2 鳴沢廃病院
入部届が受理されて三日。
丹下ボタンは、オカルト研究会の部室にすっかり馴染んでいた。馴染みすぎている、とカブは思う。
「先輩先輩! これ見てください!」
ボタンがスマホの画面をアオイに突き出す。表示されているのは、どこかのオカルト系掲示板のスレッドだった。
「『鳴沢廃病院、三階の手術室で足音が聞こえた』——うわ、最近の書き込みじゃん」
「そうなんです! 先週の土曜に行った人がいるみたいで!」
「いいなあ。行きたいなあ」
「行きたいですよね!」
二人の目が爛々と輝いている。カブは机に突っ伏して、聞こえないふりをした。聞こえないふりをしたが、聞こえている。嫌な予感がする。
「——カブ」
「嫌だ」
「まだ何も」
「廃病院だろ。嫌だ」
「なんで分かるの?」
「三日間ずっとその話してるからだよ」
アオイはにっと笑った。悪い顔だ。十七年の経験で知っている。この顔をしたとき、アオイの中ではもう結論が出ている。
「今度の日曜、空いてるよね?」
「空いてない。俺は予定がつまりにつまってる」
「嘘つかないで。空いてるでしょ? お母さんに聞いたもん」
「は? なんで俺の母親に聞いてんの?」
「今朝、ゴミ出しのとき会ったから」
カブは天井を仰いだ。幼馴染で隣の家というのは、こういうときに逃げ場がない。プライバシーの概念が存在しないのだ。
「ボタンちゃんも行きたいって言ってるし、三人で行こうよ」
「二人で行けばいいだろ」
「荷物持ちがいないじゃん」
「俺は荷物持ちかよ」
「あと、懐中電灯係も」
「……」
ボタンが申し訳なさそうにカブを見た。
「あの、鞍馬先輩。ご迷惑でしたら——」
「いや」
カブはため息をついた。深い、深いため息だった。
「いい。行く」
「えっ、いいんですか?」
「どうせアオイは一人でも行く。こいつを一人で廃墟に行かせるほうが心配だ」
アオイが嬉しそうに手を叩いた。
「さすがカブ! 持つべきものは幼馴染!」
「俺は持ちたくなかったけどな」
こうして、オカルト研究会の今年度最初のフィールドワークが決まった。
─────
日曜日。午後一時。
岡琉都高校の正門前に、三人は集合した。ここから鳴沢廃病院までは車で約四十分。山間部の県道沿いにぽつんと建っている、かつての総合病院だ。
「ユウカは?」
カブが訊いた。四人目の部員、吉水ユウカの姿がない。
「あー、今日は家の用事だって」
アオイがスマホを振って見せた。画面にはユウカからのメッセージが表示されている。『ごめんね、今日は無理! 気をつけてね!』とスタンプ付きで送られている。
「まあ三人でも十分でしょ。——あ、来た来た」
アオイが手を振った先に、見慣れた軽自動車が近づいてくる。
助手席の窓が下がり、サングラスをかけた神永先生が顔を出した。
「乗りな」
「先生、今日はありがとうございます!」
「礼はいい。そのかわり帰りに酒に付き合ってくれ——真に受けるな。冗談だ」
「神永先生の場合、ないとは言えないんで」
冗談なのか本気なのか分からない口調で言って、神永先生はサングラスを持ち上げる。良い酒でも手に入ったのか、神永先生はやたらと上機嫌だった。
「しかし、廃病院か」
車が走り出し、神永先生はバックミラー越しに後部座席を見た。アオイとボタンが並んで座り、カブが助手席にいる。
「廃病院に行く前に、ひとつ教えておく。『徒然草』の高名の木登りの話は知ってるか?」
「木登りの名人の話ですよね。高いところでは何も言わないのに、降りてきて低いところになると『気をつけろ』って注意する——」
カブが即座に答えた。カブの成績は総じて普通だが、古典に関してはちょびっとだけ優れていた。
「そうだ。人は、あと少しというところで油断する。危ないのは最初じゃない、慣れてきた頃だ。
廃墟も同じだろう。入った瞬間は緊張しているが、しばらく歩いて『なんだ、大丈夫じゃないか』と思った頃に、足元を踏み抜く。建物が崩れかけていたら即撤退。暗いところでは必ずライトを点ける。単独行動は禁止。いいな」
「はーい」
「はい!」
「……はい」
三者三様の返事を聞いて、神永先生は小さく頷いた。
車は市街地を抜け、県道に入った。窓の外の景色がだんだんと緑に変わっていく。住宅地が減り、田んぼが増え、やがて山が近づいてくる。
「先輩」
ボタンが小声で言った。
「鳴沢廃病院って、どういう場所なんですか? ネットの情報だと、色々書いてあるんですけど」
「よくぞ聞いてくれた」
アオイの目がきらりと光った。待ってましたと言わんばかりに、鞄からスクラップ帳を取り出す。
「鳴沢総合病院。開業は昭和四十二年。もともとは地域の中核病院だったんだけど、平成の初めに経営難で閉院。以来、三十年以上ずっと放置されてる」
「三十年……」
「で、閉院してからすぐに噂が立ち始めた。夜中に窓の明かりが点く、三階の手術室から機械音が聞こえる、屋上に白い人影が立っている——」
アオイはスクラップ帳のページをめくった。古い新聞記事のコピー、ネットの書き込みのプリントアウト、手描きの地図。几帳面に整理されたそれらは、アオイの執念の結晶だった。
「特に有名なのが、地下のボイラー室。ここに入った人が、全員同じ体験をしてるの」
「同じ体験?」
「——足音。自分以外の足音が、後ろからついてくるの」
車内が一瞬、静かになった。
カブは助手席で腕を組み、窓の外を見ていた。聞きたくない。聞きたくないが、耳は勝手に拾ってしまう。
「……それ、音が反響してるだけじゃないのか」
「ちっちっち。カブはわかってないなぁ」
「わかりたくはないが」
「もし反響してるなら、音が鳴るのは歩いてるときだけでしょ? でもそこだと、止まっても足音がするんだって」
「……嫌すぎる」
ボタンは怖がるどころか、目を輝かせていた。
「行きたい……地下ボイラー室、絶対行きたいです……!」
「だよね!」
カブは窓に額をつけて、目を閉じた。帰りたい。まだ着いてすらいないのに、帰りたい。
四十分後。
車は県道から外れ、草に覆われた細い道に入った。アスファルトはひび割れ、ところどころ雑草が突き破っている。
そして——それは、唐突に現れた。
木々の間から、灰色の建物が覗いている。
鳴沢廃病院。
五階建てのコンクリートの塊。壁面は蔦に侵食され、窓ガラスは大半が割れている。正面玄関の上にかろうじて残っている看板は、文字が剥がれかけて「鳴沢 合病 」としか読めない。
神永先生が駐車場——だったと思われる空き地に車を停めた。
「着いたぞ。私はここで待っている」
「先生は来ないんですか?」
「顧問の仕事は送迎までだ。あとは——触らぬ神に祟りなし、だ」
「それ、怖がってるだけでは?」
「大人の分別と言え」
アオイはくすくす笑いながら、鞄からフィールドワーク用の装備を取り出した。懐中電灯が三本、デジタルカメラ、録音用のICレコーダー、替えの電池、そして——お守り。
「はい、カブ。ライトとお守り」
「……お守りって効くのか?」
「気持ちの問題だよ。ボタンちゃんもどうぞ」
「ありがとうございます先輩!」
ボタンはお守りをぎゅっと握りしめた。こわいもの見たさ、という言葉がこの上なく似合う顔をしていた。
「よし」
アオイが廃病院の正面玄関に向き直った。
蔦の絡まるエントランス。暗い入口の奥からは、かすかに水の滴る音が聞こえてくる。四月の午後の柔らかい日差しが、建物の中には一切届いていないように見えた。
「行こう。オカルト研究会、今年度最初のフィールドワーク——開始!」
アオイが一歩を踏み出す。ボタンが続く。カブは一拍遅れて、ため息とともに歩き出した。
懐中電灯の白い光が、廃病院の暗闇を切り裂いていく。
足元にはガラスの破片と乾いた落ち葉。壁には正体不明の染み。天井からは配線がだらりと垂れ下がっている。空気は冷たく、湿っていて、かすかにカビの匂いがした。
「すごい……本物の廃墟だ……」
ボタンが声を落として呟いた。当たり前だ、とカブは思ったが、言うのも野暮なので黙って後ろをついていく。
「まずは一階を見て回ろう。受付、待合室、診察室。それから上の階に行って、最後に地下」
アオイが手描きの見取り図を広げた。ネットの情報と航空写真から推測して作ったものだ。完成度が無駄に高い。
「先輩、この見取り図すごいですね」
「えへへ、三日かけて作った」
「そこに費やす三日間を勉強に回せ」
カブのツッコミは、いつも通り虚空に消えた。
三人は、廃病院の奥へと進んでいく。
懐中電灯の光が揺れるたびに、壁の染みが別の形に見える。風が吹くたびに、どこかでガラスの破片がかちりと鳴る。
静寂。
それでいて、どこか——息を潜めて見られているような。
カブは首筋に走った悪寒を振り払い、前を歩く二人の背中を追った。
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オカルト研究会の小噺
神永先生は車の中でアイスコーヒーを飲みながら、文庫本を読んでいた。
今日のお供は泉鏡花の『高野聖』。旅の僧が山中で怪しい美女に出会う、あの怪異譚だ。廃病院の駐車場で読むには、なかなかの選書である。
ふと目を上げると、廃病院の三階の窓に、何かが映ったような気がした。
白い。人のような形をしている——ように、見えた。
神永先生はゆっくりとサングラスをかけ直し、文庫本に視線を戻した。
「——触らぬ神に祟りなし」
大人の分別である。




