エキセントリック菜々子
薄暗い部屋の中だった。
カーテンの隙間からは夏の日差しが差し込み、テーブルの上に置いてあるノートパソコンのディスプレイがうっすらとした光を部屋の中に放っている。
彼女はテーブルの前に座って、ノートパソコンのディスプレイに見入っている。キーボードの上に置かれたその指は、動く様子はない。
「それにしても、さ」
彼女の、どこか冷ややかにも聞こえる淡々とした声が部屋の中に広がる。
また作業から脱線する気らしい。
「人類って、意味のある生き物だと思う? 宇宙が壊れたら、人間の足跡だって全部消えちゃうんだよ」
その言葉に、俺は呆れてしまった。
「作業が嫌だからって、話を宇宙規模にする人間はお前さんぐらいだよ」
「それはどうも」
彼女は面白くもなさげに答える。
その手は、キーボードの上に乗っているだけだ。
「ただ、作業が嫌なわけじゃないよ。考えがまとまらないだけ」
彼女こと菜々子は、そう言い訳すると、黙ってディスプレイに集中し始めた。
俺はその横顔を、彼女の隣に座って、麦茶を飲みながら眺める。
黙っていれば、彼女は美人だった。
そして、その沈黙は一分も続かなかった。
煮詰まっているらしかった。
「けどね、人間の争いが科学技術の発展に繋がり、それが宇宙開発に繋がると考えると、中々ロマンがあるよね」
「ラブコメのこと考えようぜ」
彼女が書こうとしているのは、男性主人公がテンション高く女性と交際をするラブコメディのシナリオだ。
俺は、ちっとも動かない彼女の指に、諦めに近い心境を覚えた。
「けれども思うんだよ。我々はなんのために産まれ、なんのために競争するのか。争うことによって科学技術が発展し、それが宇宙へ飛び出すことへ繋がるのだとしたら、人類は最終的に何処へ辿り着くのか」
「生憎ながら、宇宙開発は予算削減が進んでるよ」
「なら、人はなんのために生きるんだろう」
「明日の飯を食うためだろ。ほれ、指動かせ」
「……ウィスキー、飲んでいい?」
彼女は、酔ったほうが創作活動が捗るタイプの人間だ。
「一杯にしとけよ」
「うん」
彼女は立ち上がって、ガスコンロの傍の冷蔵庫に歩いて行った。
中に入っているダイエットコーラで、ウィスキーを割るのだろう。
見慣れた姿だった。
彼女こと日比野菜々子と俺は、同じ大学の文芸サークルに所属し、二人で同人サークルを経営している。
今作っているのは、雪の降る町という名の恋愛シミュレーションゲームだ。それは、俺達の代表作となるはずだった。
俺が担当した立ち絵とサブヒロインのシナリオはできている。
進んでいないのは、彼女の担当するメインシナリオだ。
普段の調子で書いてくれれば良いのに、と俺は思う。
それだけで、多くの人が共感してくれるものが出来上がると俺は信じている。
けれども彼女が悩みながら語るのは、ラブコメとは程遠い宇宙の話だ。
俺は、ついつい彼女の、文芸サークル内でのあだ名を思い返してしまった。
彼女は、こう呼ばれている。
エキセントリック菜々子、と。
菜々子と俺が出会ったのは、文芸サークルの新人歓迎会だった。
彼女は二歳年上の同期生だった。
新人歓迎会で酒を振舞われた彼女は、黙々と酒を飲んで潰れた。
その時に、彼女を介抱したのが俺だった。
その翌日、無防備すぎると部室で指摘をした俺に、菜々子は淡々とこう言った。
「私、お酒を飲まないと小説とか書けない性質なのよね」
「俺はたんに、酔っ払ってるだけに見えたけど」
「作品と人間関係は一緒よ。発言という創作物を、相手が評価するの」
変な女。喉元まで込みあがってきた言葉を、俺は飲み込んだ。
彼女が言っていることは、ただの屁理屈だ。
何せ、彼女は新人歓迎会の前は酔っていなかった。発言が創作物だと言うのならば、彼女は素面でもそれを作っている。
「じゃあ、俺はあんたをどう評価してると思う?」
少し意地悪い問いをした。
彼女は俺と視線を合わさずに、小声で言った。
「変な女」
心を読みあてられて、俺は目を丸くした。
本当に、変な女だと思ったものだった。
運の悪いことに、俺達の会話は上級生の女子部員も耳にしていた。
それもあって、彼女がスプーキーと呼ばれるまで時間はかからなかった。
部室に滅多にやって来ない。大学の講義も単位を落とす寸前までサボる。大学側が用意してくれた同期の食事会もサボる。大学祭のような催しがある時も、協力しない。
何をやっているかというと、家で一人で小説を読んでいるという。
学生の本分は勉強だ。しかし、大学生という響きに、友情に満ちた青春を期待する人間は多いのではないだろうか。
それを思えば、彼女は何を目的としているのかわからなかった。
そして上級生達は、その変な女との連絡役に俺を抜擢したのだった。
任されてしまうと、それをこなそうと思ってしまうところが俺にはある。
俺は部誌の発行が決まると、菜々子に作品を仕上げて提供するように頼んだ。
すると菜々子は、三日ほどで作品を仕上げてきた。
俺は、それを読んで驚いた。
まず、目を引いたのは文章力。読んでいるだけで頭にその情景がありありと思い浮かぶような、密度の濃い文章だった。そして次に驚かされたのは、キャラクター。彼女の書いたキャラクターには命があった。その世界の中で、そのキャラクター達が生きているのだと感じさせる力があった。
俺は、初めて彼女という人間に興味を持った。
「これ、本当にお前が書いたの?」
俺が問うと、彼女は視線を逸らして淡々と返した。
「うん、一晩で書けた」
「本当なら一日で書けるのか?」
「指が動き始めるまで三日かかったから、一日は無理ね」
結局、その時の部誌に、彼女の作品は載らなかった。彼女の書いた文章は、規定のページを逸脱していたのだ。
黙々と飲んで酔い潰れたり、規定のページを超えた作品を出したりする彼女を、サークルのメンバー達はエキセントリック菜々子と呼ぶようになった。
けれども俺だけは、彼女に対する見方を変えつつあった。
液体をコップに注ぐ音がする。ついで、瓶が台に置かれた音がした。
狭いアパートの一室だ。音は嫌でも聞こえてくる。
ウィスキーのコーク割りが出来上がったらしく、菜々子はそれを口にした。
「最近、酒量増えてないか?」
「毎日毎日貴方がせっつくからです」
珍しく、彼女は柔らかい口調で言った。それはどこか、呆れたような口調にも聞こえた。
アルコールを口にして、気分が変わったのかもしれない。
今日も、彼女の指は文章を吐き出さないのだろうか。
夏休みが終わるまで、後二十日。
ゲームの調整やテストプレイの時間を考えれば、非情に心許ない日数だった。
もっとも、冬の同人誌即売会に登録することを考えれば、余裕はあると言えばある。しかし、締め切りを一度延ばせば、ずるずると当日まで引きずってしまいそうな気がした。
大学生活も、半分を切った。
就職活動も始まり、そろそろ身動きが取れなくなってくる時期だ。
そして、単位の取得を先延ばしにしてきた菜々子にとって、来年は卒業を目指して悪戦苦闘する年になるだろう。
だからこの夏休みに、俺は彼女と大きな作品を仕上げたかった。
まさか、菜々子がここまで書けなくなるとは思わなかったのだ。
思えば、彼女の作品はシリアスなものばかりだった。
彼女にコメディを求めた自分が間違っているのだろうか。俺は、そんなことを思い始めた。
けれども、購買層が多いのはコメディものだと俺は思うのだ。
俺の脳裏に、苦い記憶が蘇った。
菜々子に二人で同人サークルを持とうと持ちかけたのは、二年生になってからだった。
俺は、同人活動というものに憧れていた。
そして、菜々子の文章力ならば、大勢の人間の期待に副えるものが出来上がると信じた。
菜々子は、拒否しなかった。まるで、スーパーでジュースを買うかどうかを問われたかのような調子で、やると答えたのだ。
彼女はなんとも、感情の見えない女だった。
俺は、期待を抱いた。
最終的には、知る人ぞ知る同人サークルになれるかも、とすら思った。
そして、俺達は本を作った。
人混みの中に行くのを渋る菜々子を置いて、俺は同人誌即売会に足を踏み入れた。
売れたと言えば、酔った時しか微笑まない菜々子でも喜ぶだろう。それが、少し楽しみだった。
結果は、惨敗だった。
俺達の本は、手に取られる回数そのものが少なかった。売り上げも、刷った数の一割程度。俺は、在庫を抱えて家に帰ることになったのだ。
俺の作品が悪かったのだろうか、とも思った。
いや、多分、それ以前の問題なのだろう。
手に取ってもらう努力を、俺は惜しんだ。
イラストすらない、無骨な表紙。人気ジャンルと無縁な内容。改めて見直すと、俺は売れるための努力をせずに、売れるはずだと信じ込んでいた。
俺の妄信が、菜々子の才能を埋もれさせてしまったのだという罪悪感が沸いてきた。
そして、俺は思ったのだ。
イラストがついていて、ゲームで、誰にとっても馴染みやすいラブコメならば、まだ前より人の手に取ってもらえるのではないかと。
いつの間にか俺は、菜々子の才能を腐らせることを、自分の罪悪であるかのように感じていた。
目的を見つけたからだろうか。顔しか描けなかった俺の絵は、人の体を書き分けられる程度まで上達した。
菜々子がアルコールを摂取し終えて、俺の横に座る。
その顔は、真っ赤だった。
「……一杯って言ったよな?」
「うん、言ったよ」
らしくない明るい声で、彼女は言う。
鉄面皮の彼女の顔に、微笑が浮かんでいる。
そうしていると彼女は、魅力的にすら感じてしまうほどに、綺麗だった。
「けどね、ウィスキーが9で、コーラが1の分量で割ったの」
菜々子は、俺とは視線を合わせずに、楽しげに微笑んでいる。
流石はエキセントリック菜々子。こちらの予想しない行動を取ってくる。
「そりゃ、酔うわけだ」
俺は気がつくと、淡々と言っていた。
ラブコメを書こうとした場合は例外になるようだが、酒が入れば彼女の作業が進むのは本当だ。
これは彼女なりの本気の姿勢なのだろうと、俺は思うことにした。
「ねえ、恋愛したことのない人間に、ラブコメなんて書けるのかな」
菜々子は、静かな声で言った。
俺は、返答に困った。
「……ないの?」
「うん、ない」
それはそうだと、俺は思った。
脈絡があるならともかく、突如宇宙開発の話をする女性を、理想的だと考える人間はどれだけいるだろう。
「けどほら、少女漫画とかでラブコメ読んでたんじゃないのか?」
「A先生がラブコメを書いてくれたなら、私はその読者になってたでしょうね」
菜々子は、遠い目をしている。
SF小説の大御所も、流石にそんな要求をされても困るだろう。
「書けるよ。俺だって恋愛経験ないけど、書けた」
俺は、自らの恥を晒していた。
なんで菜々子にそんな話をするのか、わからなかった。
自分も同じだと、彼女に言いたかった。
「歴史を知らなきゃファンタジーは書けないし、知識がなければSFは書けない。恋した経験がないと、中途半端なラブコメになってしまう気がする」
「ラブコメの本を調達してくるか。それで勉強すればいい」
「ねえ。人が苦手な人間が、人が楽しくしてる作品って書けるのかな?」
俺は、言葉を失った。
新人歓迎会で、緊張を紛らわすためか正体を失うまで飲んだ菜々子。いつも人から視線を逸らす菜々子。周囲と上手く噛み合わない菜々子。
急に、彼女がか弱く、壊れやすい存在のように思えた。
「……そんなにリアリティが気になるなら、俺とデートしてみる? 参考になるかもよ」
俺は、囁くように言っていた。
菜々子が、返事をするまで、しばしの間があった。
「うん」
彼女は、短い一言で同意した。
「それじゃあ、今度祭りだからさ。浴衣でも用意して、一緒に行こうか」
「全部、任せるよ。デートコースも、ぜーんぶ」
どこか投げやりに、菜々子は両手を広げた。
人混みを嫌う彼女にしては、珍しいことだった。
よほど煮詰まっていたのか、はたまた酔った勢いなのだろうか。
そして、俺自身も、彼女にそんな提案をした自分自身に戸惑っていた。
いや、それは嘘だ。俺は、ある種の期待を抱いていた。
祭りの日がやってきた。
菜々子は赤い顔をして、約束の場所にやってきた。
もちろん照れているのではなく、酔っているのだろう。
エキセントリック菜々子の面目躍如といった感じだった。
浴衣は可憐、けれども首から上は酔って上機嫌。それが酷くちぐはぐに感じられた。
「手、繋ぐ?」
菜々子が、目を伏せて問う。
「ん?」
俺は、気恥ずかしくて、聞こえないふりをした。
「どうせなら、それっぽくしたほうがわかりやすいんじゃない?」
菜々子は、視線こそ合わさなかったが、挑むように微笑んだ。
酒の力とは恐ろしいものだ。
「ああ、それじゃ、握ろう、かな」
俺は、そう言って菜々子の手を取った。
菜々子の手は、小さくて滑らかだった。俺は、彼女が自分より小さいのだと、改めて感じてしまった。
心音が高鳴る。
エキセントリック菜々子に恋する男なんていないと、俺は思っていた。
なら、この胸のときめきはなんなんだろう。
「歩こうか」
声が上ずらないように気をつけながら、俺は言う。手の繋がりは、今にもほどけてしまいそうなほどに緩い。
「そうね、歩こう」
出店が並ぶ中を、俺達は歩いた。車は通行止めになっていて、車道が歩行者天国になっている。
恋人のふりをしている自分達は、酷く不恰好に見えるのではないだろうか。緊張していた俺は、そう考えた。
しかし、少し冷静になって周囲を見回すと、人ごみの中にいれば、ぎこちなさも隠れてしまうようだった。
そこかしこにカップル達が歩いている。
周囲から見れば、俺達もそんな風に見えるのだろうか。
「なんか、食うか?」
柄にもなく、優しい言葉を菜々子にかける。
「割きイカが欲しい」
雰囲気が台無しだった。
俺は、体に残っていた緊張が一気に解けるのを感じた。
「嘘でも可愛らしいことを言えんかね」
「カキ氷食べたいな」
「ああ。食ってちっとは酔いを冷ませ」
「冷めたら、困る」
菜々子は、困った表情になる。
「素面で、こんなこと出来やしない」
なるほど、人混みそのものが嫌いな彼女にとって、その中で異性と手を繋ぐなんてことは大冒険なのだろう。
「とうきびは?」
「じゃ、それ」
出店で、俺はとうきびを買って、菜々子に手渡した。焼かれたとうきびは、醤油がたっぷりと塗られていて、それが人の衣服に触れないように透明な袋に包まれている。
緩く繋いでいた手と手が、離れていた。
俺は、それに名残惜しさを感じた。
心臓が高鳴っていた。
否定しようがなかった。俺は、菜々子を異性として意識していた。
彼女の真剣な横顔を綺麗だと思ったのは、いつだっただろう。
様々な文章を生み出すその頭脳に、嫉妬混じりの感動を覚えたのはいつだっただろう。
アルコールの助けを借りずに、彼女の笑顔を見たいと思うようになったのはいつからだったろう。
相手に交際しようかと問いかける自分を思い浮かべる。菜々子なら、同人サークルを作ろうと持ちかけた時のように、いとも容易く頷きそうな気がした。
人混みから抜け出て、細い裏路地に辿り着くと、菜々子は袋を取ってとうきびを食べ始めた。
「歴史を紐解くと、様々な大きな国が崩壊し、分裂し、破滅を迎えるよね」
菜々子が、また思いもしない方向に話題をふった。
どうしてか今は、それが可愛らしいと思えた。
「それを思うと、人類というのは現状維持が苦手な生物なんだろうね。いや、そもそも維持が苦手だからこそ、大きな国が出来上がったのかな」
「祭りのとうきびを食べながらそんなことを考えるのは、お前さんぐらいのもんだ」
俺は、苦笑混じりに言っていた。
「最近、創作活動の儚さを思うんだよ」
言い訳するように、菜々子は言う。
「十年二十年経って読み継がれるのは、一握りの巨匠だけ。それを思うと、無名そのものの私がゲーム製作に苦しんでるのに意味はあるかって思ってね」
酔いが冷めてきたのだろうか。菜々子は目を伏せて、淡々と言う。
なるほど。忘れ去られていく文書の寂しさを、宇宙や国に例えていたわけか。
「俺は、お前と一緒に作った作品を、三十年後でも覚えてそうだけどな」
「その頃には、忘れたい作品になってるでしょうよ。自分の子供に見せられる?」
俺達は、二人で笑った。
「けど、そうね。そうやって思い出になるだけでも、良いのかもね」
良い雰囲気だった。
「デート、少しは参考になってるか?」
菜々子も、きっと同じ胸の高鳴りを感じているのだろうと俺は思った。
彼女は、異性と手を繋ぐのも初めてかもしれない。
「ならないね」
菜々子は、とうきびに視線を落としたままで、予想外の返事をした。
「だって、そっちもそうでしょ?」
俺は、なにがそうなのか理解出来ていない。しかし、菜々子はそれがわかっている前提で話をしている。
「だって、私達は友達だもんね。手を繋いでみても、ドキドキもワクワクもしないよ」
俺の思考が、硬直した。
「だよな」
その返事は、半ば反射的に口から出ていた。
思考が遅れてついてきて、言い訳がましく言葉を並べる。
「俺と菜々子じゃ、そういう感じにはならないな」
「でしょ。鳥と猫で番になるようなものだよ」
その例えは不適切ではないかと俺は思う。なにせ、猫は鳥を捕食するのだ。
しかし、考えてみると、それは皮肉なほどに二人の関係を言い得ていたかもしれない。
俺は、猫だ。鳥を見て舌なめずりはすれど、鳥と番になることは出来ないのだ。
そのうち、鳥は自由に空を飛び、猫の手の届く範囲から逃れていく。
もちろん菜々子に、そこまで深い意図はないのだろう。
誰とでも交流できる俺を猫、自分を自由気ままに空を飛ぶ鳥に例えただけではなのかもしれない。
「けど、祭りは参考になった。夏祭りを舞台にしよう。夏祭りの中で、たまたま巡りあう男女。その二人が再会するところから、物語は始まるの。うーん、それじゃあ、コメディ成分が足りないかな」
イメージが沸き始めたのだろう。菜々子は、自分の世界に没頭していく。
俺が既に書いたサブヒロインのシナリオと、冬の格好をした登場人物達の立ち絵などどこ吹く風だ。
大きな声が近づいてくるのを感じて、俺はその方向に視線を向けた。
神輿の頭が見えた。
それを見つめる沢山のカップル達が、色鮮やかに見えて、対照的に自分が矮小に思えた。
心臓の高鳴りが早く落ち着くように、俺は祈った。
「ありがとうね。いつか恋人を作って、こういう場所に来たら素敵かもって思えた」
菜々子のその一言が、ずしりと俺の肩に乗ったのだった。
それは、とどめの一撃だった。
俺の心に、ヒビが入った。
雪の降る町、改め、夏祭りの夜には、無事販売された。
価格の安さもあって、通販もあわせれば、300枚近く売れた。
メインヒロインのシナリオの重厚さもさながら、プレイヤーの中ではサブヒロインのシナリオも話題になっていた。
サブヒロインのシナリオに入ると、主人公が相手の好意を疑い、保険をかけるような態度を何度も取るのだ。
サブヒロインのシナリオライターは女に騙された経験でもあるのだろうか。
そんな突拍子もない疑惑が、夏祭りの夜にが売られている間に囁かれ続けた。実際は、告白する前に振られただけだが、それをプレイヤーが知る由はない。
ある意味で言えば、夏祭りの夜には、菜々子が求めたリアリティのある作品に仕上がったのだった。
短編六作目になります。
読了ありがとうございました。
予想より前半部分が長くなってしまいました。
同人ソフトって、ラブコメで300本も売れるものなんでしょうか。漏れ聞く奇抜なソフトの数々を考えると、お客さんに手に取ってもらうための試行錯誤があるように感じます。
まあ、そこはフィクションということで。