第六章 瘴気の怪物
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マリオン達が襲撃された一件は一同の帰還と同時に報告され、早々に対策会議が開かれた。
今回ばかりは仮拠点での相談で済ませる訳にも行かず、マリオンを含めたオークレイル重臣団と長老他戦士長が全て合議の宮殿へと集っての、一大会議が開かれる運びとなった。
彼らに洞窟を拡張する能力があるという点は、今までの戦略を覆す情報だ。
しかもあの後、洞窟内における全ての黒い生き物達がマリオンに狙いを定め、他の通路を無視して強行突破を図る事態が幾度も起きていた。
つまり向こうはマリオンを明確に識別している事になる。
結果的に敵がマリオンの気配を察知出来るのはある程度近付いたところまでと、連絡を確認する最中で発覚し、大洞窟にマリオンが戻ってからは仮拠点付近以外の襲撃は鳴りを潜めている。
だが逆に、彼らは既に人語を介す知性があり、大洞窟への襲撃も時間の問題だというのがこの場の全員の判断だ。
これまでの情報を整理し共有した一同の間に、空白の様な沈黙が生じる。
「やはり奴の目的は、マリオン様への復讐なのでしょうか。」
石組みの室内の白い外壁は粗雑に扱われた長年の汚れがこびり付いていたが、機能においては一切不快感を与えず快適そのものだ。
会議室の空調はどれだけ大人数だろうと一切息苦しさを感じさせない、建築技術の粋を尽くされている。
だがそんな快適空間ですら、重苦しい空気までは払拭出来ない。
不安を誤魔化す様なオークレイル側の大臣が質問し、明確な答えを返せるものは誰一人いないと思われたが。
『いや。復讐関係無く奴はマリオンを襲うだろう。
奴の主食は我々精霊だ。生き物を食うのは近くにいる精霊だけでは群れを養えないからに過ぎない。
奴にとってマリオン以上の餌は存在しない。』
千人のドワーフを捕食するよりも力を増すと言い切る刺繍鳥ヴェールヌイには、事前にマリオンを会議の間だけでも母と呼ばない様に頼んでいる。
只でさえドワーフ達のマリオンへの信仰が留まる事を知らない。
現在ですらドワーフの千倍と言う表現に誰も異議を唱えないどころか、何故か皆揃って自慢気に頷いている有り様だ。
「元より我々に防戦と言う選択肢は無い。
問題は如何に打って出るかだ。敵の巣は未だ判明していないのだから。」
喧々囂々と会議が二転三転する中で、マリオンは所在無く聞きに徹していた。
(……で、出来る事が何もない……。)
現状既にマリオンが行動する全てに、護衛という大量の人手が必要だという結論が出ている。故に容易に動かせない事も。
だがマリオンの動向が全体の作戦の成否に直結するというのもまた全員一致した結論でもある。マリオンが賛成出来ない作戦に意味は無いのだ。
結論だけ聞けばいいと言うのは只の身勝手だ。何せマリオンは体力が無い。
従軍ともなればある程度は体力勝負で、体力次第で強硬な行動も取れる。だが道中の行軍すら微妙な程度の体力しかマリオンには無い。
成人ドワーフの体力は倍の体重の大男を圧倒する。マリオンに同行するのはそんな連中の最エリートだ。……下手すると、二桁レベルの体力差も在り得る。
持久力なら確実にある。というか、筋力でも普通に有り得そう。
如何に一年間以上を健康回復と体力作りに費やしたと言えど、現実問題として勉学の方が急務だったし、片手間で大量の服飾ドレスを作成してもいる。
というか地味にドレスが予定より早く進み過ぎている。
お陰で今一時間稼ぎが出来ていない感があるほどだ。彼女が努力していないかと言われれば、正直もう少し控えめで良いんだよ?というのが本音である。
元々彼女はか弱い少女であり体力上限が桁一回り違うのだから、彼ら基準の軍事行動に参加させる方が無茶だ。
なのでどの後方が一番安全か。そこが最大の焦点なのだが。
「まさか本当に大盾の出番があるとは思いませんでした……。」
護衛の女性近衛騎士が、マリオンを盾の影に庇いながら小さく呟く。
ドワーフ同士の会議だけあって時々乱闘が発生しかけるが、今の所隣に大盾持ちの護衛がいる成果もあって、無事は確保されている。
「分かります。私もジグラード様に説明された時は、友好国相手の所業とは思えませんでしたし……。」
内心狂気染みた危機感に感じたのは秘密だ。でも今なら凄く分かる。
ドワーフ達の会議場にある椅子は薄く軽くて、木目の美しい机は一人では絶対動かせない程に重厚で頑丈だ。聞くと中に鉄板で補強してあるという。
つまり彼らは頭に血が上ると、この上で殴り合うのは当たり前なのだ。
しかも時々、どっちがマリオンを大事にしているかで喧嘩になるのは流石に本人でも引く。せめて当人の居る方向に人を投げないで下さい。
あ。吹っ飛ばした方も吹っ飛ばされた方も両方悪いんだ。でもリンチは駄目。
「一応軽い気持ちで作った探知魔具もあるんですけど、試してもいない試作品を出す空気じゃないですし。
多分場を和ませる事も出来ません、よ、ね…………?」
不意に会議室を沈黙が支配し、女性騎士達と何が起きたのかを顔を見合せる。
乱闘中も会議は続いていたが、特に鎮静化する様な発言は無かった筈だ。
盾の裏側の二人も揃って首を捻り、多分同じ表情で疑問符を浮かべている。
けれどまぁ。お互いに理由が分からないという結論に達したので、恐る恐る盾の影から顔を覗かせると。
会議場の全員が表情の読めない顔でこちらを見ていた。
「……あ~。マリオン?
怒らないから、その、今の試作品の、探知魔具とやらの説明を。
我々にしてくれないか?」
「ひぅ!」
無表情と笑顔が両立したジグラードの言葉に表現の出来ない恐怖が背筋を走る。
一方で当の本人は大丈夫、今皆冷水、冷静になったところだから、と訳の分からない太鼓判を押す。
でも多分、さっき口にした魔導具の事だと気付いた。
「あ、あの。コレ、本当に聞いた話で試しに作っただけの代物なので。
効果が無くても怒らないで下さいね……?」
腰の鞄からそっと、会議前の空き時間でドワーフ達との雑談を元に作った、台座に固定されたガラス球をテーブルの上に置く。
勿論只のガラス瓶ではない。中には十字に交差した、縦回転と横回転する環があり、中心に針が固定されていた。
瓶の中は滑りを良くし、酸化を防ぐ油で満たされている。
この世界に存在しない知識を参考にすれば、ジャイロスコープの中心を羅針盤の針にした物、と言えば分かる人には分かるだろうか。
もしくは中心の針が上下左右、好きな場所へと動く回転儀だろうか。
「ええと、前に敵に襲われた時に杖を動かして警報の強さで来る方位を割り出したのですが、その時方向を指せれば便利かな、と思いまして。
測量の道具に水平器とか、回転儀なる物があると聞いて、中心の針の一方に瘴気の方角を向く術式を刻んでみました。
材料は全部、工房にあった余り物です。」
距離は分からないが、上下左右、方位なら分かる。
距離についてはガムランボールの方を参考にして貰えば良いのであくまでこっちは補助だ。何なら二つ並べても良い。
ぶっちゃけ針に術式を刻み、出来合いの物を組み立てただけの代物だが。
「えぇと……。コレ、瘴気が複数ある場合、どっちを指すのかね?」
「え?強い方だと思いますが……。」
というか、数を識別出来ないと思う。
「つ、作るのは、簡単?」
「は、針を作って廃品を集めれば、直ぐに?」
設計図は未だ無い。本当に試しに作って方角を差すかこれから試す段階だ。
着想五分。組み立ててみて行けそう。そんな段階。
「……二手に分けて、片方が盾を担当。もう片方が突撃と殲滅。
行けるのでは?」
「大洞窟では逆に守りが薄いな。庇う相手が多過ぎる。
中継所に砦を築くか?子供らは山の外に待機させれば良い。」
「性能実験なら先行偵察隊にさせれば良い。
この坑道を支柱にすれば、中継所と大洞窟を繋ぐのも容易い。
いっそ、今迄確認した坑道を一通り巡回させればどうだ?」
「そうだな、新しい穴の有無を確認する必要がある。
実験なら一部隊で十分だろ?」
手段が提示され、じゃあどうするが解決したドワーフ達は、今迄出ていた会議の結果を総括する様に話を整理していく。
「……流石だな。諸般の問題があっさりと解決したぞ。」
「あの。ジグラード様?私、何も悪い事してませんよね……?」
「勿論だ。実際皆が必要数を確保するだけで手一杯で、誰も魔具の改良を試せる段階では無かったんだ。とても助かったよ。」
まぁ助かり過ぎて後が怖いのは相変わらずなんだがと、不穏な呟きを放つ。
概ねの基本方針は直ぐに定まり、結論として前段階でマリオンを危険に晒す必要は無いと判断され、先に休んでいて良いと言われて会議場を退席する。
暫くは大洞窟に留まり、合議の宮殿周りで生活をする事になった。部屋は以前と同じ物を使うので、特に輸送の手間も無い。
一応ドワーフの方々に部品の確認をして設計図を組み立てたが、これに関しては数を用意する必要は無かった。
指揮官や隊長用があれば良いので、五個ほど用意して終わる。
命名は『モノポール』でまとまった。
そして数日後。再び事態が動いた。
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大洞窟は常に慌しく人が動き回っている。集まる人々に共通点は無く、誰に命令された訳でもないのに無分別には見えず、何処か規則正しい。
子供達ですら異変を感じ取り、出歩きが許されるタイミングを見計らい。
結果、まるで引き潮と満ち潮の繰り返しの様な人の流れが生まれていた。
マリオンに出来る事は元より誰かの補佐で、優れた知識も行動力も無い。本来は人前を出歩く方が稀な立場だ。
護衛を連れ歩くのが必須な分、他と人手が兼用出来る場所にいた方が良い。
なので出向く場所と言えば、近くの診察所と病院だけだ。
工房に関しては、合議の宮殿にある微調整用の工房や長老達の自宅を訪れれば事足りる上に、今は新しい事を進める余裕も無い。
先日までいた工房からは一旦避難し、用が済むまでと最初の宿に戻っている。
今マリオンが担当しているのは以前書いた設計図の増産と、念の為の包帯の追加。包帯に関しては治癒、浄化効果付きの物を既に相当数追加済みだ。
怪我人も備えが間に合っている分予想より少なく、まだ十分な余裕がある。
一応怪我人の経過観察を手伝うという名目で怪我人達の見舞いに赴いているが、これは負傷したドワーフ達を宥める為だ。
今の熱気に呑まれて最前線に加わりたいドワーフ達を落ち着かせるのに、精霊姫以上の存在は居ない。
病院から脱出を画策し時には憤怒の表情を浮かべ暴れるドワーフ達が、マリオンのお見舞い後にはとても幸せそうな顔で寝入るのだ。
鎮静剤が貴重な情勢下、色々な意味で巡回は必須だった。
当然ではあるが、もっとも外周に近い病院の巡回を終えた後はやっと終わったと少しだけ気が緩む。
だが次の目的に向かう頃には再び気を引き締める護衛達なので、彼らが怠慢というよりは緊張感の限界というしかない。
だから時に。異変に真っ先に気付くのが護衛達ではなく、軽い気持ちで天井を見上げたマリオンだったのも、ある種の必然だ。
「あれは……何かしら?」
ひび割れや落石には敏感なドワーフだったが、暗がりでも見えるからといって視力に優れている訳では無い。何より、見えたのはヒビではなかった。
『拙い!離れろ!』
黒い影が滲み出た瘴気だと気付くと同時、事態を認識したヴェールヌイが警告の声を発する。
しかし他の誰にも見えなかったが故に、護衛達の反応は少し遅れる。
理解出来ぬまでも指示の通り動こうと、視線が合意に達した矢先に。
天井がヒビ割れて爆発同然に砕かれ、眼下の一同に降り注ぐ。
「あ、危ない!」
結果だけ見れば、咄嗟に盾を掲げてしまったのは失敗だった。
護衛としては合格だろう。石礫とて五階十階の高さから降り注げば頭を割る。
だが我武者羅に距離を取れば可能だった逃走経路は、標的に気付いた巨大な塊が地上へ狙い澄まして落下した所為で塞がれた。
危うく護衛の何人かが踏み潰されるところだったが、落下直前に帯の様に広がる尾羽根を振るい、ヴェールヌイが先んじて薙ぎ飛ばしたお陰で難を逃れ。
――結果、致命的に逃走機会が失われた。
弾かれた護衛達が結果的に分断されたのも更に痛い。無論、見捨てれば彼らの命は確実に失われていた筈だが、無傷で済むほどに余裕が有った訳でもない。
何人かが壁に背中を打ち付け、状況を理解して青褪める。
マリオン回りの護衛達は半数以下。数歩分尾羽根に引き寄せられて、武器を構え直した間合いは槍が届くかどうかの至近距離。
――そう、まさに至近距離。
『……見ツケタ。精霊ノ塊ダ。』
巨大な八つ足の蜘蛛、では無い。六つ足の、しかし巨大な牛の顔。
半牛半鬼。胴は背中を蜘蛛の様に丸め、背中に隠れて腹は見えず、背骨は柱の様に重厚に弧を描く。結果頭は地を擦る様で。
長い二本の曲がり角は視線の真横に並ぶまで伸びて突き出す。太く鋭い人の腕程に重厚な凶器が人の視線と同じ高さで睨み付ける。
兜の様な背に、鍔のような頭を支えるには二対では足らず。両脇に一本爪を蹄か腕の様に伸ばした三対の両脚が地面に突き刺さり、平屋にも勝る巨躯を支える。
「…………これは、牛鬼……?」
口から吐き出す瘴気は触れるだけで毒に等しく肌を焼き、その異様は正に伝承に伝わる人食いの怪物、牛鬼そのものだった。
声無き咆哮が耳朶を震わせ、勝利宣言の様に轟く。
恐怖に身が竦んだ瞬間、町の住民達の悲鳴が耳を掠めてはっと我に返る。
「皆の避難時間を稼ぎます!
総員、防戦を意識して構えて下さい!」
腹の底から張り上げた澄み声が、パニックを起こしかけた皆の心に響く。
「「「お、おぅッ!!!」」」
護衛やドワーフの戦士達が我に返って喊声を上げる。
「親御衆は子らを連れて避難所へ向かえ!」
「鐘を鳴らせ!警鐘を叩け!」
「「迎え撃つぞ衛視共!!」」
「「「ぉおおッ!!!!!」」」
きしゃあああ!!!!と金切り声に怒気を載せ、牛鬼の形をした怪物が勝利宣言に水を差されて怒りのままに突進する。
進行方向にはマリオンが居たが、逃げる程の敏捷さも防ぐほどの堅さも無い。
恐怖に竦む前に一斉に槍が並び斧と盾が集い、角より先に鋼が刺さる。
血飛沫が飛び散り浴びた者の肌を焦がすが、突進が盾に衝突し漸く止まる。
痛みに顔を歪ませても忌々しげに首を捻れるのは、硬質の筋肉の前に深々と突き刺さる穂先が無かったからで。
怪物にとっては首を振り回すだけの仕草が、大きな双角によって人を空に飛ばす凶器に変える。
「お願い!」
『ああ!』
マリオンのすべき事は、動じず優秀な足場でいる事だ。
ヴェールヌイが羽ばたきで旋風を起こしながら、翻って伸びる尾羽根が刃の様に振り下ろされる。
唐竹に引き裂く三本筋を、突風に踏み留まった脚を跳ね飛ばす様に開いて真後ろに飛び退いて。
間合い広めに距離を取った牛鬼に、本能で動く獣とは違う気配を感じ取る。
疑問に答えが得られる前に再び牛鬼が突撃して、直前で跳ね上がって近くの民家を踏み台に側面から全ての鉤爪を叩きつける。
脇に尾羽が回された瞬間、羽ばたきと共に急上昇。
跳ね上がる双角が空に浮かんだ体を狙い刺すが、掠めた一撃は咄嗟に構えたミスリル製の小盾によって弾かれる。
ほんの爪先。突き飛ばされたとも言えない僅かな当たり。
けれどマリオンの腕に伝わる衝撃からは、明確な死の恐怖として体に響く。
「おおぉっ!!」
振り被られた斧が、小さくとも腹の隙間を断つ。
只の武器は掠り傷もやっとだが、関節や薄皮を抉る程度は叶う。
僅かな隙を逃さず護衛達が、ドワーフ達が奮戦し、痛みに怒れる牛鬼が迫る障害に牙を剥く。
だが熊よりも大きな体当たりはそれだけで脅威だ。
地を這う様な突進は瞬く間に守りの陣形を散らし、しかし手傷と引き換えに一人のドワーフが深手の一撃を背中に見舞う。
だがそれでも牛鬼には些細な傷だ。羽虫はうっとおしいが、それ以上に獲物の逃げ足が速い。目を離せば羽の様に離れていく。
『厄介な奴だ。』
ヴェールヌイは安全を顧みて、距離を取る策を幾度か試みた。
しかしいずれも動物的勘と移動速度により詰め寄られ、被害を減らすという母の願いを前に、付かず離れずの距離を保つしか出来なかった。
虚弱なマリオンは必死に踏み止まり、力を抜いてヴェールヌイに合わせている。
だが暴力の中で脱力する恐怖は、事が迫る度にマリオンの心を蝕み、幾度と無く息を止める。
砕かれる石畳から跳ねる礫が当たる。風圧が体を振り回す。己の意思に沿わぬ急加減速に突き動かされ、紙一重で死の猛威が迫り、過ぎ去っていく。
汗が滲み、呼吸は荒く、もうまともに声も出ない。
血の気は引いて蒼白な顔色は、誰かに指摘されなくてもマリオン自身が誰よりも一番深く自覚していた。
死に晒されているのは自分だけでは無い。既に周りの者達は幾人かが大怪我に倒れ戦線を離脱し、幾人かは近場から駆け付け怪我を堪えて武器を振るっている。
こんな有り様で囮になるなどよくぞ言えたものだ。ただ守って貰うだけですら此処まで気力を擦り減らす、矮小で無力な小娘が。
魔力糸の投網が一瞬の判断を遅らせ、ドワーフの戦士が死を免れる。
慌てて網を手放した瞬間、両腕を爪が掠める。危うく盾が弾き飛ばされるところだった。
しかし腕に毒が混じったと気付いた時、咄嗟に腕を縛ったが為に反応が遅れる。
『させぬ!』
もつれた足に、飛び退く余裕を失って七色の翼が衝撃を受け止める。
一撃を止めたヴェールヌイの上に、遂に牛鬼が二足三足と圧し掛かる。
上から加わる圧力から逃れるためには、マリオンが走れずに潜り抜けられる隙は無い。震える足に苛まれている場合ではない。
(動いて……!お願い、私を立たせて!)
徐々に頭上を埋めにかかる瘴気が、死を望む巨体が。
絶え間無く蝕み続けたマリオンの足は既に疲労の限界を迎えて。心を削り続けた死の影は、マリオンに腰が抜ける程の重圧を与えていた。
震える手で打開策を模索し、魔力糸で治癒の布を足に搦めて、無理矢理に引っ張り上げて体を起こす。
背中や足に叩き付けられる攻撃を煩わし気に振り払い。硬く唇を噛み締めて立ち上がったマリオンをあざ笑って更なる圧力を加える牛鬼。
「突撃ッ!!」
一斉に走り出した騎士達が次々と牛鬼の背に刃を叩き付けた。
耳に届いた声は間違いなく聞き慣れた青年のもの。
キィシャァァアアアアアアアア!!!!
と怒りの叫びを上げて体を起こした牛鬼に我に返ったマリオンは、咄嗟に糸を伸ばして後ろに飛び退こうとした、怪物の足二本を縛る。
「ヴェールヌイ!!」
『承知ッ!!』
気付くと同時に声が出た。
即座に尾羽根が牛鬼の脚を縛り、引き合っている間に他の脚同士を次々と絹糸で縛り上げる。縛り上げる場所は脚の付け根近く。
糸を切ろうと曲げた脚を、関節を固定する積もりで更に巻き上げる。
「槍隊は上から突き立てろ!斧隊は背中狙いだ!
地面に押しつけて動きを止めるぞ!」
脚を満足に動かせぬままの抵抗は不利と見たか、体を横に転がせて刃物から逃れる様は牛というより蜘蛛に近い。
幾重にも糸が絡まった所為で一部糸が力任せに千切られる。
「投擲隊、放て!!」
だが反面、絡まった糸の一部が背中にも回って動きが止まり、更に別の脚を縛り上げると、狙い澄ました投槍が一斉に振り撒かれて小さくも確実な出血を促す。
マリエルは咄嗟に更に槍と糸を巻き付けて動きを阻害する。
ギギギギギギギギッッッ!!!!
と歯軋りの様な声を上げ、首を振り回すが殆ど無意味。
反り返った背中を無理矢理仰け反らせて抵抗する隙を作るが、その不自然な姿勢を逃さずにヴェールヌイと金属糸で足を固定すれば。
まともに動かせない足が更に増える。
「足を切り落とせ!槍隊は投槍を回収!」
こうなれば次は角だ。槍と糸を搦めて角先が直撃しない様囲えばいい。
足の大半が遂に切り落とされ、回収された足が砕かれて焼かれる。瘴気が浄化されて、辺りの空気が和らぎ始める。
気が付けば一部兵士が周りや天井の様子を見張っているのが見えた。
胴に次々とドワーフ戦士達を中心に飛び乗り、刺さった槍を支えに馬乗りに斧を叩き付け始める。
これで何とかなったかと震える身体に深い息を吐いて、少しでもと緊張を解す。
爛々と燃える瞳と目が合ったのはその時だ。
首が砕ける音共に、首の骨が跳ね上がり黒い鮮血が跳ね上がる。
角の根、頭蓋骨が割れて角の先が顔を出した瞬間。
牛頭が体を引き千切って牙を剥き出しに、弾ける様にマリオンへ飛び出した。
「させるか!」
咄嗟に尾羽根で囲ったヴェールヌイより先に。
光り輝くジグラードの銀剣が瞳を貫き、絶叫を上げる牛鬼の突進を止めた。
『逃がすか!』
尾羽根が開き、迫るより先に頭蓋骨が裂け、中央から鮮血と共に塊が飛び出す。
咄嗟にマリオンが浄化布で頭と首を覆い塞ぐが、人の頭ほどの塊は空を飛ぶ様に落ちて来た天井穴へと消え去った。
ジグラードが残骸から剣を抜き出し、天井を見上げて舌打ちする。溜息を吐いて気持ちを切り替えると、高らかに剣を掲げて声を張り上げた。
「敵の怪物を退けたぞ!この戦い、我々の勝利だっ!!!」
おおと勝鬨の声が唱和し、ジグラードのミスリル剣に並び立つ様に一斉に武器が掲げ上げられた。
その中には怪物に深手を与えた幾つものミスリル武器が並んでいる。
銀光が煌めき、遠目に怯えていた民衆達の目を覚まさせた。
弾ける様な歓声。そして喜びの声。
地響きの様な大歓声となる中で、ジグラードは残る遺骸を確実に破壊し浄化する様に一同に指示しながら、剣の血を拭ってマリオンの前に立つ。
「よく頑張ったな。」
伸ばされた手を掴むと遂に緊張の糸が切れ、抱き上げられた拍子に思わずその胸に顔を埋めて泣いて縋りついた。
どれくらい泣き続けたかは分からないが、優しく頭を撫でられ続ける内に漸く落ち着きを取り戻せたと思ったが。
今度は羞恥心で顔をあげる事が出来なくなった。
※次回、文章量の都合により9/1日の金曜投稿をします。




