3、保存のきかない生菓子
皇帝が、対大公国軍の司令官として選んだのは、コイヌール公爵シモーヌ将軍だった。彼は帝国の最重要である対ゴニアタイト戦線を任せられていた。彼は騎士団だけではなく投石器・バリスタなどの攻城兵器の運用にも長けた、帝国最強の剣である。
だが、帝都に到着したシモーヌの瞳は、いつもの鋭利な光とは異なる、深いためらいと決意の色を宿していた。あれから三十六年。公爵となり、妻を亡くした五十八歳のシモーヌは、戦地へ向かう前に、自分の人生に決着をつけるため、あの街を訪れようとしていた。
「やめておけよ」
長年の友人は吐き捨てるように言った。軍務尚書の重鎮となった彼、アショロア男爵は、執務室の暖炉に薪を放り込み、火箸で乱暴に灰を掻き回した。二人の付き合いは、シモーヌがまだ粗末なマントを着ていた頃からのものだ。
「初恋なんてのはな、保存のきかない生菓子みたいなもんだ。三十六年も放置して、中身が腐っていないとでも思っているのか? 五十を越えた娼婦に会いに行って、何が残る。お前の記憶にある、美しい幻影を、自ら泥の中に叩きつけるだけだぞ」
彼は本気になって止めていた。それは親友としての良心だった。
「いいか、シモーヌ。お前は今や帝国の至宝だ。家柄も名声も手に入れた。聡明で貞淑な奥方も亡くなって、新しい女が欲しいなら、社交界の公爵令嬢から未亡人まで、お前の指先一つで跪く。今まで奥方とその実家に遠慮してたんだろうが、もう誰に遠慮することもない。なのに、なにも好き好んで、今更あんな酒に水を混ぜるような店に行く必要がどこにある」
「……あの日、俺は何も言わずに彼女を置いてきた」
シモーヌの声は静かだったが、その奥には重い澱のような響きがあった。
「団長から肖像画を見せられ、名門の婿になれと言われた時、俺は天秤にかけたんだ。彼女との愛と、帝国での椅子をな。そして俺は、椅子を選んだ。彼女に別れすら告げなかったのは、悲しませたくなかったからじゃない。俺が、自分の裏切りを言葉にしたくなかったからだ」
シモーヌは窓の外、雪が降り始めた帝都の街並みを見つめた。
「三十六年間、俺は一度もあの街を訪れなかった。戦功を立てるたび、勲章が増えるたび、俺は自分の心を塗り潰してきた。だがな、妻が死に、子供たちも独立した今、ふとした拍子に指先が冷えるんだ。そこにあったはずの熱が、どこに行ったのかを確かめずには、次の戦場へは行けない」
友人は深くため息をつき、火箸を置いた。
「償いのつもりか? 公爵が娼婦を妻にする。それがどんなスキャンダルになるか、分かって言っているのか。皇帝陛下はお怒りになるだろうし、お前のこれまでの武勲に泥が塗られるんだぞ」
「助言なんか頼んでいない。お前に頼みたいのは家系の工作だ」
シモーヌは友人の顔を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、かつての若い騎士のころのような危うい光が宿っていた。
「公爵の結婚にはそれなりの体裁が必要だ。君の家系に、彼女を加えてくれないか。相応の金を用意する。何だったら俺の次の戦果をすべてお前の派閥に譲ってもいい」
「……馬鹿か、お前は」
友人は呆れたように肩をすくめたが、その口元にはわずかな苦笑が浮かんだ。
「いいだろう。お前が初恋の幻影に失望せずに帰ってきたら、話に乗ってやる。うちの親父が昔、南部に囲っていた愛人の隠し子ということにして、家柄を整えてやろう。最高級のシルクで、花嫁衣裳も用意してやる。だがな……」
友人はそこで言葉を切り、鋭い視線を向けた。
「もし、お前がその女に会って、あんな女のために自分は人生を賭けようとしたのか、と絶望しても、俺は笑ってやるだけだぞ。その時は、黙って司令官の椅子に戻れ。いいな」
「頼んだぞ」
「勝手にしろ。馬鹿な男だ」




