次女と温泉宿②
読んでいただいてありがとうございます。
「お待たせしました、ジークさん」
久々の温泉だったのでゆっくり入浴してきたセレスが戻って来た時には、ユーフェミアはすでに部屋に戻った後だった。なので今ここにいるのはジークフリードだけだった。
ユーフェミアがいる間にセレスが戻って来なくて良かった。出来ればセレスには10年前の事とは無関係でいてほしい。あれは生き残った者たちの問題であり、あの当時、まだ学園にも通っていなかったセレスには全く関係の無い話だ。
「ゆっくり温泉に入れた?少しは旅の疲れがとれるといいんだが」
「もちろんです。温泉はいいですよね」
異世界の記憶の中には様々な効能を持つ温泉の知識があったので、こちらの世界でも絶対に入りたいと思っていたのだ。王都の近くにあるとは思っていなかったのだが、温泉も気持ち良かったしそんなに遠くないので次回もぜひ来たい。
「王都からでも歩いて半日くらいですし、馬車も出ているようなので、思いつきで1人で来ても大丈夫な感じの温泉で嬉しいです」
まず有り得ないが、もしディーンと喧嘩して「お姉ちゃん、家出するんだから!」と叫ぶ事態になったらぜひここに来よう。家出も出来るし温泉にも入れるし、一石二鳥の場所だ。「だから、姉様、そんなことは有り得ないですし、そもそも姉様はすでに家出している身ですよ?」というディーンの冷静な返答が聞こえてきそうな気がするが気にしない。
「それは…出来れば1人で来るのは止めてほしいが、どうしてもという場合は必ずこの宿に泊まってくれ」
セレスが仮に王都から半日の場所だろうと1人で旅をして来るのはあまりよろしくないが、どうしても、という場合はせめてこの宿に泊まってほしい。ここならばセレスは安全に過ごせるだろうし、変な男に出会うこともないだろう。
「……えーっと、お心遣いは嬉しいのですが、ここはちょっとお高そうなので…」
今日はジークフリードが宿代を持つと言って譲らなかったのでセレスでも泊まる事が出来たが、さすがに1人で来てこの宿に泊まる勇気は無い。こんないかにも高級そうなお宿に泊まるなんて絶対無理だ。感覚と貯金が追いつかない。
「俺に付けておけばいい。それくらいの融通はしてくれる。だから遠慮することは無いし、何の心配もいらない。むしろ、セレスがここ以外の宿に泊まると思うと俺が心配で仕方がない。仕事を放り出してこっちに来たくなるから、せめてこの宿に泊まってくれ。ダメかな?」
ジークフリードが仕事を放り出してこっちに来たらそれはそれで周辺の方々に迷惑が…!!
異世界の社畜の知識が「仕事を放り出して周囲に迷惑をかけるの……?」という忠告を出してくる。セレスはある意味、自由業とも言うべき職業だ。自分の好きな時に薬を作って決められている規定量の薬をギルドに納品している。薬を作るのは自分の好きな時に1人で、というスタイルなので周囲に迷惑をかけることもない。
だが、ジークフリードはきっと違う。周囲に多くの人がいて、彼の仕事を待っている。次から次へと来るであろう仕事をこなすのも大変そうだ。今回は代わりの人を置いて来たとの事だったが、ジークフリードが突然いなくなったら周囲の混乱はすごそうだ。
「……なるべく1人で来ないようにします」
妥協点はそこしか無かった。セレスの感覚が「1人でここは絶対無理!」と叫んでいる。そうなると1人では来ない、誰かと来ます、と言うしかない。
「そうだな。あらかじめ言ってくれたら俺が一緒に来るから。気分転換にもちょうど良いしな」
確かに1人では来ない、と言った。そして何故か、ジークフリードが一緒に来ることになっている。
「お姉様とかでもいいんですよね?」
「アヤト、か。そうだな、アヤトや弟くんなら問題はないかな」
本心では嫌だが、アヤトや弟はセレスに害を加えることもないし、さすがにそこまでの心の狭さは見せられない。なるべく寛容な大人の男の姿も見せておかなければ、束縛が酷いとセレスが逃げて行ってしまう。
そもそも『ウィンダリアの雪月花』は束縛してはいけない存在なのだ。
ちょっと忘れそうになっていたので、不文律をしっかり頭に叩き込んでおかなければならない。
自由に。セレスの意思を尊重して自由に、でも彼女の安全な生活を守らなくては。
意外とそれが難しい。
まだセレスティーナが『ウィンダリアの雪月花』であることは公になっていないので今のところは大丈夫だが、万が一露見したらセレスの周りが騒がしくなる前にティターニア公爵家の庇護下にある事を公表した方がいいだろう。アヤトの弟子なのだから間違いなくティターニア公爵家の庇護下にあるので嘘は言っていない。
もしリヒトがエルローズをちゃんと口説き落とせていたら、「養女が欲しくないか?」と唆すのもいいだろう。エルローズならきっと喜んでくれる。エルローズが喜ぶならリヒトが反対することも無い。ウィンダリア侯爵家が何を言ってきても、侯爵家が手放した雪月花をティターニア公爵家が保護するのは当たり前だ、とでも言っておけばいい。前例がある以上、それで黙らせることが出来る。
「セレス、本当に気をつけてくれよ。少しでもおかしいと感じる事があったら俺かアヤトに必ず言ってくれ。何も無くてもかまわないから。セレスが無事でいる事が一番大切な事だから」
懇願するようなジークフリードの言い方にセレスは「はい」と返事をした。
少々過保護な気が…!と思わなくもないのだが、歴代の『ウィンダリアの雪月花』の事を考えると過保護気味なのも仕方ないのかと思う。ちょっとした油断で誘拐された雪月花だっていたのだ、セレスも十分に気をつけなくてはいけない。多少の自由と引き換えにはなるかもしれないが、守られる側もルールに沿う必要はあると思っている。本当に好き勝手して誘拐されました、という事態は洒落にならないので避けたい。
「うん、頼むよ」
ジークフリードはセレスの身を案じてくれている。ジークフリードだけじゃない、ディーンやアヤトたちもセレスの事を大切にしてくれている。その事を忘れないようにして、なるべく危険な事にならないように気をつけよう、とセレスは心の中で誓った。