいだろ、お前を褒めてるんだから」
「いいから、黙ってろ」
何と返答をしたものかと戸惑っているうちに、イアンは外套を手に取って、「これはどうだろうか」と勧めてくれた。
イアンが買ってくれた外套に着替え、やっと私は身の丈にあった格好になった。
「ありがとうございます。すっかりお世話になってしまって」
「気にするな」
店を出て、尚も歩く。
「少し休もう。そこに酒場がある」
「酒場……?」
「むさ苦しい男ばかりではない。里の憩いの場だ」
「……また、勧められますか……? その……どこかに嫁ぐことを」
先ほどの店主の話を聞いてから、私は不安にかられていた。
非力な女が、この里で生きて行くのには見も知らぬ男と結婚をする他がないとでも言われるのではないかと。
「……ゼンダのは軽口だ。あれにはもう妻がいる」
私がよほど泣き出しそうな顔をしていたからか、イアンは労わるように、私の肩をポンと叩いた。
「ゼンダの妻は、若いがなかなかに剛毅な妻だ。今の話を告げ口すれば、追い出されるのはゼンダの方だ」
「まぁ」
おかしくて、笑ってしまった。
どうやら店主にはからかわれただけのようだ。
(よかった……)
「だが、そうした話は舞い込んでくるだろう。……その、リサは若いし、美しいから」
「…………」
私は、高いところにあるイアンの顔をまじまじと見てしまった。
「ただ、急がない方がいい。記憶は失っても、己の心を裏切ってはいけない」
会話がそのまま進行しているところを見ると、『美しい』というのは冗談ではなかったのかもしれない。
(……美しいって……)
胸の中にくすぐったいような恥じらいが湧く。頬が熱くなった。
幸いにイアンは目線を向こうにやっていて、頬の赤さには気付かれずに済みそうだった。
「イアンは……奥様はいないのですか」
「いない。まだ独り身だ」
(イアンも、いい男ぶりなのに)
店主の話では兵士は高給とりだという。この男ぶりだし、若いとあっては女は放っておかないのではないか、などと考えて、私はついイアンの精悍な横顔を見ていた。
「ちょいと! イアン! 店の前で女を口説いてんじゃないよ!」
突然の大声に、私は驚いて思わずイアンの後ろに隠れてしまった。
「ヴァネリア、リサだ」
「あぁ、あの命知らずな女かい」
50代くらいの派手ないでたちの女が私を上から下まで眺めている。
「初めまして、リサです」
「……器量のいい子じゃないか。酒場で働くなら歓迎するよ?」
「昨日来たばかりだ。そう急かさないでやってくれ。アーニャはいるか?」
イアンの問いに、ヴァネリアは顎で店の中を示した。
「リサ、ヴァネリアはこの酒場の女主人だ。もうここに40年いる古株だ。何でも訊くといい。何でも知っている」
「人を婆みたいにお言いでないよ」
ぷいとヴァネリアは顔を背けてから、私の方を見て、「入んな」と存外優しい声で言った。
酒場の店内は老若男女を問わず、40人ほどが集まっていた。
「アーニャ、イアンが呼んでるよ」
カウンターにいた、若い女がこちらを見た。背の高い細身の女だ。
「あぁ、イアン。久しぶり」
「アーニャ、リサに少し話をしてやってくれ。女1人では先行きも不安だろう」
「いいよ。座んな」
挨拶をしてから、私はアーニャという女の横に座った。
「昨日来たばかりなんだろ? いろいろ大変だと思うが、まぁ、何でも聞いてくれ。ここらじゃ顔役で通ってる」
男のような口調でアーニャは言って、手を差し出してきた。
「はじめまして、リサです」
「よろしく。アーニャと呼んでくれ」
アーニャは、この里のことを簡単に教えてくれた。
「この里は基本的に外部と接触は出来ないが、役人だけが外の商人と取引してるんだ。産業は酪農と、養蚕が主だな。染色もこの山の水がいいらしく高値がつく。それから、岩塩の採掘場がある。もともとここの利権がこんなおかしな里を作った原因だって話もあるが、私たちにはわかりようがない。それぞれ得意なことをしているが、能がなければ酪農家か染色の手伝いが一番人手を求めてるから、そこに行くといい。必要ならいつでも案内する」
「……働き口は、すぐ見つかりますか」
「いくらでもあるさ。好きに選ぶといい。私が連れていこうか? イアンが行くか?」
アーニャが訊くと、イアンは「俺が案内する」と答えて、手に持った杯を傾けていた。
「アンタも飲みなよ」
差し出された杯を見れば、それが麦の酒であるとわかる。
「いただきます」
口をつけて、思わず眉を顰めた。
(……苦い)
「ぷっ」
アーニャが声をあげて笑った。その笑顔の明るさに、何か救われたような気分になる。
「リサには麦酒はムリだってさ。ヴァネリア、果実の酒でも出してやってよ」
「すみません……」
「覚えてなくても、好き嫌いはきちんと覚えているもんだ」
「そうみたいです」
けれどこの苦味も、苦手だと思う感覚も、自分が忘れた自分の欠片のような気がして、慕わしささえ感じる。
「宿舎はここから一本入った小路にある。食事代だけでいつまでも暮らせるよ。払いも給金が入ってからで大丈夫だ。今なら空きもある。どうする?」
どうする? と問われて、私は横で酒を飲んでいるイアンを見た。
「皆、気のいい連中ばかりさ。リサもすぐに慣れるよ」
イアンは私の方を見なかった。
アーニャに見送られて、イアンと一緒に外に出た。
「刺繍や織物の工房がある。多少器用な女なら、大抵はそこで働いている。工賃もそれなりで人気だ。まずはそちらに……」
「あの……」
「……どうした」
「……いえ」
イアンが私をアーニャに紹介したということは、働き口を斡旋してもらうのが目的だったのだろう。
「…………」
イアンは、自分を拾った男を父と呼んだという。
持っていた剣に書かれていた名を自分の名にしたという。
それならば、今、自分がイアンに感じている感情も、そうした刷り込みの類なのだろうか。
――離れたくない。
私の心の奥の方で、叫ぶ声がある。
けれど私たちは、雪道で倒れていた女と、助けた兵士である以上の何者でもない。
「…………」
私は足を止め、イアンを見上げていた。
イアンも私を見つめていた。
お互いなにも、喋りはしなかった。
その日の夜、イアンの家で休ませてもらった。
ベッドは遠慮したのだけれど、「餞別だ」と言って最後は譲ってもらうことになった。
翌朝私は、里の宿舎に移った。イアンは玄関まで送ってくれた。
「ありがとうございました」
私はイアンにお礼の言葉を伝えて、それから1つの質問をした。
―――お仕事のお休みは、いつですか、と。
私は刺繍を覚え、工房で働き始めた。
そのうち機織りのことも教えてもらうようになった。
休みは希望する日にとることが出来た。私はすべての休みをイアンの休みにあわせた。
休みの日は朝に市場に行く。野菜を買って、イアンの家に行き、料理をして一緒に食べる。
大抵イアンは先に市場に来ていて、荷物を一緒に運んでくれた。
「今日、やっと図案のあるものを覚えました」
「難しいですが、楽しいです」
「隣部屋の子と、一緒にお菓子を作りました」
休みの度に、私はイアンにたくさんに話をした。
この里のある山は、国境が近いのだそうだ。
そもそもここがどこの国なのかもわからないが、とにかく紛争も多く、脱走兵が紛れ込んだり、脱走兵のフリをして岩塩の採掘場を狙いに来たり……となかなかに物騒な土地だという。
兵士が高給とりだというのも、そうした、剣の腕を必要とする仕事だからだということも、宿舎の女たちに教えてもらった。
「イアンは? 変わりありませんでした?」
「あぁ。相変わらずだ」
イアンは仕事のことはなにも喋らない。
いつも通り。変わらない。相変わらず。その程度のことしか話さない。
スープを飲んでもいつも美味い、としか言わない。
けれど、イアンは私と過ごす時はいつも少しだけ楽しそうだった。
大声で笑うことはないけれど、時折目を細めて私を見つめる眼差しはとても幸せそうに見えた。私もイアンを見つめる時は、とても幸せな気持ちになるのと同じように。
一度、市場で他の兵士と行き会ったことがある。
「コイツ、喋らないでしょう」
イアンと同輩だという兵士は、笑ってそう言った。
「でもね、兵舎だと最近よく喋るようになったって言われてるんだよ」
「まぁ」
驚いた。
「……と言っても、挨拶以外の話をするってだけなんだけどな」
「止せ」
イアンは鼻白んで、同輩から離れようとした。
「何を話すんですか?」
私はイアンに手を引かれつつも、同輩の兵士に尋ねた。
「『明日はリサに会う日だ』って」
兵士は笑って、手を振っていた。
しばらく歩いて、雑木林のあたりまで来た時に、
「お友達と話すのはそれだけですか?」
と訊いてみた。
「それだけだ」
とイアンは答えた。
「私も仲間に話してますよ」
「……俺のことを?」
「えぇ。『今日はイアンに会うの』って」
私が微笑むと、イアンも微笑む。
それだけで、十分に私は幸せだった。
何度か、見合いを勧められた。
今の暮らしで、食べていくのに困ることはない。周りの女たちは皆気がいいし、時折イアンに会いに行く暮らしに不満はなかった。
このままでいい。そう思っていた。
季節は過ぎていった。
春にイアンが時折手伝いにいくという岩塩の採掘場に行った。里より高い場所にある採掘場に向かう途中の壮大な山々の風景はとても美しかった。
採掘場から運ばれてきた塩は桃色をしていて、里の外では高値がつくそうだが、里に住む者は皆この塩を使っているのだそうだ。
夏に沢の蛍を見に行った。イアンは私が好きな果実酒を用意してくれて、いつもより少しだけ夜更かしをして、たくさんの他愛ない話をした。
秋には、イアンが巡回の途中で見つけたという栗の木を教えてもらって、山ほど採って帰った。たくさんの焼き菓子を作って、イアンの兵舎や、私の女宿舎に差し入れた。
冬の終わりに、私は勤続1年の休暇を10日もらった。
イアンがお祝いをしてくれると言うので、私は休みの朝に宿舎を出て、イアンの家に向かった。
「ちょいと、リサ」
途中で、声をかけられた。
酒場の女主人のヴァネリアだ。
「おはよう、ヴァネリア。いい天気ね」
宿舎の女友達と、週に1度は酒場に行く。ヴァネリアとはすっかり顔馴染みだ。
「イアンの、聞いたかい?」
「イアンの? ……何?」
「……見合いしたって話だよ」
「見合い……? イアンが?」
「そうだよ。今から行くのかい?」
「えぇ」
「少し間を置いちゃどうだい。イアンの家に女が入っていくのを見たよ」
(……え?)
信じられない。あのイアンがお見合いをするなんて。
「悪いことは言わないよ。リサだって、イアンと添う気はないんだろ? この辺で、イアンを解放してやっちゃどうだい。あんなに立派な若者がいつまでも独り身でいるなんて、可哀そうじゃないか」
その時私には、2つの選択肢があった。
イアンの家に、もう2度と行かないという選択と……
イアンの家に、今すぐに行くという選択。
「何だったら、アタシが上手く伝えておくよ? リサ」
この気持ちは、何処から来たのだろう。
記憶を失っても、好き嫌いの感覚ははっきりと自分の中にある。私が亡くした『私』が、イアンを求めているのだろうか。
それともこの里での1年の日々が、イアンを求めさせたのだろうか。
もしかしたら、記憶を失った後、初めて会った人だったからというだけのことなのかもしれない。
わからない。
わからないけれど、確かに私たちは一緒に季節を過ごした。この1年、私は確かに彼と共に同じ風景を見、同じものを食べ――
触れ合いはしなかったけれど、同じベッドで同じ夜を過ごした。
たくさんの言葉を交わし、笑みを浮かべ、他愛ないことで笑った。
私が何者で、どうしてここにいるのか、きっと一生わからない。
けれど私はここにいる。
ここにいて――
イアンを思っている。
「リサ! 何処行くんだい!」
私は走っていた。
週に1度、この1年何度も通った道を、雑木林を抜け、古びた家に向かう道を、走った。
イアン……イアン……
その名が本当は誰の名であっても構わない。私にとって、彼はイアンだ。それだけで十分だ。
それだけで、恋は出来る。
「イアン!」
バタン!
扉を開けて――
私は、魔物の呪いに触れた者のように、凍りついていた。
イアンがいる。
何度も一緒に食事をした卓の上に座って、その膝の上には……若い女が……
「リサ!」
私は踵を返して、来た道を引き返そうとした。
今は、慕わしいイアンの声も、聞きたくはなかった。
「待ってくれ!」
兵士のイアンに、足で勝てるはずもなく、あっさりと私はイアンに捕まった。
「放して!!」
大声で私は叫んでいた。
「他の女に触った手で、私に触れないで!!」
自分でも驚くほどの大声で。
「リサ、待ってくれ。違うんだ」
「何が違うの!? 言い訳でもする気!?」
「落ち着いてくれ」
「落ち着けるわけないじゃない! 誰? あの女!」
「ゼンダの妻だ」
「最低!!」
思い切り、イアンの腕から逃れようともがいたけれど、まったくイアンの腕はビクともしない。
腹が立った。
腹が立って、自分が情けなくて、涙が零れた。
「最低! 最低! 放して!! もう放してよ!!」
「リサ!」
「貴方なんか知らない! 貴方のことなんて……忘れてしまいたい!」
「リサ……!」
いつの間にか、私はイアンに抱きしめられていた。
こんな近くにイアンを感じるのは初めてだ。
それなのに、どういうわけか、たまらなく慕わしい、懐かしい、そんな思いに囚われていた。
「リサ……」
「……好きなの……」
ハラハラと涙が零れた。
「好きなの……イアン……」
「リサ……」
私はイアンの首に抱きついて、別れの言葉を言おうとした。今日までの日にお礼を、そして……お幸せに、と。
「そこだ! 押し倒せ! イアン!」
「バカ! 静かにしなさいよ!」
(……え!?)
突然、家の中から聞こえた声に、私はサッと顔から血の気の引くのを感じた。
「気づかれたじゃないの! バカ亭主!」
「バカだねぇ。ここからがいいとこじゃないか」
「行け! 男を見せろ! イアン!」
私はイアンの顔を見上げた。
「…………」
イアンは、複雑な顔をして、家の方と私を見て、「すまない」と謝った。
「……どういう……ことですか」
「リサ、落ち着いてくれ」
「私は落ちつています」
そうして……
イアンの家にいた、ゼンダ夫妻や、同輩の兵士、駆けつけてきたヴァネリア、アーニャらは、それぞれの言葉で事情を説明してくれた。
「じゃあ……私は騙されたんですね……」
そして、たどりついた結論はそれだった。
いつまでも進展しないイアンと私の仲を、この休暇を機に進めてやろうという、周囲のおせっかいと、断りきれずに予行演習をしていたイアンのところに、私はノコノコとやってきて、その現場を目撃した……ということらしい。
そうして、彼らは私のこの里で1年を過ごしたことを祝ってくれ、花や食事を置いて、全開の笑顔で出て行った。
「披露宴はうちの店でね、イアン」
「赤ん坊の産着は家で買ってちょうだい」
そんな言葉を残して。
家に、2人きりになった。
今までずっと、休みの度に2人きりで過ごしていたのに、突然、私はイアンと2人きりだ、と強く意識をした。
「…………」
「…………」
イアンは背が高い。頬骨が高くて、瞳の色は春の霞がかった山のような色をしている。大きな手。太い腕。
目の前にいるイアンが、私の髪を撫でた。
私たちは、いつも一緒にいるけれど、触れ合ったことがあまりない。
「リサ」
「…………」
触れ合ったところが、熱が発したように熱くなる。
「……その……すまなかった」
「…………」
「断ったんだが……リサが来るのが思いがけず早かった」
「それだけですか」
「…………」
「私に言うべき言葉は、それだけですか」
イアンは私の瞳を、夏の夜の星々を見ているようだと言う。私は自分の瞳の色が好きになった。
イアンは私の顔を、可憐な花のようだと言う。私は自分の顔に親しめるようになった。
恋が何なのか、愛がどんなものか。私に確たる答えはない。
けれど今、目の前にいる人を愛しいと思っているのは、他ならぬ私自身だ。
それだけで、十分だった。
「…………」
「…………」
「好きだ」
「……それだけ?」
「……愛している、リサ。俺の妻になってくれ」
私の手を両手で包んで、私の目を見つめて、イアンはそう言った。
「……はい」
私を抱きしめる強い腕に、身を委ねる。
初めて触れる口づけは、触れただけで身も心もとろける程に心地よく、まるで何年も何年も待ちわびた強い渇きが癒されるように強い喜びを伴った。
春の訪れる頃、私たちは夫婦になった。
もう、自分が誰であるのか、イアンが誰であるのか、気にすることもなくなった。
そうして次の夏の終わりに、私たちは子供を授かった。
私たちはそれから、幾度もの季節を共に過ごし――
生涯を里で過ごした。
『愛する妻へ
この冤罪を晴らす機会は永遠にないだろう。私が逃げ出したことで君にどれほどの苦痛を与えるかと思えば、心苦しい。
許してくれと言うことさえできない。君にたくさんの苦労と心配をかけてしまった。国境の守りについて1年。それだけでもどれだけ君を苦しめたかしれない。その上、私の逮捕や逃亡の報を聞いた君が幾度眠れぬ夜を過ごしたかと思えば、胸のつぶれるような思いだ。
この手紙も誰に目に触れるかしれない。詳しいことは書けないが、ただ、私は誰恥じることない人生を送ってきた。罪など何一つ犯してはいない。
追手から逃れるには、もはやこの門をくぐる他ない。私はこれから『忘却の里』に向かう。
すべての記憶を失うことになる。
しかし門をくぐっても、身体に馴染んだことを忘れることはないのだという。
ならばきっと、私は忘れないはずだ。
君の肌の温もりを。君の黒髪の柔らかさを。君の夏の夜空のような瞳を。君のつくるスープの味を。君の笑顔を。
もはやこの世界に、私の安らげる場所はない。追手が迫っている。時間がない。
リサ。
愛する私の妻。
私を忘れても構わない。同封した書類があれば、この結婚は無効にすることができるという。君に私の罪が及ぶこともない。
君はまだ若い。次の夫を迎えたとしても、私は決して恨みはしない。心から君の幸せを願う。
リサ。
愛する私の妻。
君と出会ったほんの幼い頃の春の日のことを忘れたことはない。
思いを告げた夏の夜を、今もはっきりと覚えている。蛍の光を追う君の無邪気な微笑みをどれほど愛しく思ったか。
初めて夫婦として迎えた冬の朝に、共に見た降りしきる雪の美しさ。雪よりも尚美しい君の横顔。
君との思い出を、忘れた日はない。
けれどこの手紙を君が読む頃に、私はもう君を忘れているだろう。
リサ。
愛する私の妻。
時間がない。最後に言えることはただ一つ――愛している。記憶は失っても、私のすべては君を永遠に愛し続ける。
どうか幸せに。君の幸せだけを祈っている』
了