3 「カグヤちゃん、一緒に入りましょ」と母は言った。
やがて四人とも満腹した。厳密にはカグヤは満腹とはいえないだろうが、雰囲気としてはそういう感じになった。ほんとうに、食べたものはどこに入っているのだろう。
食器の片づけがすむと、母は言った。
「さて、お風呂に入りましょうか」
「はいれば」
ぼくがそう応じると、母は予想外のことを言い出した。この母のすることや言うことはいつもあまり予想できないのだが、今回のはとびっきりだった。
「それじゃカグヤちゃん、一緒に入りましょ」
「ええっ?」
さすがにカグヤも驚いた。だが母はそうするのが当然といわんばかりの顔である。
「カグヤちゃん一人じゃお風呂に入れないでしょ。あたしが洗ってあげるからさ」
「いえ、そこまでしていただいちゃ申し訳ありません。わたしは兄に洗ってもらいますから……」
「いいのいいの、遠慮しなくて。あたしもたまには若い子といっしょに入りたいんだから」
言いながら、母はテーブルの上からひょいとカグヤを拉致して風呂場に行ってしまった。止めるひまもない、あっという間のできごとだった。ツキヒトが「ほんとうにいいのか」という顔でぼくを見てきたが、ぼくは肩をすくめてみせるしかなかった。
女二人が風呂場に行ってすぐに、廊下に置いてある固定電話が鳴った。受話器を取ると、こっちが何か言うより早く野太い男の声が、
「よう、マイスイートハニー、愛してるぜ」
ぼくは意志の力を振りしぼって、受話器を置きたいという衝動をこらえた。
「悪いね、父さん。母さんはいま風呂に入ってる」
「なんだ、おまえか」
旅行代理店に勤める父は、よく出張で出かける。そして出張先からこのような怪電話をかけてくる。父なりに家族を気にかけているのだと思われる。
「なんだはないだろ。元気?」
「元気だとも。そっちは変わったことはないか?」
「あるよ。じつはいま、お客さんをうちに泊めてるんだ」
「へえ。誰だい」
「きょう知り合ったばかりの兄妹二人なんだけどね、事故でホテルのチケットとか現金とかカードとか何もかも紛失しちゃったそうなんで、うちに泊まってもらうことにした」
「ふうん。どこから来た人たちなんだ?」
「どこだと思う?」
「うーむ。アンドロメダ星雲!」
「……」
あまりにぶっとんだ、しかしながら意外に正解に近いと言えなくもない解答に、ぼくは答えるべき言葉を見失う。父はその沈黙をたいへん前向きに受けとった。
「おっ、もしかして正解か? おれの留守中に宇宙人が家に泊まるなんて、くそっ、ついてねえな。おい、滞在予定はどれくらいだ? おれが帰るまでその宇宙人さんはうちにいてくれるのか? おい、答えろ!」
「ええとですね。アンドロメダ星雲は不正解です。正解は月」
「なんだ、ぜんぜん近所じゃないか。……じゃなくて、マジで宇宙人かよ! どんな姿だ? タコみたいなやつか?」
「いや、地球人そっくり。だまってれば見分けがつかない」
ここで、それはほんとうは地球人で、おまえがかつがれてるだけなんじゃないのか、などというもっともな疑問をいだかないのがうちの父である。
「なあ、その宇宙人さんはいまそこにいるのか? ちょっと電話に出してくれよ」
居間のようすを見ると、ツキヒトはテレビでくだらないバラエティー番組を見て退屈そうにしている。ぼくは父が話したがっていると告げ、廊下に出てきたツキヒトに受話器を押しつけた。
「もしもし、電話代わりました。……ええ、ツキヒトと呼んでください。このたびはすっかりこちらのお宅にお世話になりまして……はい、そうです。……えっ、旅行の目的ですか? 新婚旅行です」
長くなりそうだと見て居間に入ろうとしていたぼくは、驚いて振り返った。ツキヒトはこっちのことなど気にとめずに父と会話しており、問いただす隙がない。それから話題は地球と月の重力のことだの気候のことだの宇宙旅行のことだの月の食べもののことだの、延々ととりとめもなく続いた。
「……だいぶ長電話になりましたし、そろそろ……ええ、しばらくはこちらのご厄介になりますから……はい、お会いできるのを楽しみにしています。あすの晩ですね。……はい……はい、おやすみなさい」
通話時間は二十分に達した。ぼくはようやくツキヒトにたずねることができた。
「あのー、いまの電話で、ツキヒトさんは新婚旅行で地球に来たって聞こえたんですけど……」
「そういえばまだお話ししていませんでしたね。ええ、そうです」
「失礼ですが、誰と誰が結婚したんですか」
「僕と妹に決まってるじゃないですか」
「……」
「どうかしましたか、正さん。だまりこんじゃって」
「あ、いや、あれですか。ツキヒトさんとカグヤさんは血のつながってない兄妹なんですね」
「なにを言ってるんですか。正真正銘の実の兄妹ですよ、僕らは」
ぼくはもうなんと言ったらよいかわからなくなってしまった。誰かたすけてと心の中で絶叫したところ、それが聞こえたかのようにちょうど母とカグヤが風呂から上がってきた。ぼくはすぐさま母に訴えた。
「母さん、この二人はじつは夫婦なんだって。血のつながった兄妹でありながら」
「まあ。それじゃお二人のお布団はくっつけて敷いておこうかしらね。そうそう、忘れないうちに布団乾燥機をかけておかなくちゃ」
この人は生首にも布団をひとくみ提供するつもりらしい。わが母ながらちょっとついていけない。
おろおろしているぼくをいぶかしげに見て、カグヤはツキヒトに何があったのかをたずね、説明を聞いてなるほどという顔をした。
「ああ、そうか。わかったよ、兄さん。地球では実の兄弟とか親子は結婚しちゃいけないんだよ。聞いたことない? それで正さんは戸惑ってるの」
「そういえばそんな話を聞いたことがあったような。本当なんですか、正さん」
ぼくはこくこくとうなずいた。それから念のために確認する。
「月ではちがうんですか」
「ちがいますとも。月では兄弟や親子でも結婚できます」
ぼくはただただ驚いていた。あまりに驚くので、ツキヒトは逆にあきれたようす。
「そんなに驚くようなことですかねえ。自分自身と結婚するわけじゃあるまいし」
「いや、でも、だって、近親ムニャムニャですよ?」
詳しい話を聞いてみたところ、月では環境がきびしいため、血縁がどうこう言って相手をよりごのみしてはいられないのだそうだ。カグヤの説明によれば以下のとおりである。
「たとえば正さん、自分に妹がいると想像してみてください。そして、かりに地球人が全員死んでしまって正さんと妹さんだけが生き残ったとしたら、どうしますか」
「いや、それは極端すぎる話だと思いますが」
「地球ではそうなんでしょうね。でも、月ではこれまで何度もいまの話に近い事態が起こってます。相手をよりごのみしていては、わたしたちは生き延びられませんでした」
ツキヒトも言う。
「僕らの両親のケースも地球の習慣には抵触するんでしょうね。うちの父は母方の祖母でもあるんですよ」
なにを聞いてももう驚くことはないだろうと思っていたが、さすがにいまのひとことにはひっかかった。おもわず聞き返す。
「父が祖母ですって?」
「ええ。母は自分の母と結婚したのです」
「女どうしで?」
「いや、そのときにはもちろん祖母は男になっていました。地球の人とはちがって僕らは両性具有なんです。そのほうが合理的でしょう?」
ぼくはつい自分が女になったところを想像してしまい、冷や汗をかいた。
「合理的ですか、両性具有は」
「ええ」
カグヤが断言する。その説明はこうだ。
「正さん、かりに地球人が全員死んでしまって、正さんともうひとり誰か男の人だけが生き残ったとしましょう。このとき、二人のうちどちらかが女になれたら人類は滅亡せずにすむんですよ」
似たような説明をついさっきも聞いたような気がする。とにかく理屈はわかった。とはいえ、ぼくはやっぱり女にはなりたくないし、男が女に化けたものとねんごろになるのもごめんだ。そういうことを宇宙人たちに話したところ、二人は異口同音に地球はのどかですねえと言った。