侯爵と侯爵夫人
吉祥楼のオーナーである女性は上機嫌で花街へ帰る道を歩いていた。
昨夜は変な客に絡まれたお店の女の子を守る為に階段から落ちて大変だった。あちこちぶつけたせいで身体中が痛いし顔には青あざが出来るわで最悪の夜だった。でも今日はそのおかげで貴重な女性の薬師に出会えた。しかも美肌3点セットをお試しで貰えたのでプラマイゼロどころかむしろプラスだ。
可愛らしい女性薬師は所作がとても綺麗だったので貴族出身だろうと思い聞いてみたところ、その通りだった。
「ねえ、貴女、貴族の出身?」
「…はい。絶縁はしているので元、ですが。わかるものですか?」
「もちろん。所作がねぇ、やっぱり綺麗なの。幼い頃から礼儀作法を仕込まれてるとそれがもう自然に出ちゃうものなのよ。うちの子たちにも教えるんだけど、どうしてもぎこちないの。私も貴族の端っこの家に生まれた身だから、自然に出来ているかどうかの違いはすぐにわかるわ」
「お姉さんも貴族なんですか?」
「貴女と一緒で、元、ね。10年くらい前にまとめて貴族の処分があったんだけど、知ってる?」
「…知らないです」
「年齢的にそうよね。うちはその時に潰れちゃって、それからずっと花街で働いてるんだけど、やっぱり全然違うわよ。今になって貴族の教育ってすごい、って思うわ」
「そういうものなのですね」
少女は実感がない感じだったが、これから庶民に接していけばいつかわかってくるだろう。彼女はおそらく上位の家の生まれだ。一つ一つの動作が最上級の礼儀作法を仕込まれている感じを受けた。
吉祥楼のオーナーは知らなかったが、セレスの礼儀作法は王太后と離宮の侍女の皆さんによる指導なので国内でも随一の厳しい礼儀作法を仕込まれていた。
「それにアヤセ様…面倒くさいわね、アヤト様のお弟子さん、か。アヤト様、私があの子の周辺に出没するのはお気に召さないかしら?」
くすくすと笑いながら女性は花街へと帰って行った。
「あなた、ソニアのことで相談がありますの」
いつもと変わらぬ朝食の席で妻が笑顔でしゃべり始めた。
「ソニアは、第二王子殿下に夢中のようですわ。殿下はまだ婚約者もいらっしゃらなかったはず。やはり陛下にソニアを殿下の婚約者にしていただけるようにお願いして下さいませんか?」
にこにことそう言う妻をウィンダリア侯爵は優しい目で見つめた。以前もその話は出たのだが、その時は正式に打診はしなかった。
「ソニアを殿下の婚約者に、か。わかった、一度お伺いしてみよう。直接陛下にお伺いするのはさすがに無理だろうから、そうだな、先に宰相閣下にでも相談してみようか。だが、その、大丈夫なのか?他家からソニアに少し苦情が来ているのだが…」
「まぁ、それは他家のお嬢様方の嫉妬に違いありませんわ。殿下とソニアの仲の良さを羨んでいるに違いありません。だってソニアは『ウィンダリアの雪月花』ですもの」
「君は昔からそう言っていたな。だがさすがにソニアが『ウィンダリアの雪月花』というのは無理がないか?あの子は銀髪でも青い瞳でもないよ」
妻は同じウィンダリア一族の分家の娘だ。ウィンダリア一族じゃなくても雪月花の特徴は誰もが知っている。銀の髪に深い青の瞳。幼なじみの彼女は、昔からずっと『ウィンダリアの雪月花』を産むのだと言っていた。
「関係ありませんわ。私が産んだ娘が『ウィンダリアの雪月花』なのですから。幼い頃からずっとそう言われていましたの。ですから私の唯一の娘であるソニアが『ウィンダリアの雪月花』で間違いありませんわ」
夢見るようにうっとりとした笑顔で妻は言い切った。
「言われた?誰に?」
「まぁ、あなた、お忘れですか?一族の長老と言われていたお婆様にですわ」
そういえばそんな存在がいたな。幼い頃、確かにあの婆は自分と妻に『ウィンダリアの雪月花』について何かを言っていた気がする。
ただ、妻と違って自分はあの婆が怖かった記憶しかない。妻のように笑顔で婆のことを思い出したりはしない。
「そうか。だが、君がそう言うのならそうなのだろう。ならば今日、宰相閣下にお会いしてみよう」
先日、第二王子が訪ねてきてセレスティーナのことを言ったばかりなのだが、今の時点で侯爵の頭の中から次女のことはすっかり抜け落ちていた。執事から次女が『ウィンダリアの雪月花』であることを教えられ彼女を探さなくては、とその時は思っていたのだが、こうして妻や娘と接していると次女という存在そのもの、そして次女に関するあらゆる事柄が忘れられていく。そのことに侯爵は気がついていなかった。
さすがにすぐ傍にいる執事や侍女たちは、不自然なほどセレスティーナのことを忘れる家族におかしいとは思っているが、説明しても少し時間が経つと忘れてしまうので、もはや仕方がないのだということも長年のことでわかってはいる。むしろ今はセレスティーナを探す気が無い家族はちょうどいいという意見で一致している。
だが、侯爵はいつでも忘れているわけではない。セレスティーナの話題が出れば思い出すし、妻と娘から離れれば、ふとした瞬間に少しだけ思い出す時もある。
「そう言えば…先日はどうして第二王子殿下はいらしたのだったかな?」
「ソニアに会いに来られたのでしょう?あの子がそう言っていましたわ」
「ああ、そうだったね。では早めに殿下とソニアの婚約のことを考えていただけるようにお願いしなくてはね」
「そうですわ。王家もお喜びになるでしょう。王家は長年『ウィンダリアの雪月花』を手に入れようとしていましたもの。ソニアが嫁げばその長年の願いがやっと叶いますわ」
そうなれば侯爵夫人である自分のことを陰で何かこそこそ言っている社交界のうるさい方々を黙らせることも出来る。『ウィンダリアの雪月花』を産んでよかったと心の底から思う。
幼い頃から一族の長老であるお婆様にずっと言われ続けてきた。『ウィンダリアの雪月花』を必ず産め、と。前の『ウィンダリアの雪月花』が亡くなってからの期間を考えると、そろそろ次代が生まれてもおかしくはない。だからお前は次代のウィンダリア侯爵に嫁ぎ、必ず雪月花を産め。その『ウィンダリアの雪月花』を王家が必ず欲する時が来る。その時が来たら迷うことなく『ウィンダリアの雪月花』を差し出せ、ずっとそう言われて育ってきた。お婆様の言う、王家が欲するその時、というのがきっと今なのだ。ならば自分は、『ウィンダリアの雪月花』であるソニアを王家に嫁がせるだけだ。侯爵夫人の中に長女が『ウィンダリアの雪月花』ではないという考えはない。
一方、侯爵の方は次女が本当の『ウィンダリアの雪月花』であると教えられていても、今はその事実が思い浮かばなかった。ただ、ふと思い出したことがあった。
「…昔…10年くらい前、かな?誰かに『ウィンダリアの雪月花』について何か言われたような…」
それは一族の者ではなく、学園の制服を着ていたような気がする。彼女は自分たちに向かって叫ぶように言っていた。
『あなたたち、どうして―――様を束縛するの!?絶対わたしが―――様を―――――の呪縛から解いてみせるんだから!!あなたたちの娘は相応しくないんだから!!』
彼女はあの時、誰の名前を言っていたんだろう。