宰相と影と報告書
その日、宰相の手元に届いたのは表紙に「まる秘」と書かれてある報告書だった。
「……何だ、これは?」
渡してきたのは文官の振りをした影に属する人間だ。王家の影と呼ばれる存在の中でも上の方の役職に就いている、本人曰く「しがない中間管理職」のはずだが、こんなふざけた報告書を提出するような性格ではなかったはずだ。
「ヨシュアから届きました」
「…ちッ」
思わず舌打ちをしてしまった。あいつなら納得出来る。
『よしゅあのまる秘報告書』
表紙をめくった一行目を見ただけで破り捨てたくなった。
『リド先輩とお嬢ちゃん、無事にしゅっぱーつ。でもお嬢ちゃんってばあっちこっちに寄り道ばっかりしてるんだよね。リド先輩、文句も言わずに付き合ってるんだけど、何あれ?オレにはすっげー厳しいのに、リド先輩ってばめっちゃ優しいの。その優しさの何割かでいいからこっちに向けて欲しいよね』
最初の数行を読んだだけで報告にもなっていないふざけた文章だった。お前に対する優しさは1割切っても問題ない。
「今すぐヨシュアを消してこい」
「ダメです。あれでもうちの中では優秀な人材ですから。それに閣下の唯一のお友達です」
笑顔で却下された。あとついでのように言われた「唯一のお友達」という言葉が妙に精神をえぐってくる。確かに身分や利害関係抜きで付き合っている友人はあいつくらいだが、その強烈な言葉は精神をごりごりとえぐってくるものがある。
『お嬢ちゃんは分岐点にある石像に興味を持ったみたいだよ。いやー、それ以外は天気もいいし、ぽかぽか陽気で気持ち良かったから、オレは眠気との戦いに突入した』
勝手に突入してろ、そして爆ぜろ。
『あ、リド先輩とお嬢ちゃんが無事にティターニア公爵家の領地に入って、末端の兵士に身分証とか見せてた!』
時々、重要報告を挟んでくるんじゃない。
だが、セレスティーナ・ウィンダリア。
『ウィンダリアの雪月花』が久方ぶりにティターニア公爵家の領地に入ったか。
『ちゃんとリド先輩が兵士にアヤト先輩の弟子で先輩直々の身分証だって伝えてたよ』
セレスは、表面的な言葉だけ聞いて理解していれば何の問題もない。薬のティターニアの領内に薬師ギルドの長の弟子が来た、ただそれだけの事柄だ。
だが、ティターニア公爵家に属する者には違う意味を持つ。
今も昔もアヤトの直筆の身分証を持つ者は公爵家が守るべき最重要人物として認識される。それはいつどこで出会うかわからないので、末端の兵士にまで徹底される教えだ。アヤトの直筆の身分証を持つ者に接触した場合、直ちに上に連絡をして自身はその者の護衛に回らなければならない。堂々と護衛するか隠密になるかはその時次第なのだが、今回は秘密裏に護衛が敷かれる事案だ。なにせ、ティターニア公爵家の現当主である自分からの連絡が一切ない。当主の連絡がないのに現れたアヤト直筆の身分証を持つ者。それは緊急事態の可能性も秘めている。
「さて、私のところにいつ連絡がくるかな」
通常ならば半日以内に連絡が来るだろう。だが、ここのところ戦争もなく、大型の魔獣の討伐もない状態なので、騎士や兵士たちがどこまで機能しているのか、またその命令がどの程度まで徹底されているのか、たるんでいる軍人たちを見る良い機会だ。
試されるのは騎士や兵士、その司令官たちだけではない。ティターニア公爵家そのものが試されている。本家や分家の人間の内、誰がどういう行動を起こすのか、もしくは静観するのか、セレスティーナを調べるとしてどの程度まで調べられるのか。動きによっては、処分しなくてはいけない者も出てくるだろう。セレスが領内に入ったことで、停滞して澱みが生じてきていたティターニア公爵家全体が試されている。
そして王家。
リドが単独で王宮をこれだけ長期間不在にするのは初めてのことだ。
リドが不在の間、後継者たる青年はそれをカバーして周りの人間をうまく使いつつ、自身が利用されないように出来るのかどうかを試されている。もちろん政務に関しては宰相である自分が見ているので下手な事はさせない。
リドは今回の出来次第でその地位を譲るのを早めるつもりでいる。後継者である青年もそのことは重々承知しているだろう。元々、自身は正統な後継者が育つまでの中継ぎだと宣言しているリドなので王宮全体で「いつかは…」という思いもあった。ただ、リドが優秀すぎる中継ぎだったので、もう少しという声が無きにしも非ずの状態だ。
後継者の青年、リドが不在なのを好機と見て動き出す者たち、そして王妃。いくら自分の息子が王位を継ぐことが決まっているとはいえ、何かしらの動きをする可能性は高い。
「さて、こちらも誰がどう動き出すのか…。しかし、やはりあの2人は嫌だな」
自分たちのことを一般の薬師だの王宮の魑魅魍魎たちとやり合うのは苦手だのと言ってこっちに押しつけてきたくせに、こういう機会は逃さず平然と策謀してくる。どうせ自分が知らない罠もいくつか仕掛けているに違いない。
セレスティーナ・ウィンダリアがちょっと王都からお出かけする。
言葉にすればただそれだけのことなのに、便乗が過ぎる。
どうしてそれを好機と捉えて各方面に一斉に罠をしかけるのか。
「閣下、『ウィンダリアの雪月花』の不文律には抵触しないのですか?」
「しないだろう。セレスティーナ・ウィンダリアの身を案じて王都から出しただけだ。ティターニア公爵家の内情も王宮内のことも彼女には何の関係もない。何の関係もないところで、勝手に自滅していくだけだ。本人は好きに観光でもして、リド先輩やヨシュアがしっかりと守っていればいいだけの話だ」
セレスティーナは自由に動いて心の赴くままに好きな薬草に触れていればいい。幸い行き先は薬のティターニア公爵領だ。彼女の興味を引かれるものはたくさんあるだろう。その裏で蠢く者たちを始末するのはこちらの役目だ。
「影たちは先行してティターニア公爵家の領地に入っておりますが、しかし閣下……損な役割ですなぁ」
しみじみと影に言われた。
「あの兄を持った時から諦めている」
つまり生まれた時から諦めていることになる。
アヤト・ティターニア、ティターニア公爵家の嫡男として生まれ、本来なら今頃公爵位を継いでいたはずの人間。公爵なんかになったら大好きな趣味の服が着れないし薬草作りが出来ない、とか言うふざけた理由で弟である自分に爵位を継がせた稀代の策士と言われた兄。だが、その影響力は各方面に伸びており、なんなら貴族だった時より今の方が大きい。
「所詮、私もお前たちもあの2人の操り人形に過ぎん」
「はっはっは、困ったものですな。ですがあのお二方は、こちらが心地よく踊れるようにしてくださいますから嫌いにはなれません。同じ操られるなら楽しくさせて下さる方がいい」
「違いない」
これから水面下で色々と動かなければならないのだが、それも仕方ないと諦めている2人は大人しく仕事に戻った。