プロローグ
目を閉じると、あの場所の記憶が鮮明に蘇る。
専門商社、あの楽園の日々。
オフィスのフロアは明るく、窓際の観葉植物が心地よい影を落としていた。パソコンのタイピング音が響き、電話のコール音がリズムを刻む。エアコンの風がちょうどいい温度で、外の寒さも暑さも他人事だった。
デスクの向かいには 南ちゃん。茶髪なセミロングで、ぱっちりした目が印象的な彼女は、いつも爽やかな笑顔を浮かべていた。俺が何かやらかすたびに「もう〜レンくん!」と呆れた顔をするけど、どこか楽しそうだった。
右隣には 宮里さん。落ち着いた雰囲気のロングヘアの女性で、仕事はめちゃくちゃできるけど、雑談になるとふんわりとした笑みを浮かべて「それで、それで?」と話を引き出してくれる。
そして、一番の天使がいた。
千聖ちゃん。
ショートカットに透き通るような白い肌。小さな手でキーボードを叩く姿は、まるで物語のヒロインみたいだった。彼女は男性アイドルが好きで、昼休みになるとスマホでライブ映像を観て、目を輝かせていた。
俺は、その光景を横目で見ながら、「俺もあんな風に夢中になれるものがほしいな」なんて、ぼんやり考えていた。
楽園だった。本当に。
俺は仕事ができたわけじゃない。むしろミスばかりだった。でも、毎日が楽しかった。みんながいたから。
「……俺、このままここでずっと働くんだろうな」
そんな未来を、何の疑いもなく信じていた。
しかし、それは突然終わった。
「レンくん、ちょっと会議室に来てくれる?」
上司の声が、昼下がりのオフィスに響いた。
俺は深く考えずに立ち上がり、会議室へ向かった。ドアを開けると、そこには人事部の担当者と上司が座っていた。
その瞬間、空気が変わった。
「君を本日付で解雇します」
時間が止まった気がした。
「……え?」
「申し訳ないけど、試用期間の評価を踏まえて、正式雇用は見送ることになった」
まってくれ。俺はまだここにいたい。
「待ってください」
「決定事項です」
「まってまって……僕は……僕は……」
俺の声は、誰にも届かなかった。
会議室を出た瞬間、オフィスの景色が一変して見えた。
南ちゃんの笑い声が遠くに聞こえる。
宮里さんが誰かと電話をしている。
千聖ちゃんがスマホを見つめて、微笑んでいる。
俺だけが、この場所から弾き出される。
そう思った瞬間、強烈な喪失感に襲われた。
俺は、自分がなぜ解雇されたのか分からなかった。確かにミスは多かったかもしれない。でも、それだけでこんなにあっさり終わるものなのか?
俺は、何が悪かったんだ?
答えは、まだ分からない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
俺は、天国から追放された。
その日、雪が降っていた。
俺は、解雇を告げられた帰り道、ひとりで空を見上げた。ビルの間を舞い落ちる雪片が、白い静寂を作っていた。
オフィスの窓際で、千聖ちゃんがこの雪を見ているかもしれない。南ちゃんが「わぁ、すごい!」ってはしゃいでいるかもしれない。宮里さんが「寒いね」って呟いているかもしれない。
でも、もう俺はそこにはいない。
ポケットの中のスマホには、俺が書き続けていた小説の原稿データが残っていた。
今はただ、寒さだけが現実だった。