ひとりの人が生身から記憶になる過程と、それを受け入れる脳の防御について、、、です
1. I love you
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俺はあくびをしながら、助手席の由美を見た。
由美はポテトチップスの袋を手に、窓の外の風景を見ている。と、思ったが、どうやら眠っているようだ。
時計を見ると二十三時半。今日は朝早くに起きたので、無理もない。
俺の仕事が忙しくて、このところ二人で出かけることが全くなかった。
俺は二十八で、もうどこかではしゃぎたいと思うような年ではないし、一緒に暮らしているとデートも億劫になる。しかし、由美は二十一になったばかりで、遊びたい盛りだ。
それに、田舎から一人で東京に出てきているので、俺以外遊び相手もいない。
「たくちゃん、次の日曜は?仕事?会議?」
由美は、まだ火曜日だというのに、俺にそう聞いていた。
「どうだろうな。休めたらいいけどな」
実際、せめて金曜くらいにならないと、休みを取れるかなんてわからない。
「休みだったら、どっかいこ?」
わかった。と返事をしても、これまで何度も期待を裏切られた経験から、由美は喜ばない。
由美の機嫌を損ねたくなかった俺は、どこに行こうか?と聞いた。
まるで、そのことばかり考えていたかのように、次から次へと希望が出てきた。
最近できたテーマパーク、話題の商業ビル、そして夜は、仕事場の先輩から聞いた夜景スポット…。
あと二週間で、今年も終わる。だから、仕事も忙しくなる。
でも、次の日曜だけは何とかしよう。
俺はそう思って、木・金・土と三日間、朝は八時に早出し、深夜二時まで残業をこなした。
俺が、転勤で赴任していた仙台から、東京に戻ってきたのが今年の一月。
仙台で付き合い出した由美が、俺について東京に来たのが三月。
過保護に育ったため、一人ではタクシーにも乗れなかった由美が、専門学校を卒業したら、一人で東京に来るという。
就職も、学校の斡旋ではなく自分で探す。ちゃんと家事もするから、という。
俺は、うれしかった。
あんなに甘えていた親元を離れ、あんなに仲のよかった友達と別れ、あんなに苦労して決まった美容室への就職もキャンセルし、一人では何もできないくせに、一人で俺のところに来るのか。
就職なくても、お前一人くらい俺が養ってやる。
お前が家事なんてできなくても、俺は今まで一人でやってきたのだから、別に困らない。
俺んとこに来い。
あれから、十ヶ月。
由美は美容室に就職し、上手くやっている。
洗濯も掃除も覚え、旨い料理が作れるようになった。
ある夜、仕事で行き詰まっていたとき、寝たふりをしながら考え事をしていた。延々と。
由美はそっと俺の背中を抱き、「あたしが守ってあげる」といった。
俺が寝ていると思ったのか、起きているのを知っていたのか、ただ、俺が苦しんでいることはわかっていたようだ。
ガキのくせに、と思いながら、由美と出会ったことに感謝した。
こいつが、俺の最後の女だ。
こいつとなら、一生一緒にやっていける。
一緒に暮らしはじめた今年の、最後の日曜日。
いろんな大切なものを仙台において、俺だけを取ってくれたのだから、俺も少しは何かしてやらないと。
そうして、土曜日の夜二時に仕事をすべて片づけ、家路についた。
玄関を開け、電気をつけると、由美は寝ていた。何故か俺のシャツを着て寝ている。
そうか。
俺は洗濯機の中を見た。
やっぱり。
また、洗濯が終わったあと、干すのを忘れて寝たようだ。いつも着ているピンクのパジャマが、濡れてしわくちゃのまま入っていた。
俺は、洗濯物を干そうかと思ったが、明日に備えて早く寝ることにした。
朝七時に起きて、車で二時間。行きたがっていたテーマパークで二人ではしゃいだ。
そこからまた、車で二時間。夕方には、人気のテナントビルに着き、ショッピングをして食事をした。
そしてさっき、関東で一番といわれる夜景を見に、山頂まで一時間のドライブをしてきた。
夜の山頂は耐え難い寒さだったけど、行ってよかった。
いつもは見えない星と、忘れていた綺麗な光の街と、こいつの喜ぶ姿が、俺を素直にしてくれた。
「由美、いつもありがとうな。お前と一緒にいられて、本当によかった」
由美は声をあげて泣きながら、俺の息を止めるほど強く抱きついていた。
本当に、よく頑張ってくれた。
お前は俺の恋人で、親友で、妹で、娘で、母だ。
お前が、何より大事だ。
2. She’s gone
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「たくちゃん、あたしが寝たら起こしてね。たくちゃん寝不足だし、あたしずっと話しかけるから」
由美は山を下りるとき、俺に言っていた。
わかったよ。
そういいながら起こす気はなかった。
疲れていたので、話すのも大変だ。運転がやっとである。
由美が寝ているのを見て、俺はほっとした気持ちで運転を続けた。
家まで、あと一時間くらいかな?
そう思いながら車を走らせた。
俺が乗っているのは、今時は人気のないスポーツカーだ。女うけは悪いが、よく走る。
サスも固めで、ふわふわせずに気持ち良く曲がってくれる。
この程度の峠道なら、夜とはいえ何の緊張感もない。
俺はごく緩いカーブを曲がりながら、ポテトチップスの袋が由美の手から落ち、中身がフロアに散乱するのを見た。
オイオイ、勘弁してくれよ。掃除が大変だろ。
その一瞬に、左の後輪がグリップを失ったのを感じた。
…滑った。
その程度にしか思わなかった。スピンするスピードではない。
俺は、路面が凍結していることを忘れていた。ここは街ではない、山だ。
予想に反して大きく滑りだす後輪に、慌てた。
急いでカウンターを当てるが、間に合わない。
車はスピンした。
こうなってしまったら、あとは何かにあたって止まるのを待つしかない。
スピードが出過ぎていたが、普通スピンすれば車速は徐々に落ちる。
しかし、路面にあるのは雪か氷か、スピンしても車速が落ちない。
…由美!
ハンドルを持っている俺と違い、由美は何にもつかまってない。
この揺れで目が覚めたかもしれないが、身を守る余裕はないはずだ。
このスピードのまま衝突するのは、ヤバイ。
俺はハンドルを放して、由美の頭を守ろうと体を助手席に向けた。
その瞬間、車は電柱に衝突した。左側面から。
つまり、由美の方から。
電柱にぶつかっても、車は止まらなかった。
合計三回、何かに衝突して車は止まった。
俺は、頭と胸を強く打ち、息が止まり、思考も一瞬止まった。
何秒間か、気を失っていたかもしれない。
…由美! 由美!
上下左右がわからず、三百六十度を見回して、左手に由美を見つけた。
助手席のガラスが割れ、由美は、割れた窓から上半身を外に投げ出している。
下半身が車内に残っているが、血も出ていないように見える。
「由美!」
俺は運転席から助手席に身を乗り出した。
気を失っているらしい由美を起こそうと、背中を揺さぶった。
重い。揺れない。
真っ暗な窓の外に目をやると、それは夜の闇ではなく、壁だった。
壁と車の間は五センチも開いていない。
その間に、由美は胸から上を挟まれていた。
俺は開かないドアから出るのをあきらめ、割れたフロントガラスをくぐって、車外に出た。
由美、早く助けないと!
急いでボンネットの上から、壁と車体の間を覗き込んだ。
助けないと、早く!
急がないと!
由美!
助けるも何も、その状態で生きているはずがなかった。
見るんじゃなかった。
由美…。
俺は、由美の死を認識したからか、頭を打ったせいか、ボンネットの上で気を失った。
3. I go insane
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俺は、警察署を出て立ち止まった。
俺は次に、どこに行くのだったか。そうだ、病院だ。
思い出して、俺は病院に向かった。
昨日の事故以来、別に後遺症も何もないが、医者の指示で今日も検査することになった。
俺は、通夜にも葬式にも出してもらえなかった。
由美の両親は、俺が由美を殺したといって、俺を責めた。
事実、そうだ。由美の両親に殺されても、文句など言えない。
取り返しもつかないし、責任も取れない。
俺が死んで詫びても、由美はもう戻ってこない。
―別に良いじゃん。仕方ないよ。わざとじゃないし。
不意に頭に、そんな言葉が浮かんだ。
そういう言葉が浮かんでくる自分に驚いた。
何を言ってるんだ、俺は。死なせたんだぞ?恋人を。
そういいながら実は、俺は違和感を感じていた。
事故以来ずっと、罪悪感が薄すぎる。
悲しみだけはひどい。
会いたくて話したくて、抱きたくて狂いそうだ。
生き返ってくれ。
なかったことにしてくれ。
でも、やったのは俺だろう。
なんで、もっと自分を責めない?
それが不思議だった。
俺はそんなやつだっけ?
もう少しまともな感覚を持っていると思っていた。
そう考えているうちに、大きな病院に着いた。
昨日と違う医師だった。
質問の多い、患者を子供のように扱う先生で、俺はうんざりしながら、質問に答えていた。
カウンセリングを受けに来たわけではない。
さっさと検査を終わらせてくれ。
なぜか検査はなかった。
不思議に思ったがまあいい。
これ以上病院にいるのはうんざりだ。
今ごろ、仙台は葬式の準備かな。
生きていなくても、死んでいるとしても、もう一度由美の顔を見て、触れたかった。
でも、壁と車に挟まれた由美の顔は、見ても由美と分かるものではなかった。
もう、あの由美の顔はどこにもない。
由美に会いたい。
―忘れなよ。由美はついてなかったんだよ。
俺は、驚きを通り越え、戦慄した。
ついてないだと? 一体どうしたんだ俺は。
4. Still be here
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その夜は、昨日の夜よりも辛かった。
由美に会えないという事実に現実感が増し、隣に由美がいないことに慣れることができず、これからの暮らしに希望が見出せず、絶望に包まれていた。
由美ほど愛せる女とは、もう出会わないだろう。
ずっと一緒だと思っていた。
もう、あんな幸せな日はないだろう。
そんな日が来て欲しいとも思わない。
…生きようかな、死のうかな。
―何いってんの。まだまだ人生長いじゃん。気にしすぎたら、損だよ。
俺はもう反応しなかった。
無意識のうちにそういう考えが浮かぶ自分に、俺は絶望しきっていた。
ベッドに寝転んで天井を見ながら、俺は思った。
由美もいないし、俺がこんなに薄情だったことも分かった。
もう、生きたいなんて思わない。
死んだほうがいい。
―だめだって、たくちゃん! いいから忘れなよ。
俺は体を起こした。
たくちゃん?
―あたしは気にしてないよ。死ぬなんていわないで。
「由美? ここにいんのか?」
驚きと期待で、血が沸騰した。
由美と話せているのか?
視線が由美を探す。
―いるに決まってるじゃない。あたしがたくちゃんの側からいなくなるわけないでしょ?
本当に聞こえる。
頭の中ではなくて耳から。
いるんだ、由美が! ここに!
流していた涙が、絶望の涙から喜びのそれにかわった。
「由美、戻ってきてくれたんだな?」
―あたしはずっといたよ、たくちゃん。
「由美…、会いたかった…。会って謝りたかった…」
―いいんだよ。仕方なかったんだよ。お願いだから、気にしないで。
知ってるよ。あのときあたしを守ろうとしてくれたこと。ありがとうね。
俺はもう、それ以上声が出なかった。
由美と話せて、謝ることが出来て、由美が許してくれた。
神様がいるなら…、いや、いるんだろうな。
だって、俺と由美を会わせてくれた。
―たくちゃん、顔を上げて。
俺はまっすぐに顔を上げた。
電気の消えた部屋、暖房もついてない。
さっきまで闇と絶望に満たされていた、かつて由美の生きていた部屋。
顔を上げて前を見ても、やはり由美はいないが、でも話しが出来た。
こんな幸せはない。
―こっちだよ、たくちゃん。
俺は声のするほうへ顔を向けた。
そこには由美がいた。
いつものピンクのパジャマ、いつもの笑顔。
笑ってる。
―あたし死んじゃったけど、ずっと一緒だよ。
死んでようと、生きてようと、関係ない。
由美なら、由美といられるなら。
5. Stay with her
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その夜、俺と由美はベッドに並んで座り、朝まで話をした。
思い出話で笑って、愛を確かめた。
日がすっかり昇って、俺の腕の中で丸くなっている由美が言った。
「たくちゃん、会社行かなきゃ。もうこんな時間だよ。遅刻だね」
俺は会社に行く気はなかった。
「辞めるよ、会社は。少し寝て、どこかに遊びにいこう」
由美が生きていたとき、由美に何もしてやれた気がしない。
死ぬなんて思ってなかったから。
今は違う。
由美だけに時間を使いたかった。
由美は反対したが、俺は会社を辞めた。
だが、病院に行くのだけは譲らなかった。
「病院は、絶対に行って! ちゃんと検査して!」
行っても検査なんてしないんだ。
なれなれしい医者が長話するだけ。
そう思いながらも、心配をかけるくらいならと思い、俺は病院に行った。
由美は、部屋の外には出られないらしい。
だから、病院にも遊びにも行けないのだと。
どうしてかは分からないといっていた。
帰ってきて由美が消えていたら、そう俺は心配したが、由美は真っ直ぐに俺を見て「大丈夫」といってくれた。
由美がそう言うなら、大丈夫だ。
やはりこの医者は嫌いだ。
俺は小学生か?
その子供を相手にするような話し方をやめろ。
それに、何を言ってるんだか、よく分からない。
わからないから適当に返事をするが、医者の話しは一向に終わらない。
こいつと無駄話をしている暇があるなら、由美といたい。
それしか頭になかった。
ようやく家に帰らせてくれるらしい。
しかし、紹介状を渡された。
次からはこの病院に行けという。
検査もしてないくせに適当なことをいうものだ。
もう嫌だ。
病院なんか行かない。時間の無駄だ。
由美には完治したといえばいい。
今は、由美から離れたくない。
家に着いたら、そこにはちゃんと由美がいた。
部屋が汚いから片づけたかったけどできなかった、ハンバーグを作ってあげようと思ったができなかった。
そう由美は言った。
部屋からは出られないし、物理的なことも出来ないらしい。
まあ死んでいるのだから、そんなものかもな。
俺はなんとなく、納得できた。
別に苦ではなかった。
由美がいるなら、別に世話してくれなくても、外出できなくても、構わない。
由美がいるなら、何もいらないに決まっている。
ただひとつ、俺が恐れているのは、ただ一つだ。
食事もせず、由美と話をし続けた。
今日は思い出だけでなく、これからの話も。
俺は由美以外何もいらない。
最低限の食事とその他、あと由美がいるこの部屋の家賃。
金なんて、それ以上はいらない。
「しばらくしたら、バイトでもする。それまでは貯金で過ごす」
それより、一番聞きたいのは―。
「なあ由美」
「ん?」由美はテレビを見たまま答えた。死んでいるとは思えないくらい自然だ。
「いつまで、ここにいられるんだ」
俺は答えを恐れた。
一度由美を失ったのは、突然だった。
もし、次にまた失うことがあったとしても、そのときは突然ではいけない。
ちゃんと、後悔しないように、しっかりと別れないと。
だから、聞いた。
しかし、由美の返事は俺の望みうる、最高のものだった。
「ずっと一緒だよ。たくちゃんが変わっちゃわないかぎり」
6. Crazy for you
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それから二週間、俺はほとんど食事もせず、外出もせず、由美と一緒にいた。
話して笑い、抱き合ってキスして、セックスもした。
由美が死ぬ前以上に幸せだったかもしれない。
お互いこれ以上ないくらい素直で、何でも話せるし、何が言いたいかも手に取るように分かる。
病院も会社も、何も邪魔するものはない。
二人の心以外何もないが、何もいらなかった。
由美、俺が死ぬまでこうしてような。
俺が死んでも一緒にいよう。
これ以上の幸せはない。
今が人生の中で、最高の時間だ。
そのとき、チャイムが鳴った。
もちろん出ない。邪魔をするな。
すると驚いたことに、訪問者は勝手にドアを開けて部屋の中に入ってきた。
鍵、かけてなかったっけ?
「拓郎!」
久しぶりに見る母の顔だった。様子がおかしい。
「どうしちゃったの、拓郎」
泣いているのか?
まあ人身事故、失業と相次いだから、ショックは大きいだろうが、二週間以上経っている。
その取り乱し方は大袈裟だ。
母は部屋を見回し、嗚咽を漏らした。
泣きながら、ごそごそと部屋を片づけ出した。
俺は黙って目で追った。
俺も気づかなかったが、洗濯物の山にカビが生えていた。冬なのに。
それに、冷蔵庫の中のものがほとんどすべて腐っていたようだ。
母が開けた瞬間にすごい匂いが充満した。
俺は、それに気づかなかった俺自身がおかしくて、笑ってしまった。
由美と一緒にいることで頭がいっぱいだったから。
笑いながら由美を見ると、由美は全くの無表情で部屋の角に立っていた。
きっと、母親には由美が見えないんだろう。
ひとしきり片づけをした母親は、俺に向き直って言った。
俺はまだおかしくて、笑っていた。
「拓郎、お願いだから病院に行ってちょうだい」
泣きながら母が言う。
そんなこと言ったって、あのバカ医者は検査もせず長話をするだけだ。
ひょっとして、突然の退社やこのだらしない生活が、事故の後遺症のせいだと思っているのか。
生前、母と由美は面識があった。
母は何やら勘違いして錯乱しているようだし、安心させてやったほうがいい。
本当のことを言おうか。ここに由美がまだいることを。
俺は由美を見た。
表情の消えたまま、真っ直ぐに正面を見て立っている。
人形みたいだ。
母はずっと何か言っているが、全く意味が分からない。よっぽど混乱しているのだろう。
俺は気の毒になり、由美のことを話す決意をした。
「母さん。落ち着いてくれ。俺は投げやりな気持ちで、こうしているわけじゃないんだ」
そして、由美が戻ってきてここで生活していること、見えないだろうが今もここにいることを話した。
こっちがびっくりするくらいあっけなく、母はそれを受け入れた。
やはり、由美の姿は見えないようだが、「わかったわ」と、事実を理解してくれた。
俺は正直ほっとした。
信じないだろうと思っていたから。
「わかった。わかったから、病院には行ってちょうだい」
まだ言っている。
そうまで言うなら、我慢して行ってやったほうがいいかもしれない。
そしてしっかり検査して、異常がないことを確かめて、安心させてやろう。
な、由美。それがいいよな。
由美を見ると、真っ直ぐこっちを見ていた。
さっき表情のなかった顔には今、涙が溢れていた。
7. Dream is over
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昨日から、由美がずっと泣いている。
わけを聞いても謝るばかりだった。
「ごめんね、たくちゃん。あたし、一緒にいたかったの。ごめんね」
謝るな由美。何で謝るんだ。
俺だって一緒にいたいに決まっている。
他の全てを捨ててでも由美と一緒にいたいんだ。謝るな。
「いけないことって、わかってたんだよ。ごめんね」
「もう謝るな。俺は病院に行って、すぐに帰ってくる。そしたら、落ち着いて話をしような」
俺はそう言って、いつも着ているピンクのパジャマの襟をなおしてやった。
ピンクの生地がところどころ涙で濡れて、赤く染まって見える。
風邪ひいたらよくない。
そう思って濡れたパジャマを脱がせて、俺のシャツを着させた。
死人でも風邪ひくのか?まあいい。
「すぐ帰ってくるから、待ってな」
そういって、シャツに着替えた由美にキスした。
由美は俺に「愛してるよ」といった。
俺はうなずいた。
異様に大きな病院だった。
家から、電車で一時間半もかかった。
その上、待合室でもう三十分も待っている。帰りたくて仕方がない。
でも、これで最後だという思いが、かろうじて俺の忍耐力を支えた。
ようやく受付が俺の名前を呼んだ。
でかい病院だけに、受付から診察室までも遠いようだ。丁寧に道順を説明してくれる。
丁寧なのはありがたいが、この女も妙になれなれしく、人を子供扱いしたような話し方をする。
なんで病院にいる人間というのはこうなんだろうか。
俺はますます、これが最後だという思いを強めて、診察室へ向かった。
五分は歩いただろう。ようやく、それらしいフロアに出た。
俺はふと、おかしなことに気がつき、足を止めた。
周りの案内板をよく見ると、外科はこのフロアではない。
あの案内の女、間違えて案内したらしい。
俺は歩いている看護婦を呼び止め、紹介状を見せた。
「この先生のところに行きたいんですけど」
看護婦は俺の顔をちらっと見て、言った。
「はあ〜い、先生はこちらですよぉ〜。じゃ、こっちに来て下さいね〜」
この女もだ。“は〜い”とは何だ。
半ばあきらめて、黙って案内してもらう。
辿り着いた診察室には、≪精神科≫という札があった。
精神科?何の間違いだ、それは?
俺はもう、帰りたくて帰りたくて仕方なくなった。
こんな遠くの病院まで来て、さんざん待たされ、やっと辿り着いたところが、精神科。
カウンセリングでもするつもりか?
苛立ちを隠せそうになかった俺は、トイレに行くことにした。
顔でも洗えば少し落ち着くだろう。
トイレだけはすぐ近くにあった。
俺は用を足し、手を洗った。顔も洗いたいところだが、タオルがない。
しかし、散々である。
俺は精神科になど用はない。
そう呟きながら顔を上げ、鏡を見た。
俺は一瞬、鏡に映ったその男が誰なのか、分からなかった。
ぼさぼさの脂ぎった髪、伸びたひげ、目は大きく窪み、真っ赤に充血している。
その周りには真っ青なクマ。
それだけではない。
鼻と口からは、それぞれ鼻水とよだれが流れて、固まって白い固体になっている。
それが自分だと気づいた俺は、頭を下げて自分の体を見た。
よだれの跡がついたよれよれのTシャツ、伸び切ったスウェットパンツ。
これしか着ていない。
一月にこの格好は異常である。
足元は明らかに室内用のスリッパで、靴下さえ履いていない。
俺は愕然とした。
何をやっていたんだ俺は。
なぜこんな格好で出歩いているんだ。
ここに何しに来たんだ。
精神科…。
俺はもう一度、鏡を見た。
やはり俺だ。間違いない。
今までの解し難いことが、次々と頭に浮かんだ。
医師の応対、母親の反応、意味を理解できない会話、そしてこの格好…。
たった今、それらに整合性を感じた。
今は、目の前の俺を自分だと認識できる。
精神科を紹介された意味も分かるほどに、正常な思考を取り戻した。
俺は、たった今、回復した。
そのことが、はっきりと分かった。
―ということは…
俺はトイレを飛び出し、全速力で階段を駆け降りた。病院を出て、息もつかず駅へと走った。
8. Gone again
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由美、おまえはまだいるか?
お前は俺が作り上げた妄想だったのか?
それとも、本当に戻ってきてくれていたのか?
いまから、すぐに帰る。だから、そこにいてくれ。
消えないでくれ、行かないでくれ。
もう、一人にしないでくれ。
電車を飛び降りた。
人ごみをかきわけ、駅を出た。
―由美、由美、そこにいてくれ。
肺が潰れるほど、走りつづけた。
―もうすぐ帰る、そこで待ってろ、由美。
マンションの階段を駆け上がり、鍵のかかっていないドアを開け、部屋に入った。
由美はいなかった。
部屋には、気配もにおいも、何もない。
由美……!
俺は絶望感に包まれ、その場に倒れた。
帰ってきてくれ、由美。何でまた行ってしまったんだ。
幻でもよかった。精神異常でもいい。
お前といたかった。
お前が消えるくらいなら、正気になんてなりたくなかった。
俺は由美が死んだその日と、同じ悲しみを背負った。
後悔の大きさも同じだ。
今度こそ、一緒にいられると思った。
これからはずっと一緒だと信じていた。
結局、由美は戻ってきてはいなかった。
すべては俺の妄想か、幻だった。
でも、それでいいじゃないか。
現実は受け入れられるほど、たやすくない。
もう由美はいない、話せないし触れられないんだ。
見ることさえも。
そんな現実は捨てて、幻でも由美といたかった。
――由美…。
9. I remember you
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何時間、いや、何十時間、絶望と戦っただろう。
一人の部屋で、俺はベッドに転がり天井を見ていた。
結論は初めから同じだ。
由美は死に、帰ってきたと思った由美は、幻だった。
ああしていれば、こうしていれば。
そればかりを考えてしまうが、全て終わったことだ。
答えは、由美には二度と会えない。それだけ。
俺は目を閉じた。
もう、疲れた。
―――そして、由美の夢を見た。
夢の中で、俺は眠っていた。
「たくちゃん、ごめんね」
俺は、夢の中で目が覚めた。
―たくちゃん。あたしね、死んでもたくちゃんを見守っていこうって思ってた。
たくちゃんがあたしのこと忘れても、あたしにはたくちゃんが最後の人だから。
でも実際には、たくちゃんが泣いてても、後悔して苦しんでても、何もしてあげられなかったの。
だから……。
―本当にごめんね。でも、うれしかったよ。幸せだった。
生きているときも、死んでからも。
たくちゃんといられて、あたし、幸せだった。
俺は、ゆっくりと話す由美を、じっと見ていた。
―もう会えないけど。もう、話せないけど。
由美の目に、涙が溢れた。
その言葉が、頭に何度も響いた。
―でも、あたしはずっと、たくちゃんのそばにいるよ。
いつかいったでしょ。あたしが守ってあげるって。
信じて。
あたしは、幻なんかじゃなかったよ。
そこに、あたしはいたよ。たくちゃんの側に。
―たくちゃん。好きだよ。元気でね。
バイバイ―
目が覚めた。
夢か。
夢だったかも知れないけど、今のは、本当のお別れだった。
そんな気がした。
「ふう…」
俺は体を起こし、大きく息をついた。
ありがとう由美、もう大丈夫だ。
お前のことを忘れるって意味じゃない。お前のことは絶対に忘れない。
お前のくれたすべて、忘れない。
もう、大丈夫だ。
由美がいたこの部屋から、もう一度やり直そう。
きっと、大丈夫だ。
俺は部屋を見回した。
由美の飼っていた金魚が、ゆっくりと泳いでいる。
由美が大切にしていた観葉植物が、かすかに揺れている。
由美は、たしかに、ここに居た。
もう一度大きく息を吐き、視線を落とすと、俺の座るすぐ横に、ピンクのパジャマがあった。
―なんでここに。
不思議に思いながら、パジャマを手にとった。
広げてみると、その胸元は点々と濡れて、赤く染まっていた。
―――あたしは、幻なんかじゃなかったよ。
そこに、あたしはいたよ。たくちゃんの側に。
もう、大丈夫だ。
〜オワリ〜