7、水底の祈り
思い出の娼館「金糸雀」があった街は、すでに薄い霧の向こう側だった。
シモーヌらの馬蹄の音が石畳の遠くへ消えていった。二人が帰る後ろ姿を、ヴィオレッタは街路まで出て、かつての少女のような悲しい目で見送っていた。あの時とは違う。去っていく姿を見ても泣き崩れない強さを、今は持っていた……。
ヴィオレッタは、自分の右手のひらを見つめた。さっき彼の頬を叩いた感触が、手のひらに残っている。冷え切っていたはずなのに、そこだけが妙に熱い。
「……女将さん」
店の中に戻ると、さっきシモーヌをからかった若い娼婦が、声をひそめて言った。彼女は空いた酒器をトレイに乗せ、テーブルを拭いていた。
「さっきの、あのおじいちゃん。あれって、女将さんの思い人じゃ……」
店の喧騒を切り取って、二人の間にだけ静寂が訪れた。ヴィオレッタはをれを振りう払うように、カウンターに置いてあった布巾を手に取った。
「何の話だい。さっさと奥の片付けを済ませちまいな。仕事は山ほどあるんだから」
「だって、あの人。帰っていくときの背中、なんだか……」
「背中がどうしたってんだい」
ヴィオレッタは、鼻先にかかった髪を乱暴に払い、湿ったカウンターを力任せにこすった。木の表面に染み込んだ古い酒の跡が、なかなか落ちない。
「下手な変装してさ、若い使い走りまで連れてさ。……うちみたいな店に来るような男じゃないんだよ、もう……」
彼女は一度手を止め、店の隅にある、誰かが飲み残したぬるい酒に目をやった。
「あんたも、あんまり客の顔をじろじろ見るんじゃないよ。変な癖がつくと、ろくな女にならないからね」
「でも……」
「いいから、行きな」
奥の部屋から、客がその娼婦を呼ぶ声が聞こえてくる。
彼女は、指先に残った熱を追い払うように、水場に行って桶に手を突っ込んだ。
「……今更、何になるってんだい。あの馬鹿……」
言いかけて、彼女は唇を強く噛んだ。 口の中に、苦い鉄のような味が広がった。彼女はそのまま、顔を上げずに、重くなった手を水の中で動かし続けた。
酒場の喧騒が遠のき、客たちが部屋に消えた深夜。ヴィオレッタは店の二階の端にある、自分だけの小さな私室へ戻った。
化粧を落とし、紫色のドレスを脱ぎ捨てて、寝間着に着替える。鏡に映るのは、客たちを笑わせた下品な女将の抜け殻だ。彼女は震える手で店から持ってきた氷をカチリと、錫の酒器に落とした。
冬に窓の外からつららを折っていたあの頃とは違う、金で買った、透明で四角い氷だ。
「……っ」
彼女は椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆った。指の間から、熱いものが溢れ出す。
「……馬鹿ね。あんな、あんな情けない顔をさせて……」
店に入ってきた瞬間から、分かっていた。 身分を隠す下手な変装をしていても、いくら年月を隔てていたとしても、その歩き方、肩の幅、そして自分を見つめるあの迷子のような瞳。三十六年、一日たりとも忘れたことのない、ヴィオレッタのたった一人の騎士様。
ヴィオレッタは、棚から降ろして膝の上に置いた、古い手箱を開けた。中には、端が擦り切れるほど読み返された、何枚もの新聞の切り抜きが入っている。『東方戦線、騎士シモーヌの戦功!』 『歩兵部隊を引いて、敵城砦を占領!』『シモーヌ騎士団長の突撃、敵騎士団を粉砕す!』『増強騎士団を率いて、占領地での反乱を鎮圧』『コイヌール伯爵、複合騎士団を率いる将軍に昇進』『皇帝陛下、コイヌール伯爵シモーヌに公爵位を授与、「帝国の剣」の称号も』……。
シモーヌの名が新聞に載るたび、彼女はそれを切り抜き、指でなぞり、誰にも知られないように接吻した。
「あなた、お酒に氷を入れて飲むのが好きだったわよね……。私は、今でもそうしてるわよ。……シモーヌ」
娼館の女将として、彼女は数え切れないほどの男を見てきた。客たちの話から、シモーヌがどれほど美しい令嬢と結婚したか、どれほど優秀な指揮官になったか、どれほど皇帝陛下に信任されているかを聞き及んでいた。自分のような過去の汚れが彼の人生に関わっていいはずがない。
さっき、彼が妻に迎えたいとでもいうような、熱のこもった瞳で、ヴィオレッタと呼んだ時、彼女は喉が鳴り、指先がスカートの裾を千切れるほど強く握りしめた。
もし、自分が覚えているわ、愛している、と泣きついてしまったら? 帝国軍の司令官が、年老いた娼婦を妻にしたと知れれば、彼の積み上げた名誉は一晩で灰になる。彼は責任感の強い人だ。きっと、それを承知で自分を泥沼から引き上げようとする。
「私は……、あんたの弱点になりたくなかったのよ……」
ヴィオレッタは、酒器の中の氷が溶けていく音を聞きながら、思いにふける。
わざと下品な猥談を口にし、わざと思い出を汚して、他の客と混同したふりをした。シモーヌが自分に幻滅し、軽蔑して立ち去ってくれることだけを願って、心を殺して笑った。
彼が去った後の、寂しそうな背中。 あの日、出征を見送った朝と同じだった。
「これでいいの。……あんたは、鋼の将軍様でいなきゃ。私みたいな婆さんを抱いて、まどろんでいる暇なんてないんだから」
ヴィオレッタは、溶けかけの氷をガリリと噛み砕いた。冷たさが喉を焼き、心臓の鼓動を鎮めていく。彼女は机に向かい、また新しく届いた新聞に鋏を入れた。 そこには『コイヌール公爵、対大公国戦線の司令官に就任』の文字。
「……死なないでね、シモーヌ。私を忘れて、立派な英雄のまま……、地獄のような戦場から帰ってきて」
ヴィオレッタは、自分を忘れ去られたその他大勢の一人だと思い込ませることに成功した。 それが、世界で一番愛している男に、自分ができる最後で最大の嘘だった。
ヴィオレッタは、一度だけ触れた彼の頬を思い出しながら、自分の冷え切った頬をそっとなぞった。




