1 そのときぼくは、数学の課題を前にして頭をかかえていた。
二学期がはじまったばかりのある日、ぼくは自宅二階の自分の部屋で数学の課題を前にして頭をかかえていた。目のまえの窓の外にはまっさおな空と、青々とした竹林がひろがっている。机の上には複素数の問題がひろがっている。どちらかといえば外の景色のほうがおもしろいので、ぼくは宿題そっちのけで雲の動きや竹の葉のそよぐ様子をながめていた。
青空に何かが光った。
最初は飛行機かと思った。だが、みるみる近づいてくるその形は飛行機の輪郭とうまくかみあわない。ぼくは窓から身を乗り出して目をこらし、それは一直線にこちらへと向かってきて、え? まさかここに落ちる? と思うのと、え? まさかあれって人間? と思うのとがほぼ同時、そして次の瞬間、
目の下の竹林がどかん!と震え、鳥の群れがギャアギャア鳴きながら竹の中から飛び立ち、何十本もの竹がわっさわっさと揺れ、大量の竹の葉が四方に飛び散った。ひとことで言うと、飛んできた何かが竹林に落ちたのだ。
行ってみよう! 何が起こったのかたしかめなきゃ!
ぼくは嬉々として複素数に別れを告げ、階段を駆け下りた。
竹林はうちのすぐ裏にひろがっている。藪をかきわけて歩くことしばし、ようやく墜落地点に達した。十本以上の竹がなぎ倒され、へし折られ、押しつぶされたその上に、人間がひとりあおむけに転がっている。
若い男だった。二十歳ぐらいだろうか。黒い短い髪にピンク色の肌。着ているものは無地の半袖のポロシャツにブルージーンズ、スニーカーという、あたりまえの品々である。
とりあえず生死を確認しようと、ぼくは竹を踏みつけながら男の横にかがみこんだ。脈を見るために手をとろうとして、ふと男の腕に抱えられているものに気づく。それは人間の頭に似た大きさと形で、黒い毛がたくさん生えているところはまるで髪の毛のようだ。横のほうには人間の耳そっくりの構造物がついているのも見える。ぼくは怖いもの見たさでそれをひっくりかえしてみた。目や鼻や口そっくりの構造物が正しく配置された面が出てきた。なかば予想していたとはいえ、ぼくは息をのむ。実物を見るのは初めてだが、これは生首というやつではあるまいか。肩までの長さの髪の女の子の生首である。いや、肩はないが。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ。どうか迷わず成仏してください」
ぼくはつぶやきつつ手を合わせる。そのとたん生首がぱちりと目をあけた。のみならず口もあけて、ハスキーなソプラノで話しだした。
「あ。こんにちは」
「ど、どうも」
なんたることか、成仏してくれと言った矢先に迷い出られてしまった。やはり本職のお坊さんに回向してもらわなければならないようだ。家に帰ってお寺に電話しようかと考えていると、生首が話しかけてきた。
「あの、ちょっとおたずねしたいのですが」
「なんでしょう」
「わたしの兄がこの近くに落ちてきていませんでしょうか」
「ええと、たぶん、すぐ後ろに倒れてるのがそうじゃないかと思います」
「そうでしたか。ありがとうございます」
そして生首は地面に転がったまま真剣な表情で横目を使いはじめた。後ろに倒れている人物を見定めようとしているらしいが、どうしても目が届かない。ぼくは「ちょっと失礼」と言って生首を抱え上げ、向きを変えてやった。生首は男をひとめ見るや心配そうな声をあげた。
「兄さん、まだ目がさめないのかしら。わたしをかばったせいかな。けがしてないといいけど。兄さん! 兄さん! 起きて!」
ぼくは片手で生首をかかえたままもう片方の手で男の肩をゆさぶってやった。男はうめき声をあげ、頭を振りながら体を起こした。
「うう。おはよう、妹よ」
「兄さん、大丈夫なの? けがしてない?」
「ああ、どうやら大丈夫みたいだ。おまえは?」
「わたしも大丈夫」
ぼくはおもわず自分の腕のなかの生首を見下ろした。大丈夫なのか、これが? ぼくは医学のことはよくわからないが、大けがどころではないと思う。へたをすると命にかかわるのではなかろうか。
困惑して生首をかかえたまま立ち尽くしていると、男がぼくに目を向けてきた。
「ところで妹よ、おまえをだっこしているのはどなただ」
「あ。そういえば、どちらさまでしたっけ?」
ぼくは答えた。
「この近所に住んでいる者です」
「そうですか。どうもお騒がせして申し訳ありません。ちょっと事故があったもので」
「もしかして飛行機事故ですか」
すると男はちょっと困ったような顔を見せた。
「空を飛ぶ機械ですから、たしかに飛行機と言えなくもありませんが……」
言いよどんでいる。
「と言いますと、ヘリコプターとか、あるいはもしかして飛行船とか?」
「いえ、その、……UFOなんです」
ぼくは驚いて言葉につまった。腕の中から生首が説明を加えた。
「わたしたち、じつは地球の人間じゃないんです。月からUFOに乗ってやってきたんです」
「月。月というと、あの月ですか」
ぼくはなんとはなしに空を見上げたが、月の運行スケジュールとかみあっていないらしく、青い空のどこにもあのなじみぶかい姿は見当たらなかった。
「そう、あの月です」
「なるほど。ずいぶん遠くからいらっしゃったんですね。たいへんだったでしょう」
ぼくのうろおぼえの記憶によれば、月は地球から約三十八万キロメートル離れていたはずである。日本とアメリカ西海岸の距離が最短で七千キロぐらいだから、その五十倍以上だ。かりにジェット機で飛ぶとしたら十五日かかる。十五日間もエコノミークラスの座席にすわりっぱなしと想像したら、なんだか尻が痛くなってきた。だが男は首を軽く横に振る。
「僕たちの科学技術をもってすればたいしたことではありません。最新型のUFOでほんの半日の旅でした。ただ……」
「ただ?」
「地球の上空まで来たときにUFOが突然故障して爆発しまして」
「それは災難でしたね」
「そのときにわたしはUFOの破片が首に当たってけがをしてしまったんです。それでこんなかっこうに」
腕の中から生首がいきなりそう発言したものだから、ぼくはすこしぎょっとした。しゃべる首をかかえているという状態にはなかなか慣れられそうにない。
「そして僕は妹をかかえて生身で大気圏突入をするはめになったのです」
「それはそれは、よく無事でしたね」
「無事とはいえません。まだすこし目まいがします」
ぼくは少々あきれてしまった。宇宙人の体がどんなつくりになっているのか知らないが、生身で大気圏突入をやらかして目まいですむというのはただごとではない。すると生首が註釈を加えてきた。
「わたしたちの体は地球の人たちよりちょっと頑丈にできているんです。そうでないと、月のきびしい環境のなかでは生きていけませんから」
「なるほど」
「わたしのこのけがも、地球の人から見たら大けがかもしれませんが、わたしたちにとってはたいしたことじゃありません。体が見つかればすぐにくっつきます。たぶん地球のどこかに落ちていると思うんですけど」
「体が見つからなかったらどうなりますか」
「その場合は、あたらしい体が生えてくるのを待ちます。地球時間で三ヵ月ぐらいかかりますけど。どちらにしてもちゃんと治りますから、どうぞご心配なく」
納得して、というよりバカバカしくなって、ぼくは心配するのをやめた。男が手を差し出してきたので生首を渡してやる。男と生首はていねいにおじぎをして、言った。
「それでは僕たちはこれで失礼します」
「たいへんお騒がせしました」
「はあ。お気をつけて」
ふつうに答えてしまってから、ぼくはあわてて引き止めた。
「いや、ちょっと待ってください。お二人とも、そんなかっこうでどこかに行く気ですか」
二人は首をかしげた。
「そんなかっこうって、どこか変ですか。ちゃんと地球式の衣服を選んで着てきたつもりだったんですが」
「あ! わたし何も着てません。どうしましょう」
「いや、そういう問題じゃなくてですね」
ぼくは真剣に二人をさとしにかかった。良識ある市民として、こんなのに表を歩かせるわけにはいかない。
「ぼくが言ってるのは、天下の公道を生首をかかえて歩いたら目立つし騒ぎになるってことです」
「まずいですかね」
「まずいです」
地球人だれもがぼくのように冷静で理性的とはかぎらないのだ。この二人の行くさきざきにヒステリー、パニック、火事場泥棒などが次から次へと巻き起こるであろうことは疑う余地がない。
「あ、それじゃあつかましいですけど、ひとつお願いしてもいいですか?」
生首がぼくにむかって言った。いまごろ気がついたが、この生首はけっこうな美少女だ。生前はさぞ魅力的だったにちがいない。いまとなっては顔立ちが整っているぶんよけい不気味だが。
とはいえぼくも男のはしくれ。美人の頼みをことわれるようにはできていなかった。
「なんでしょう。ぼくにできることでしたら何でも言ってください」
生首の頼みは以下のとおりであった。
「ゴミ袋を一枚もらえませんか。黒いのを」
「おいおい、そんなものをもらってどうする気だ、妹よ」
「わたしをゴミ袋に入れてもらうの。そうすれば兄さんに持ち運んでもらってもあんまり目立たないんじゃないかなって」
「なんだと。いや、最愛の妹をゴミ扱いするなんて僕にはできない。その案は却下だ」
「わたしはそんなこと気にしないから。おねがい、兄さん、我慢して」
「あの、申し訳ないんですが」
ぼくはおずおずと口をはさんだ。
「いまどき黒いゴミ袋ってないですよ。すくなくともうちの自治体では、もう十年以上も前に廃止してしまいました。いま使ってるのは透明なやつです」
「えっ、そうなんですか」
「そうなのです」
「えーと、それじゃあ、スーパーマーケットの袋でもいいです。買い物したときにもらえる、白いビニール製のがありますよね?」
やけに地球の日常生活のこまごましたところに詳しい宇宙人だった。だがぼくはまた首を横に振る。
「あいにくですが、うちには一枚もありません。エコロジーのためにマイバッグを使用しておりまして」
「うーん。ほかに何かありませんか。わたしを入れて運べるようなものが」
ここでぼくは、さきほどから気になっていたことを聞いてみた。
「それはいいんですが、お二人は地球ではどちらに滞在されるご予定ですか。どこか落ち着き先があるんですよね?」
「それはもう決まってます。あるホテルに予約を取ってまして……」
言いかけた生首がさっと青くなって口をつぐんだ。生首の顔色が変わるのを見たのは生まれて初めてだ。青ざめた生首はおろおろと兄に視線を向けた。
「どうしよう兄さん。ホテルの予約チケット、わたし、ズボンのポケットに入れっぱなしだった」
「なにっ」
「わたしの首と胴体が離れたとき、当然ポケットもあっちに付いてたから……。ホテルのチケットだけじゃなくて、現金とか、クレジットカードとか、保険証とかもぜんぶあっちだ」
生首はすっかり取り乱して泣きそうになっていた。男もむずかしい顔をしている。
「しまったな。僕も大気圏突入のときに財布を落としてしまったんだ。これじゃ野宿するしかないぞ」
「そんなあ」
暗くなってしまった二人に、ぼくは声をかけた。
「あの、そういうことでしたら、うちに来ませんか。ホームステイっていうのもいいと思いますよ」
「えっ、いえ、でも、ご迷惑じゃ」
「いいえいいえ、迷惑なんてことはちっともありません。困ったときには変な遠慮なんかしないで人に助けてもらうのが一番です。さ、そうと決まったらこちらへどうぞ。狭くてきたないところで恐縮ですが、すくなくとも雨露はしのげます」
ぼくは強引に男の背を押して家にむかった。これでどうやら生首出現で町じゅうおおさわぎといった事態は回避できそうだ。