始まりの月の巫女と王②
苦しみから解放されてゆっくり目を開けると、そこには友人であり彼の主である青年がほっとした顔を彼に向けていた。
「……ア、レク」
たった3文字を呟いただけでごふっと言う咳が出た。口の中がからからでうまくしゃべれない。
「ゆっくり水を飲むんだ。焦らなくていい。もう毒は抜けていて大丈夫だそうだから後は身体を治してくれ。お前のおかげで俺は無事だったよ。ありがとう」
「………よ、よかった」
アレクサンドロスが無事でよかった。彼の大切な主。アレクサンドロスの邪魔になることは全て自分が引き受ける。ほっとした思いと共に再びディオンは眠りについた。
「…無事も何も貴方様も死にかけましたが」
「お願いだからそれは言わないでくれ、エレノア」
アレクサンドロスと共にディオンの様子を見に来ていたエレノアの言葉がぐさぐさと心に突き刺さる。毒矢を受けたディオンを救いたくてこの場所に来たことに後悔はしていないが、雪山に突入して死にかけたことをディオンが知ったら落ち込んでしまうので内緒にして欲しい。
「結果的にはお二方ともご無事でしたから良かったものの、もうこんな無茶はお止め下さいね」
「了解した。エレノア、貴女の為にももう無茶はしない」
「そこは奥様と子供の為、と言って欲しかったですわ」
「政略結婚だからなぁ。彼女は王妃と次の王の母という地位が欲しかった人だから、俺の心なんてどうでもいいと思うけど。それに最初の子供は俺の子だけど、後は違うからなぁ」
「よく分からないのですが、人の夫婦とは最初の子供以外は自由に誰かとの間に子供を作っても良いものなのですか?」
「もちろん基本的にはダメだよ。でも彼女はソレを平気で出来る人だし、俺もソレを容認しちゃってるからな。相手は俺の弟とかだし、一応、第二子以降で王家の血を引いてる者は把握してあるよ」
王宮にいる王妃はプライドが高く、自己中心的で権力だけは欲しがる典型的な貴族の娘と言った感じの女性だった。もっともアレクサンドロスが欲しかったのは彼女の実家の力だけだったので、お互い冷め切った政略結婚というやつだった。王妃は最初、自分が王宮の全てを自由に操れると思っていたようだったが、アレクサンドロスが自分の思い通りにならないと知ると当てつけのようにアレクサンドロスに近い男たちを次々とその手に落としていった。
おかげで何人の側近をクビにしたことか…。ちょっと簡単に落ちすぎじゃないだろうか。
さすがに第一王子だけはアレクサンドロスの子供だが、それ以降、一度も閨を共にしたことが無いのに不思議と子供の数だけは増えていっている。弟や元側近の男たちがアレクサンドロスをすごい目で睨んでくるので誰の子供かはすぐに分かる。
だが、アレクサンドロスは王妃と子供に関しては、笑って放置した。ただし、不安定な王家の権力を一点に集中するという名目でまだ幼い第一王子を王太子にし、他の子供達から王位継承権を全て取り上げてある。さらに、不慮の事故だろうが何だろうがもし王太子が亡くなった場合は他の子供たちも全て神に帰す、という宣言をしたおかげで王妃から取り上げた王太子は今のところは命を失うこともなく順調に育っている。
「お会いしたことがないので何とも言えませんが、複雑な女心というものも少しは勉強なさったらいかがですか?」
「エレノアが教えてくれる?」
「お断りです。地上の男に興味はありませんから」
断り方が「地上の男に興味がない」と言うのは初めて聞いた言葉だ。それも仕方ない、なんと言ってもエレノアは月の女神の娘だ。だからだろうか、こっちは言葉を交わす度にどんどんエレノアに興味が湧いてくる。
「俺はエレノアに興味津々だけど」
「そんな興味は捨てて下さい。何度でも言いますが、地上の男に興味はありませんし、妻帯者は面倒くさいそうなのでもっと興味がありません。お母様もそうおっしゃっていましたわ」
…太陽神様、月の女神様に振られた理由は妻帯者だから、みたいですよ。
心の中でアレクサンドロスは自分に縁のある太陽神にそう報告した。太陽神と言えば一夫多妻であちこちに奥様がいることで有名だ。神話ではそんな太陽神に月の女神は絶対零度の対応をしていると言われているが、理由の1つがどうやら妻帯者だから、らしい。
あれ?俺、太陽神と同じだと思われてる?
「エレノア、違うから、俺けっこう一途だよ」
「…一途って何でしょう?今のところ貴方様も奥様も不誠実の塊にしか見えませんが…もしかしてお母様はこういう事も学んだ方が良いとお考えなのでしょうか?良く考えたらわたくしも複雑な女心とやらがちっとも分かりませんし。分からないわたくしがそれを言うのは失礼でしたわ。わたくしも学習途中ですので、よろしければご一緒に複雑な女心というものを学んでみませんか?」
ぶつぶつと独り言を言った後に謎の提案をされた。
「えーっとエレノア。自分で言い出しておいて、女心を一緒に学ぶとかどういうこと?そもそも君ってなんでここにいるの?」
月の女神の娘、というからには本来は神族のはずのエレノアがなぜ地上にいるのか、今更ながらに疑問が湧いた。彼女が月の女神の娘であることは、自分の中を流れる太陽神の巫女だった母の血が直感で間違いないと伝えてくるので疑う気はない。この直感のおかげで何度も命拾いをしてきたので疑う余地はない。
そうなるとなぜ月の女神の娘が地上で人の身に宿って巫女などをやっているのか意味が分からない。
「話せば長くなりますが…ざっくり言いますと、お母様から地上で感情というものを学んで来い、ついでに地上にあるお母様の大切な花が咲く山に穢れが生じているので浄化をよろしくねと言われましたので」
「長いお話をお聞かせ下さい」
ざっくりすぎてますます意味が分からないので、長いお話とやらをぜひお伺いしたい。
「わたくしたち姉妹はお母様が……何もかもが嫌になって鍵をかけた部屋に引きこもって、部屋の片隅でいじけて泣いていた時にその涙から生まれた娘たちです」
「月の女神様ってそんな方なの!?」
「何でもあまりにも多くの仕事や太陽神様を筆頭とした神様方の自己中な発言と行動の後始末に翻弄されて精神的にごりごり削られたのでうっかり闇落ちしかけて感情を爆発させて神界を少々破壊……半壊くらいして引きこもったそうです」
泣いてる母の部屋の扉を神々がものすごい勢いで叩いて大声で謝りまくっていたそうだが、全ての音を遮断して引きこもっていた月の女神には届いていなかった。そんな中で流れた涙に宿っていた神力が集まり真珠の結晶と化した。それに魂が宿ったことでエレノアたち姉妹が生まれたのだ。ただ、魂が宿って意識が生まれたはいいが、その時の母である月の女神の心境が「私なんて要らない子なのよね。こんなに翻弄されるのなら感情なんて必要ない!全て無の表情でやってやる!!」という感じだったので、当然、生まれた魂に意識はあれど感情を理解し外部に発する機能など備わっていなかった。
「わたくしたちが笑ったりするのは、周りがどういう時に笑うのか、ということを学んでマネをしているだけにすぎません。本当の意味で感情というものが良く分かっていないのです」
真珠たちが幼い女児の姿を取りいじけていた母の世話をしていたのだが、さすがに子供たちがあまりに無表情すぎることにようやく気が付いた月の女神は、慌てて全員を元の真珠に戻すと反省をした。そして、娘たちに豊かな感情を学んで欲しいと、短い周期で命が終わる感情豊かな生き物である人の輪廻の輪の中に娘たちを入れ込んだのだ。
「ドジっ子属性も併せ持っていたお母様がうっかり末の妹だけ次元の狭間に落としたらしく、長らく行方不明になっていましたが妹はつい先日、他の世界で見つかったそうです。その世界の神様に謝りたおしてもう一度こちらの輪廻の輪の中に組み込んだそうですが…末の妹だけ2回も人の世で生きることになりますので、あの子はわたくしたちとはまた違う存在になるのかも知れません」
何というか…聞いているだけで「本当か!?」と疑ってしまいたくなる内容なのだが、エレノアは至って真面目に言っている。そうか、月の女神様はドジっ子属性も持ってるのか…。
「とはいえ、わたくしたちは神力の塊ですから同時期に地上に発生するのは良くないとのことでしたので、わたくしが最初に降りて、他の妹たちは順次、各地で生まれる予定です。貴方様がしっかりとした王家を確立して下さるのなら、これより先、生まれてくる妹たちの保護をお願いしたいのですが」
「何とも壮大というか…神々も色々あるんだなぁ、と言うべきか、月の巫女っていう神秘的な言葉の内情を知りたくなかったような…だが、月の巫女の保護については王家で請け負おう。妹君たちは放置するには危険すぎる。母君がため込んでから感情を爆発させるタイプの方なら娘の君たちもそうなりそうだし。王家の庇護に入ってもらって被害は最小限に…止められるかなぁ?それはその時の子孫たちに頑張ってもらうか。さしあたって俺の相手は貴女だね。というわけで、俺を相手に豊かな感情のある生活を送ってみませんか?」
「…考えておきます」
「お、さっきはお断りだったけど、今度は考えてくれるんだ。俺、貴女の前では感情を隠さないからね。嫌なところもあるかも知れないけど、一緒に学んでいこう」
握手を求めるアレクサンドロスのその言葉に、そうか、嫌な感情というものもあるのか、それもまた必要な感情なのか、と納得してエレノアは差し出された手をひとまずは軽く握り返したのだった。