新しいクラス
4月6日、校門の桜はすっかり花が散り、しかしまだ若葉も芽吹かない枝だけになっていた。
きれいな子だったな。
豊満な薄桜の下の長い黒髪の少女。
瑠璃はいまでもその木の下に少女を思い描くことができた。
歩みを進めていくと、その木の横で大きく手を振っている少女が目に入った。
彩だ。見慣れた制服の見慣れない深碧のリボンに、瑠璃は安堵と高揚と少しの不安を感じていた。
並んで昇降口に向かいながら彩と言葉を交わす。
「クラス替えどうなったかな」
彩は瑠璃と違ってクラス替えに憂慮はないようだった。ポジティブで明るくて、たいていの人とは仲良くなれる彩だ。瑠璃と一緒だったらいいと思ってくれているだろうけれど、たぶん瑠璃と一緒じゃなくてもいいのだ。むしろ新しい出会いに心躍らせているかもしれない。
「どうかなあ。わたしはやばい人と一緒じゃなきゃいいかな」
瑠璃もたいして変わらない。彩と一緒がいいけれど、彩と一緒じゃなかったら、それはそれで仕方がない。でも、ひとりはだめだ。スクールカーストのなかでどのグループにも所属できないやつは獣の餌食になって食い散らかされる。瑠璃は顔の広い彩とは対照的に知り合いはほとんどいなから、せめて獲物を探している飢えた獣はいないでほしい。
昇降口の扉横のガラスには一組から五組までのクラス名簿が張られていた。人だかりができていて、確認を終えた前のほうから隣に流れスライド式の扉をくぐっていく。瑠璃たちもその人波に加わった。
一組の名簿から順に名前を探していく。彩の名前はすぐにみつかった。一組の前半に名前がある。
「瑠璃は五組かー。結構離れちゃったね。でも新しいクラス楽しみ!」
彩は眉を下げたすぐ後に、くるっと目を輝かせる。鼻息の荒くなった様子がすごく彩らしい。
彩とはもうお昼を食べることもないのかもしれない。
「気合入れすぎて空回りしないようにね」
瑠璃はこれから起こるだろう寂しい予感を隠して彩に呆れた顔を向けた。
教室にはすでにほとんどのクラスメイトが来ているようだった。席に座って本を読んでいたり、せわしなくスマホをいじっていたり、さっそく前後左右と盛り上がっているところもある。見知った顔もちらほらあって瑠璃は安堵の息をついた。見たところあからさまに問題のありそうな生徒はいない。
黒板には座席表が張られている。向かって右、窓側から出席番号順の座席のようだ。
窓側、後ろから二番目。瑠璃は自分の席に向かおうと体の向きを変えた。
その瞬間、心臓が止まった気がした。
窓側から二列目の後ろから三番目、瑠璃の右斜め前になる席に、少女が座っていた。教室に入ったときは気づかなかったが、間違いなく、あの日、桜の木の下にいた少女だ。
瑠璃は胸が高鳴るのを感じた。
瑠璃はじっとりと汗の滲む手のひらをぎゅっと握りながらなんでもない風を装って自分の席に向かう。椅子に座って鞄を机の脇に掛けながらそっと少女を盗み見た。
美しい少女はしかし、そこにいることが自然のように周りに溶け込んでいた。あのときの存在感はすっかり鳴りを潜めていて、だれも少女のことなど気にも留めていない。
やっぱり覚えていないのかな。
瑠璃は、少女も瑠璃のことを覚えているのではないかと期待していた。けれど、瑠璃がすぐそばを通ったときも、いまこうやってすぐそばで窺い見ているときも瑠璃に視線を寄こすことはない。
少しがっかりしたけれど、でも、高揚した気持ちは収まらなかった。
瑠璃は、あの日、少女が瑠璃に向けた笑顔を気のせいだと思いたくなくなっていた。
しばらくして、三十代くらいの体格のいい男が教室に入ってきた。男は高橋と名乗り、この五組の担任で国語の教科担当だと述べた。出席を取ったらすぐ始業式のために体育館に行くと説明をする。
出席。
瑠璃はここで初めて少女の名前を知らないことに気がついた。
なんていう名前なのだろう。見た目のようにきれいな名前なのだろうか。
「大野瑠璃」
「は、はい!」
少女の名前に気を取られてあやうく返事をしそこねそうになった。恥ずかしさにカッと頬に熱が集まる。いくつかの視線を感じて瑠璃は顔をうつむけた。
「冴木硝子」
「はい」
少女の席から澄んだ声が流れ出た。はっとして顔を上げる。
少女はまっすぐ前を向いたまま口を閉じるところだった。続いて少女の後ろ、瑠璃の隣から返事が聞こえる。
冴木硝子。さえきしょうこ。しょうこ。
彼女にぴったりの名前だ。
クラスメイトが名前を呼ばれている間も、体育館に向かう間も、校長がつまらない話をしている間も、瑠璃は何度も硝子の名前を心の中で反芻していた。