始まりの月の巫女と王③
アレクサンドロスの人生において、この時が一番楽しくて幸せな時間だった。
玉座で1人座っている時、ふと思い出すのはこの時の思い出ばかりだった。
「言っておきますが、陛下には王妃様という方がいらっしゃいます。愛し合っている夫婦なんですから、貴女なんか相手にしてもらえませんよ」
毒が大分抜けて、ようやく起き上がれるようになった頃、ディオンにそう言われてエレノアは意味が分からず首を傾げた。
「アレク様から伺った話だと、王妃様とは冷えきった政略結婚の仲だとのことでしたが、本人から見たものと周囲の人間から見たものでは、関係性というものは全く違って見えるものなのでしょうか?」
「な!!」
本日の薬を持ってきたエレノアに向けて言った言葉が直球で返ってきた。普通の者なら王と王妃という関係を考えるとこんな疑問を返さない。曖昧に笑ってごまかすくらいしかしないはずだ。なのにエレノアは真っ直ぐに疑問を返してきた。
ここで「そうだ」とも「違う」とも言えない。「そうだ」と言えば周囲の者たちが王と王妃の本当の仲を見誤っていたことになるし、「違う」と言えば側近である彼が王の心を全く理解していないことになる。
「わたくしは王妃様とやらにお会いしたことがないので、今はとりあえずアレク様の言うことをそうなのか、と思っている程度です。アレク様がご自分たち夫婦のことを言うのは分かりますが、なぜ貴方がわたくしにアレク様たち夫婦のことを言うのでしょうか?もしやこれが、世に言う嫉妬、というものですか?」
月の神殿に勤める神官たちは基本的にエレノアには、感動など綺麗な感情を見せようとする。意味は理解していなくても嫉妬や悪意など嫌な感情があることだって知識として知っているエレノアには、ディオンがぶつけてくる感情はなかなか新鮮だった。
「と、とにかく!陛下に近づかないで下さい!!」
「そもそもわたくしはこの神殿から基本的には出かけません。勝手に来るのはアレク様の方です。この場合はどういう対処法がよろしいのですか?」
「会わなければいいでしょう!!」
「なぜわたくしが避けねばならないのですか?アレク様に来ないように言えばよろしいのでは?」
アレクサンドロスが来なければ別に会う必要もないのでそちらに言った方が早いのでは?そう思ったのだが、ディオンはすごい顔をして無言になった。
「……アレク様に言えないのでわたくしに言う……それはもしやアレク様が自分より強い方だから言えないということでしょうか?となると逆に考えるとわたくしが弱者ということですわね。……そうですか、これが弱い者いじめというやつですね」
「ち、ちが…!!忠告はしましたからね!!」
そう言って毛布を被りエレノアのいる方向とは別の方向を向いたディオンの言葉をどういう風に捉えればいいのかと疑問に思う。
……人の心は複雑だ。同じ言葉でも善意を持って言うか悪意を持って言うのかで意味が大分違ってくる。
「まだまだ勉強不足です。こういった時にどういう感情の顔をすればいいのかわかりません」
本気で理解不能という顔をするエレノアとは対照的に、毛布の中でディオンは複雑な顔をしていた。
ディオンを蝕んでいた毒が完全に抜けきり、身体の方も回復して少しずつ神殿内を歩けるようになって来た頃、アレクサンドロスがたくさんの手土産と共に神殿を訪れた。
「やあ、エレノア。順調に感情の勉強は出来ているかい?」
「残念ながらわたくしには難しいことばかりな気が致します。こうなったらわたくしは諦めて、妹たちに託した方が良いのかと思案中です」
「そんなことはないと思うけど。だってエレノア、初めて会った頃より、表情が豊かになってきているよ」
「…そうでしょうか…??」
毎日鏡は見ているが、あまり変わっていないように思える。だが、アレクサンドロスは以前とは違うと言ってくれる。
「そうだよ。お前もそう思うだろう?ディオン」
「…俺ではわかりませんが、アレク様がそうおっしゃるのでしたらそうかと」
アレクサンドロスが持ってきた人気のお菓子をつまみながらお茶を飲んでいる最中なのだが、いつもディオンはアレクサンドロスがいるのといないのとでは、エレノアに対する態度が違い過ぎる。
「…ディオン様はやはりわたくしに嫉妬をなさっているのでしょうか?アレク様がわたくしに構うのが原因なのだとしたら……わかりました、ディオン様はアレク様のことを愛しておいでなのですね!」
急にぶつぶつ言い出したと思ったらとんでもない結論が出てきたので、アレクサンドロスもディオンも思わずお茶を吹き出しそうになり、思いっきりむせた。
「ご、ごほ!エレノア、何がどうなってそういう結論になるんだ??」
「失礼なことを言わないで下さい!!せめて敬愛と言って下さい!」
両者両様の言葉にエレノアは、違ったのかな?敬愛って、愛って付く以上、やっぱり愛してるで間違いないのでは?と考えていたのがバレたのか、この後、アレクサンドロスとディオンからたっぷり言葉遣いや言葉の意味について語られたのだった。
目の前で頭を下げているディオンの頬はすでに腫れている。殴ったのはもちろん自分だ。ベッドの上で上半身を起こしたエレノアが静かな声でアレクサンドロスを止めた。
「…もうお止め下さい、アレク様。ディオン様とて好きでわたくしを襲ったわけではないでしょう」
「だが!エレノア、現に貴女はこうして襲われたんだ!」
5日ほど前、いつも通りエレノアが薬を届けにディオンのいる部屋に入ったところ、様子のおかしかったディオンに襲われたのだ。周囲が異変に気付いた時にはすでにエレノアはディオンに抱かれた後だった。
呆然としているディオンから神官が急いでエレノアを保護して、すぐにアレクサンドロスに連絡が行った。馬を飛ばして来てみれば信頼していた側近が自分の愛する女性を襲ったという信じがたい事態にアレクサンドロスは無言でディオンを殴りつけた。
「アレク様、あの時、ディオン様から独特の匂いがいたしました。あれは、人の理性を取り払う薬でしょう。ディオン様、あの薬はどこで入手なさったのですか??」
襲われた張本人であるエレノアは至って冷静だった。こんな時でさえ、どういう感情を出してよいのか分からない。
「……申し訳ございません。ですが、こうしなければ妹が…」
「お前の妹は王妃に仕えているんだったな。妹の命を盾にでもとられたか。薬の出所もそこか。大方アイツが趣味で使っているものだろう」
王妃は、たとえ名ばかりの夫婦だろうが、アレクサンドロスに特別な人間が現れたことにひどく怒っていた。王妃の嫉妬や怒りが全てエレノアに向かい、今一番身近にいるディオンに襲わせるという計画を立てたのだろう。
「…俺のせいだ。俺がアレの始末をきちんと付けないで放置した結果がエレノアを傷つけてしまったんだ」
しょせん仮面夫婦だと思い、あちらはあちらで好きなように男たちを侍らせていたので放置していたのだが、王妃は自分を愛してくれないアレクサンドロスに自分以外に愛する女性が現れたことが許せなかったようで部屋中の物を壊し怒鳴り散らしていたとの報告が来ていた。だが、何も出来ないと思い放置した結果は最悪な形で現れてしまった。
「すまない、エレノア」
「…こうなってしまったことは仕方がありません。ですが…予想外の事態が発生いたしました」
「予想外の事態…?」
「はい」
そう言うと、エレノアは自分のお腹にそっと手を当てた。
「ここに、わたくしのお腹に本来、宿るはずのなかった命が宿りました」
「それは…」
はっとしてアレクサンドロスとディオンはエレノアの方を見た。
「…お母様もきっと想定外の事態ですね。わたくしが人と交わりこのお腹に器が生まれる。本来、神の娘であるわたくしに人の子が宿ったとて、種族の違いが大きすぎて魂が宿ることなく朽ちてしまう存在です。ですが、今、人の輪廻の輪の中にわたくしの妹たちの魂があり、母としての本能がわたくしの魂に最も近しい妹の魂を器の中に呼び込みました。その結果、本来、別の時代、別の場所に生まれるはずだった妹たちの魂を無理矢理わたくしの血につなぎ止めてしまったようです。わたくしのお腹の中にいる子供は娘であるのと同時に妹でもある存在なのです。わたくしはこの子を産みます。産みますが…これから先、妹たちの魂はわたくしの血に囚われ、最後の1人である末の妹までわたくしとディオン様との間に生まれた子供の血脈に生まれてくるしかなくなりました」
元々が同じ母なる月の女神の涙から生まれた存在だ。人としての肉体を得るのに同じ生まれの存在が残した血筋ほど相性の良いものはない。そして最初の娘であるエレノアの血は妹たちに与える影響が大きすぎた。
「わたくしの産む妹の魂を持つ娘はその次の代の子供を残すでしょう。ですがそこからしばらくは、妹の魂は降りません。少しずつ時を空けて妹たちは生まれ、ゆっくりと魂と血の中に入り込んだ不純物を浄化し、そして最後の妹は再び純粋なる月の女神の娘として生まれてくるでしょう。子を産み、一度拡散されたわたくしの血が浄化された末に集まり、最後の妹はディオン様の子孫でありながらディオン様の血を一切引かない真なる月の巫女として生まれてきます」
母である女神がうっかり他の世界に落としてしまった末の妹。まさかそれがこんな風に意味を持つとは思わなかった。一度他の世界に行ったことでこちらとの繋がりが途切れたのだ。こちらに戻ってきたことで再び繋ぎ直されたが、その繋がりは他の妹たちに比べるととても脆い。他の妹たちは姉である自分の影響を大きく受けてしまうが、末の妹はそれほどではない。あの子だけは自分たちからの影響を受けることもなく、地上の者と月の女神の娘との間に結ばれてしまった鎖を断ち切ることができる。
「…妹たちにはとても苦労をかけてしまうと思います。お母様が望んだ人の世で感情を学ぶということが出来るかどうか…。ディオン様、どうかわたくしや妹たちのことは秘密にして下さいませ。月の女神の血を人の欲望の犠牲にすることは出来ません。月の女神の血はあるかどうかも分からない曖昧のままにしておいていただきたいのです」
不可抗力とは言え地上に繋がれた月の女神の血を人の身勝手に利用されるわけにはいかない。そんな事になれば母女神がさらに泣いてしまう。これから生まれてくる妹たちの能力はディオン様の血脈に生まれる突然変異的なもの。一族に時折生まれるが、それがいつどこで誰にどういう能力が宿るのかは不明、そうしておけば血だけを狙われることも少ないはずだ。
「分かりました。誓います。けっして誰にもこの事実は伝えない、と」
ディオンの言葉にエレノアは満足そうに頷いた。
「エレノア、貴女はどうなるのだ?」
「……残念ながら、わたくしにはこの子を産んだ後、それほど時は残されないでしょう。仕方ありませんが……」
その時、エレノアの瞳から涙がこぼれた。
「…え…?涙…なぜ……??あぁ、そうですね、わたくしは寂しいのですね。アレク様にこうしてお会いすることが出来るのはそれほど多くありません。それが悲しくて…わたくし、こんな事態になって初めて寂しいや悲しいという感情を知りましたわ」
「エレノア…」
恐る恐る手を伸ばし、アレクサンドロスはそっとエレノアを抱きしめた。お互い、これが今生における最初で最後の触れ合いなのだと心のどこかで理解していた。
「エレノア、最後の妹が鎖を断ち切ることが出来るんだろう?ならば、それまでの間、俺の子孫たちが貴女の妹君たちを守ろう。どれほど迷惑がられて嫌がられようとも、たとえどんな手を使ってでも守ると太陽神様に誓おう。出来れば最後の妹君に会う子孫は、その子と愛し愛される関係になれるといいな」
「…身勝手なご先祖様ですわね。妹たちが嫌がるかもしれませんから、ほどほどでお願いしますわ」
エレノアは注意をきちんとしたのだがあまり意味はなかった。そして、アレクサンドロスの子孫たちは間違いなく月の巫女、その名を『ウィンダリアの雪月花』と変えた女性たちを執着にも似た想いで愛した。ただしアレクサンドロスの願いとは逆に守るどころか無理矢理手にいれようとした者もいれば恋い焦がれたまま一生を終える者もいた。アレクサンドロスの願い、というか一種の呪いを受けた王家の男子は、『ウィンダリアの雪月花』たちがどれほど短命でもその短い一生を愛した。そしてそれは最後の『ウィンダリアの雪月花』へと繋がって行く物語だった。
初めはもう少しドロっとした感じで書いたのですが、雰囲気が合わないかな、と思ったのでさらっとした感じにしました。