5 変質者はぼくたちより早く来て待っていた。
というわけで、山田家から徒歩五分、夜の市民公園である。ぼくはツキヒトとカグヤを道案内がてら見送りに来ていた。母は家で留守番である。「もっとゆっくりしていけばいいのに」と母は言ったし、父も宇宙人に会えなくて悔しがるだろうが、事情が事情であるからいたしかたない。
市民公園は二百メートル四方ぐらいのそこそこ大きな土地に木を植えて遊歩道をつくってところどころにベンチを置いた施設だ。ほんとうかどうかわからないが夜は変質者が出るという噂があって、ひとけはほとんどない。この噂をツキヒトとカグヤに話したところ、二人は即座に「たしかに今夜は変質者がひとり来ますね」などとのたもうたものだ。ともかく人目を避けることができるのは好都合であった。
変質者はぼくたちより早く来て待っていた。公園の中央の芝生に月明かりに照らされて立つその姿は、舞台俳優のようだった。
「やあ、来たね。ごらん、すばらしい星月夜だ。今夜はちょうど満月だよ」
「それがどうした」
ツクヨミのあいさつを、ツキヒトが不機嫌にさえぎった。相手は気にせず弁舌をふるった。
「君たちが次に地球をおとずれるのはいつになるかわからないし、そのときにちょうどこんな月夜に恵まれるかどうかもわからないんだ。よく見ておくといいよ、僕らの母なる月の姿を」
その言葉につられて、ぼくはつい東の空に浮かぶ月を見た。皓々と輝く満月は地球人のぼくにとってはいまさら目新しいものではなかったが、このときぼくはふと新鮮な感動をおぼえた。昨日までは知らなかったことだが、ここから三十八万キロメートル離れたあの星には生命が存在し、地球に住むぼくたちと同じように……かどうかはいささか確信がないが、とにかく食べたり飲んだり話をしたり眠ったり笑ったり泣いたり愛し合ったり憎み合ったりして暮らしているのだ。宇宙開発や天体観測にたずさわる人々の気持ちがすこし理解できるような気がした。きっとああいう人たちはいまぼくの味わっている感動をつかみたくて、莫大な時間とお金を費やしているのだろう。
そんなことをぼんやり思いながら満月を見上げていると、ふいにその前を横切る黒い影がある。やけに四角いその形は、鳥でも飛行機でもありえない。なんだろうと思って見守るうちに、それはどんどん近づいてきた。ツクヨミが言った。
「どうやら、手配した便が来たようだね」
ブレーキの音を響かせながら芝生に着陸したそれは、どう見ても一台の箱型自動車だった。側面にはデフォルメされた黒いウサギのイラスト。カグヤがとまどいの声をあげる。
「ちょっと、これって……!」
「まいどラビット運送をご利用いただきましてありがとうございます。集荷にまいりました」
運転席から下りてきた制服姿の男がそう言った。カグヤが、こんどははっきりと怒りをこめて、ツクヨミに食ってかかった。
「これって貨物便じゃない!」
「そうだ。旅客便は予約がいっぱいだったものでね。君をはやく月に帰して治療を受けさせてあげるには、貨物便しかなかったんだ。すまないねえ」
「ふざけないで! わたしも兄さんもこんなものに乗るつもりはないから!」
「乗るのは君だけだ、妹よ」
「え?」
「五体満足な者をわざわざ荷物あつかいで急いで月に帰す必要はない。だから、君のいとしい彼には旅客便で月に帰ってもらうさ。予約できたのは一週間後の席だけどね。せっかくのハネムーンを別れ別れに過ごさなければならないなんて、かわいそうに」
「きさま……!」
ツキヒトがうなるが、ツクヨミはかまわず笑顔を向けた。
「安心してくれ。妹の送り先は月でいちばんの設備のととのった病院だ。それに、地球に一人のこる君のさびしさは、かわりに僕がつきっきりで慰めてあげよう」
三人がそんなふうにもめていると、運送屋の男が段ボールの箱を組み立て終わって声をかけた。
「えー、お待たせしました。準備できましたんで、お荷物をお預かりします」
「だれが渡すか」
ツキヒトは当然そう言って、腕の中のカグヤをバスケットボール選手のような動きでツクヨミと運送屋の目から隠した。が、ツクヨミが無情に言い渡す。
「さっき山田さんのお宅にうかがったときに僕が言ったことを忘れていないだろうね。妹に対する月への帰還命令は、強制力をもつ法的な措置だ。抵抗したら警察に通報せざるをえない」
「くそったれ……」
力なく毒づくツキヒト。その腕のなかからカグヤが呼びかけた。
「兄さん、ここはあいつの言うとおりにしましょう。あいつは本当に警察沙汰にする気よ。わたしなら貨物便でも平気だから」
「しかし……」
「ごめんなさい。でも、ここで短気を起こすのは賢くないと思うんだ。わかって、兄さん」
「……ああ」
「キスして」
そこでツキヒトはカグヤを自分の顔の前に持ってきた。そして、キスをした。ぼくと運送屋は「おおー」と歓声をあげ、ツクヨミは額に青筋を立ててそっぽを向いた。それは一見不気味ではあったがたいそう熱烈なキスで、しかも長く長くつづいた。ぼくは途中から時間を計りはじめたが、丸一分を過ぎたあたりでとうとうツクヨミがしびれを切らした。
「二人とも、いつまでやってるんだ。おい、運送屋。もういいからやめさせて荷造りしてしまえ」
運送屋は申し訳なさそうな顔でのそのそ近づいていった。ツキヒトとカグヤはなごり惜しげに唇を離し、別れの挨拶をかわした。
「じゃあね、兄さん」
「うん、元気で」
「兄さんこそ、貞操を死守するんだよ」
そして運送屋の差し出す段ボールの中にツキヒトはカグヤを収めた。愛し合う二人はいままさに三十八万キロのあちらとこちらに引き裂かれようとしていた。だがそのとき、公園の入口のほうから間延びした男の声が聞こえてきて、一同ははたと動きを止めた。それはこう言っていた。
「おーい、正。どこにいるんだー」
ぼくはびっくりしてそちらを見た。遊歩道を小走りに駆けてくる人影がふたつ。ひとつは夜目にもはっきりと見慣れたシルエットの男。さきほど呼びかけてきた声の主、うちの父だ。おそらく出張から帰って母にこの場所を聞くなりすぐに駆けつけたのだろう。よほど宇宙人に会いたかったのか。
問題はもう一人のほうだった。体つきを見るに女だが、たまげたことにその人物には首がなかったのだ。
「まさか、あれは……!」
ツクヨミとツキヒトが同時に驚きの声をもらした。カグヤが箱の中から「どうしたの?」と問いかける。
「ちっ、早く荷物を積んで出発しろ!」
われにかえったツクヨミが運送屋にさけぶが、ツキヒトがカグヤを奪い返すほうが早かった。そのまま首なし女めがけてロングパス。生首は夜空に放物線をえがいて飛び、首なし女の腕のなかにがっちり落ち着いた。首なし女は受け止めたカグヤを自分の肩のあいだに乗せる。「ピタリ」という擬音が聞こえたような気がした。カグヤのあかるい声が夜の公園にひびきわたった。
「やったあ、わたしの体だ!」
カグヤがまともな体に戻った以上、もはや月に強制送還する理由はない。ツクヨミは地団駄を踏みつつ去ってゆき、ぼくたちは家に帰って父の話を聞いた。
「いやあ、こちらのお嬢さんを最初に見たときは、さすがのおれも驚いたね。今日の午後に取り引き先のホテルに行ったら、そこのフロントで予約チケットを出してチェックインをしようとしててな、ホテルの人は逃げ出すは、警備員は集まってくるはの騒ぎになっちまってたから、おれが身柄をあずかるってことでその場をおさめたんだ」
「よくおさまったね」
「まあ、そこが人徳ってやつだ。で、落ち着いてからお嬢さんに筆談で話を聞いてみたら、月から来たって言うじゃないか。うちにもいま月の人が泊まってるっていうことだし、会わせてやったほうがいいかと思って、連れて帰ってきたんだ。そしたらマイスイートハニーにすぐ市民公園に行けって言われてな」
いかにもうちの父らしい、むちゃくちゃな武勇談だった。
ツキヒトとカグヤは結局ホテルの予約をキャンセルして、わが家に一週間滞在したのち空飛ぶ高速バスで月に帰っていった。ぼくの平穏な日々が戻ってきた。
二人が月に帰った翌日、学校が終わってひとりで家にいると、玄関のチャイムが鳴った。
「こちら山田さんのお宅ですね。お届け物です」
宅配便だった。荷物は三十センチ立方ほどの段ボールで、品目は生ものとなっている。ぼくは疑いもせずにハンコをついて荷物を受け取り、その重さによろめきつつなにげなく配達員を見送った。そして目をみはった。宅配便の車の側面に描かれているマスコットが、黒い猫やフンドシ姿の男やそのほかのまともな運送会社のシンボルではなく、黒いウサギだったのだ。ラビット運送。
呆然と見守るうちに配達の車は勢いよくエンジンをふかすやまっしぐらに空に飛び上がってどこかへ行ってしまった。ぼくはあわてて段ボールに貼ってある伝票を見る。送り主の名前は「ツクヨミ」とあった。思わず声に出して言った。
「ど、どうしてツクヨミさんから荷物が?」
「それはですね」と思いがけなくも段ボールの中から返事があった。「僕は地球に山田さん以外に知人がいないものですから、こちらのご厄介になるしかなかったのです。ご迷惑かもしれませんが、どうかよろしくお願いします」
われながら感心なことに、ぼくは驚きのあまり段ボールを取り落としたりしなかった。むしろ取り落としてやるべきだったかもしれないが。
「いったいどうしてこんなことを」
「じつはですね、先日の件で、妹を貨物便で月に送ろうとしたのが問題になりまして。それで首になってしまったんです」
「待ってください。首って、もしかして比喩表現じゃなくて文字どおりの意味ですか?」
「それで、山田さんのところなら妹の介護をした実績もあるし、しばらくはこちらでお世話になろうかと」
「ちょっと、質問にちゃんと答えてください」
腕の中の段ボールの重さに不吉な確信をいだきつつ玄関に立ち尽くすぼくだった。