1、青い時代
帝都近郊の地方都市、ここには帝都防衛の騎士団が配置されている。その本部に近い、石畳の湿った路地。軒先から垂れたつららが、街灯の鈍い光を吸って濁っている。
二十二歳のシモーヌは、マントの襟を立て、吐き出す息の白さに顔をしかめた。隣を歩く友人が「あそこの店、酒に水が混じってんだよな」、とどうでもいい不満を口にしていたが、シモーヌは生返事でやり過ごした。
娼館の階段はよく磨かれていた。 部屋には、獣脂の蝋燭と、化粧の匂いがこびりついている。ヴィオレッタは十六歳だった。猫のような瞳をしている。彼女が脱ぎ捨てた衣類からは、安っぽい香料と微かな汗の匂いが漂っている。
「……手が、冷たいわね」
ヴィオレッタがシモーヌの指先を包み込んだ。彼女の掌は、外の冷気とは対照的に、驚くほど熱を持っていた。シモーヌはその熱に、自分の輪郭が溶けていくような感覚を覚えた。彼女の手が彼の頬に触れる。
シモーヌは、テーブルに置かれた錫の酒器に目をやり、窓を開けて、屋根から伸びるつららを折り取った。
「お酒に入れるの? お腹壊すわよ、そんな汚いもの」
ヴィオレッタは笑いながら言った。シモーヌは窓の外から折ってきた氷の欠片を、安物の強い酒を注いだ酒器に落とした。 カチリ、と小さな音がした。
「いつか、ちゃんとした氷を。透き通って、四角い、金持ちが使うようなやつをさ。二人で飲もう」
シモーヌの言葉に、ヴィオレッタは答えなかった。ただ、酒器をとり、酒を含んだ自分の唇を、彼の唇に押し当てた。喉の奥が焼けるようなアルコールの苦味と、彼女の粘膜の柔らかさが混ざり合った。
翌月、騎士団長に呼び出された。
「名門の令嬢だ」
差し出された肖像画の女は、額縁の中で正しく微笑んでいた。団長は茶を啜った。
「お前の才能を、あそこの家系は欲しがっている。悪い話じゃないだろう」
窓の外を見ながら言った。部屋には上質な香木の香りが漂い、シモーヌの着ているマントの素材の粗さが、ひどく浮いて見えた。
東方の新興国との戦線への出征が決まった前夜。 部屋の空気は、いつもより重く、湿っていた。お互い別れを覚悟したまま、夜を過ごした。
翌朝、灰色の空から雪が降り始めていた。
「向こうの冬は、もっと厳しいらしい」
シモーヌがブーツに拍車をつけながら、脈絡もなく言った。ヴィオレッタはベッドの端に座り、自分の爪を、ただ眺めていた。
「忘れ物はない?」
「……ああ」
「そう。気をつけて」
それだけだった。「待っている」とも「帰ってくる」とも言わなかった。娼館を出て、シモーヌは一度だけ、彼女の部屋の窓を見上げたが、カーテンの隙間から何かが動く気配はなかった。馬の蹄が跳ね上げる泥の冷たさが、脛にこびりついた。
東方の新興国との国境線では、城砦の防衛、機動戦で日々が過ぎた。新しい国だからか、戦争の常道が通じなかった。同輩たちは伝統のない国の軍隊を馬鹿にしていたが、帝国の被害は拡大した。
シモーヌは、部下が死ぬたびに事務的な報告書を書き、空いた席を埋めるために戦術を組み直した。最初の戦功は、この戦場であげた。
その後は妻の実家の引きもあり、昇進し、功績を立てるたびに、胸元の勲章が増え、布地が重くなっていった。ついには公爵位まで授与された。
一度、ヴィオレッタに手紙を書こうとしたことがあった。しかし出世のために結婚した自分には、あの幸せだった時代を思い出す資格なんてなかった。彼女の名前だけ書いて、あとは一行も書くことができなかった。
シモーヌは一度も、あの路地へは戻らなかった。 時折、遠くで氷が割れるような音が聞こえると、彼は無意識に自分の指先をさすった。そこにはもう、何の熱も残っていなかった。




