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3 白い少女

 一階の受付は、時間ごと崩れ落ちたかのようだった。


 カウンターの上には埃が何層にも積もり、その下には診察券の束が散らばっていた。壁に掛かっていたであろう時計は床に落ち、文字盤が割れていた。針は、午前三時十七分で止まっている。


「……三時十七分」


 ボタンが呟いた。


「五十年以上前に、この時計は止まったんですね」

「そうだね。でも、面白いのはさ」


 アオイがデジタルカメラのシャッターを切りながら言った。


「ネットの報告だと、来るたびにこの時計の針の位置が違うらしいんだよね」

「……は?」


 カブが振り返った。


「電池も切れてる時計の針が動くわけないだろ」

「だから面白いんじゃん」


 面白くねぇ、とカブは呟いた。その呟きは誰にも拾われなかったが。


 三人は受付を抜け、廊下を進んだ。


 リノリウムの床はところどころ剥がれ、下のコンクリートが剥き出しになっている。壁の案内板は黄ばみ、『内科→』『外科→』『手術室↑三階』の文字がかろうじて読めた。


 診察室を覗くと、診察台が一台、部屋の真ん中に残されていた。ビニールレザーは裂け、中のスポンジが飛び出している。棚には薬品の空き瓶が並び、机の上にはカルテが散乱していた。


「先輩、これ」


 ボタンが壁を指した。懐中電灯の光が照らしたそこには——子供の落書きがあった。

 クレヨンで描かれた、太陽と花と人。入院していた子供が描いたのだろうか。色は褪せているが、笑顔だけがやけにはっきり残っていた。


「……病院だったんだな、ここ」


 カブがぽつりと言った。当たり前のことだが、こういうものを見ると実感が湧く。ここで人が働き、人が診察を受け、人が入院していた。それがある日を境に、すべて止まった。


「二階、行こう」


 アオイがカメラを構えたまま先に立った。その足取りは軽い。



─────



 階段は、一段ごとに軋んだ。


 手すりは錆びつき、触ると赤茶色の粉が手についた。カブは手すりから手を離し、壁に手をついて上がった。壁も冷たく、四月の午後だというのに、この建物の中だけが季節を拒んでいるようだった。


 二階は病棟だった。

 長い廊下の両側に、病室がずらりと並んでいる。

 これまで廃病院に来た者たちが開けたのか、ドアは大半が全開で、部屋の中には、ベッドの鉄枠だけが残されていた。マットレスはなく、骨組みだけが暗闇の中に浮かんでいる。


「アオイ先輩」


 ボタンが足を止めた。


「……あの部屋、ドア閉まってますね」


 廊下の突き当たり、一番奥の病室だけが、ドアがぴったりと閉じられていた。他の部屋は半開きか全開なのに、その一室だけが、まるで中に誰かがいるかのように——。


「開けてみよっか」


 アオイが嬉々として近づいた。当然である。この女がこういう場所で立ち止まるわけがない。


「やめろ」


 カブがアオイの腕を掴んだ。


「他が開いてるのに、ここだけ閉まってるんだ。何があるか分からないだろ。床が抜けてるかもしれない」

「えー、でも気になる」

「気になるで済まなかったらどうすんだよ。神永先生も言ってただろ、油断するなって」


 アオイは不満そうに唇を尖らせたが、しぶしぶ手を引いた。


「……分かった。帰りに見よう」

「帰りにも見ない」


 三人は閉じたドアの前を通り過ぎた。


 通り過ぎるとき、カブはちらりとドアの小窓を見た。曇りガラスの向こうは真っ暗で、何も見えない。


 何も見えない——はずだった。


 一瞬、ガラスの向こう側に、白いものが動いた気がした。


 カブは歩調を速めた。

 見間違いだ。そう思うことにした。



─────



 三階。手術室。


 重い金属製の扉を押し開けると、タイル張りの広い部屋が現れた。天井の無影灯は落下し、床の中央で砕けている。手術台は一台残されており、ステンレスの表面が懐中電灯の光を鈍く反射した。


「ここも噂の場所だよ……!」


 アオイが目を輝かせた。


「足音が聞こえるのはボイラー室じゃなかったのか?」

「そっちは足音ね。手術室は、衝撃音がするんだって」

「……どっちにしろ最悪だな」


 三人は手術室の中央に立ち、耳を澄ませた。


 しん、と静まり返っている。水の滴る音すら、ここでは聞こえない。空気が重く、濃く、肺に溜まるような圧迫感がある。


「……何も聞こえないね」


 アオイが小声で言った。残念そうに、だが諦めてはいない顔で。


「昼間だからかな。やっぱり夜じゃないと——」


 こん。


 音がした。三人同時に固まる。


 こん、こん。


 天井の上——四階から聞こえてくる。何かを叩くような、規則的な音。


「……風で何か揺れてるんだろ」


 カブが言った。自分に言い聞かせるように。


「かもしれないけど」


 アオイがICレコーダーを天井に向けた。


「面白い。ちゃんと録っとこ」


 音はやがて止んだ。


「——地下、行こう。本命はボイラー室だから」


 アオイが先頭を切って歩き出した。カブとボタンがそれに続く。



─────



 地下への階段は、一階の奥にあった。


 『ボイラー室 関係者以外立入禁止』と書かれたプレートが、半分剥がれて壁にぶら下がっている。階段の先は完全な闇だった。懐中電灯の光を向けても、数メートル先で闇に呑まれる。


「……暗いな」

「うん。今までで一番」


 しかしアオイは足を止めない。懐中電灯を前方に向け、迷いなく階段を降りていく。地上の光が一切届かない。懐中電灯の白い光だけが、三人の世界のすべてだった。


 階段を降りる。一段、二段、三段。足音が反響する。コンクリートの壁に囲まれた狭い階段は、音をよく響かせた。


 降りきると広い空間に出た。

 そこがボイラー室だった。


 天井は低く、巨大な鉄の塊——ボイラー本体が部屋の奥に鎮座していた。配管が天井と壁を蜘蛛の巣のように這い回り、足元には工具や部品が散乱している。空気は地上よりさらに冷たく、湿度が高い。吐く息が白くなりそうなほどだ。四月の昼間だということを、身体が忘れそうになる。


「ここが……あのボイラー室……」


 ボタンが囁くように言った。さすがの彼女も、声が小さくなっている。


「ICレコーダー、回すね」


 アオイがレコーダーのスイッチを入れた。赤いランプが点灯する。

 三人はボイラー室の中央に立ち——耳を澄ませた。


 最初は何も聞こえなかった。自分たちの呼吸音と、どこか遠くで水が滴る音だけ。


「……やっぱり昼間だと」


 カブがそう言いかけた、その時だった。


 ひた。


 足音がした。

 三人の誰のものでもない。三人は立ち止まっている。動いていない。


 ひた、ひた。


 背後から。暗闇の奥から。裸足で濡れた床を歩くような、湿った足音。


 カブの全身の毛が逆立った。

 振り返って懐中電灯を向ける。

 しかし誰もいない。

 暗闘と、コンクリートの壁と、錆びた配管だけが、光の中に浮かんでいた。


「——聞こえた」


 アオイが振り返った。その顔に浮かんでいたのは、恐怖ではなかった。

 歓喜だった。


「聞こえたよね!? 今の、聞こえたよね!?」


「先輩……! はい、聞こえました……!」


 ボタンは顔が青白いくせに、目だけがぎらぎらと光っている。恐怖と興奮がない交ぜになったような、妙な表情だった。


「やば、ちゃんと録れてるかな——」


 アオイがレコーダーを確認しようとした、そのとき。


 ひた、ひた、ひた。


 足音が、再び始まった。


 今度は——近い。さっきよりずっと近い。すぐ後ろ、手が届くほどの距離から聞こえてくる。


「——っ」


 さすがのアオイも動きを止めた。近すぎるのだ。振り返ればそこに何かがいる、そんな距離。


 カブは歯を食いしばった。


「出るぞ。今すぐ」


 低く、しかしはっきりと言った。


 三人は階段に向かって歩き出した。足音はぴたりとついてきた。三人が歩くと歩き、早足になると早足になる。まるで影のように。


「走っれ——!」


 アオイが叫んだ。


 三人は走った。階段を駆け上がり、一階の廊下を走り抜け、エントランスを飛び出した。


 午後の日差しが三人の目に突き刺さった。数分ぶりの日差しだがとても安らぐものだった。


 三人は駐車場まで走り、神永先生の車の横で息を切らした。


「——どうした。幽霊にでも追いかけられたか」


 窓から顔を出した神永先生が、冗談めかして言った。


「追いかけられました!」


 アオイが息を弾ませながら、しかし満面の笑みで叫んだ。


「先生聞いてください、ボイラー室で足音が! 噂通りです! しかもめちゃくちゃ近くて、ちゃんと録音も——ねえこれ聞いてくださいよ!」


 興奮して早口でまくしたてるアオイを、神永先生は半ば呆れた目で見た。


「……お前は本当に肝が太いな」

「だってすごかったんですよ! レコーダーちゃんと回してたから——」


 アオイがICレコーダーを再生した。車内に、ボイラー室の静寂が流れる。三人の呼吸音。水滴の音。そして——。


 ひた、ひた、ひた。


 濡れた足音が、はっきりと録音されていた。

 

 神永先生はサングラスを外し、数秒間黙ってそれを聞いた。


「……帰るぞ」


 それだけ言って、エンジンをかけた。


「えー、もうちょっと——」

「いいから帰るぞ」


 二度目は、有無を言わせない声だった。


 車が動き出した。アオイとボタンは後部座席でボタンと録音データを聞き直しながら、「ここ、ここ! 二回目の足音の前に何か小さい音混じってない?」と興奮冷めやらぬ様子だった。


 カブは助手席で黙っていた。


 何気なく——本当に何気なく、バックミラーに目をやった。


 遠ざかる廃病院。草に覆われた駐車場。地下へ続く入口。

 

 その前に——誰かが立っていた。

 白い。裸足だ。長い髪が顔を隠している。


 こちらを見ている——のかどうかは分からない。顔が、見えないのだから。


 だが、確かにそこに立っていた。


 カブは、ゆっくりと前を向いた。

 何も言わなかった。


 後部座席では、アオイとボタンがまだ録音を聞き返している。「やばいやばい、これ絶対レポートにまとめなきゃ」「先輩、これ部の活動記録に入れましょう!」

 ——二人は、バックミラーを見ていない。


 カブだけが、見た。オカルト嫌いのカブだけが。




─────


オカルト研究会の小噺


 帰りの車内。アオイとボタンが録音分析に夢中になっている横で、カブのスマホが震えた。


 もう一人の部員、吉水ユウカからだった。


『廃病院どうだった? 大丈夫だった?』


 カブは片手で返した。


『まあ、無事に帰ってきた』

『よかった! 怖いこととかなかった?』


 カブは少し迷って、打った。


『特には。アオイが楽しんでた』


 送信してから、バックミラーで見たものを思い出した。

 ——言う必要はない。


『そっかお疲れ様! 明日部室でお話聞かせてね!』


 あれが何だったのか、今のカブには知る由もない。

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