1.7
ミセス・ホールトンは勝負の直前に『あなたが挙げた勝利の全額をベットしろ』と言っていた。
その言葉の意味は、とんでもなくデカい勝負にも置き換えられる。もし『あなたが挙げた勝利』に、今夜おれが出したサイの目すべてがかかるなら。つまり、今日おれが店に与えた損失すべてだとしたら――。
尋ねるべきだと分かっちゃいたが、おれは唇が震えて声を出せそうになかった。
「ようやく、理解してくれたみたいね? ハイ・ローラーさん?」
ミセス・ホールトンは煙を細く吐きだし、一際エラそうにしていた黒服から紙片を受け取った。
「あなたが今日あげた勝利の総額は――すごい。一五万、とんで、一一四ダラー」
「……本気で言ってんのか?」
「まさか。私はそんなに甘くないもの」
ミセス・ホールトンのシャンパングラスに、薄い金色の酒が注がれた。
「私はドント・カムに賭けて勝ったのよ? その倍はもらわないと、割にあわないわ?」
言って、悠々と、一息でグラスを呷った。
――冗談じゃない! 冗談じゃない! 三〇万とんで二二八ダラー!?
「そんな額! おれに払えるわけがねぇだろ!?」
おれはハンドレストに両手を叩きつけた。振動でショットグラスが揺れる。
ミセス・ホールトンは薄く笑って付け加えた。
「気を付けて? 割ったらグラス代も請求させていただくわよ?」
「だから!」
「安心して? いくら私だって、あなたにそれだけの額を払う能力がないことくらいは分かっているから。あなたにはその強運? それを差しだしてもらうつもりよ」
おれの強運? つまり、ベルヌーイ様が俺に与えてくれた力のことか?
だとしたら、それこそおれは強運だ。ここのディーラーとして働けるなら、街の外に広がる荒野を緑に染めあげられそうな額でも、稼ぎ出せるかもしれない。
「……メシ代くらいは出るのか?」
「食事代? 食事って、当たり前じゃない。バカな人ね!」
ミセス・ホールトンは口元を隠して笑った。つられて黒服たちも肩をゆすった。
「食事代どころか、今日のあなたの稼ぎはまるまる清算してあげる。逃げるなら必要でしょう?」
「逃げる? 逃げるって、なんの話だよ? おれを雇ってくれるとかって話じゃ――」
「ミスター……グッドマン、だったかしら? もう冗談は結構よ? 一晩で三十万ダラーも負けるディーラーなんて、たとえ死んだって雇いやしないわ」
再び黒服たちが大声で嗤った。
長い髪を困ったように掻きあげながら、ミセス・ホールトンは言った。
「あなたが作った借金は、全部、今日来ていたお客様方に肩代わりしてもらうから、安心してちょうだいね? もちろん、名札つきよ?」
「……なんだって?」
意味が分からなかった。
そもそも店で発生した損失すべてがおれ持ちになるのが理解できなかった。すぐそこにある海に入って戻った奴はいないって話並みに、納得できなかった。
「んなことして、あんたに何の得があるんだ? 殺したいなら今すぐやれよ!」
「勝負師でしょ? そんな台詞を口にしないで? 私、あなたのことが好きになってきたところだったのに」
「惚れた男を死地に送り込むのかよ。あんた、ブラック・ウィドウって奴か?」
「まさか。私は黒いドレスは着ないわ? たとえ誰が死んでもね」
ミセス・ホールトンは煙草を黒服に預け、長手袋をはめた。
「賞金はすぐに懸けるから、とにかく早く遠くへ逃げることね。逃走資金はあなた自身の今日の勝ち分。言っておくけど、あなた、いままでで一番お金を持ってるわ」
「……ひとつ聞かせてくれよ。なんだって、そんな回りくどい殺し方をするんだ?」
「どうかしら? 私は、別にあなたを殺したいわけじゃないのよ」
ミセス・ホールトンが指を振った。すると、黒服がおれの前に麻袋を置いた。中には紙幣の束と銀貨が詰まっていた。ついでに飲んでいたワイルドグラス・ダックウィードのボトルが一本。ボトルは封が切られて、一杯分だけ減っていた。
おれはボトルを手に取り、ショットグラスに注いだ。
なにがなにやらよくわからないが、少なくとも約四〇○〇ダラーは手に入れた。たとえ賞金首になっても、ほとぼりが冷めるまで逃げ回ればいい。おれならきっと楽勝だ。なにせ、おれの幸運は普通の人生三回分はある。
逃げて、逃げて、逃げ回ってやる。
そして――、
「おれは、必ずここに帰ってくる。んで、あんたに勝つ」
飲み干したグラスをテーブルにベットし、おれは宣言した。
「カム・ベットだ。おれは、絶対に、生きてここに帰ってくる」
ミセス・ホールトンは目を微かに見開き、呆れたように首を左右に振った。
「私の勝負に付き合ってくれるのは、あなたが初めてよ。ミスター・グッドマン」
空のシャンパングラスがテーブルに置かれた。ドント・カム・ベットだ。グラスの表面から水滴が流れ、足を伝い、ラシャを濡らした。
「さぁダイスロールの時間が来たわ。使うのは、ミスター・グッドマン、あなた自身よ」
やってやろうじゃねぇか。
おれは煙草に火を点し、札束を胸につめこみ、麻袋とボトルを両手に掴んだ。
*
あの夜の出来事を語り終えたおれは、ナルシストな賞金稼ぎの反応を待った。
「……酒場で聞くには面白い話だと思うがな――それは、酔っていたらの話だ」
いつの間にか隣の席に腰かけていた賞金稼ぎは、葉巻煙草を咥えた。
「そしてご生憎だな、カトー。俺は酒を呑まないんだ」
「じゃあ、なにを飲むんだ? ママのおっぱいって冗談以外で頼むよ」
これまた渾身のジョークのつもりだった。とにかく銃を下げてもらいたかったのだ。
信じられないだろうが、おれが長々語っている間、賞金稼ぎは一度として銃口を下げなかった。撃鉄が起こされたままの骨董品が常におれの頭を狙ってて、ついでに引き金にはおっさんの太い指が絡まっていた。
おかげでチビりそうなまんまだったし、飲んでる酒も不味かったんだ。まぁ不味いのは最初からだが、より不味く感じていたんだよ。
で、話の肝心要、賞金稼ぎのおっさんは――、
「俺はお前を信用するつもりはない。ただまぁ、殺す必要はなさそうだ」
おっさんはため息交じりに撃鉄を親指で押さえ、引き金を引いた。弾倉に手を添え少し回す。そして、ゆっくりと撃鉄を戻してくれた。
どうだ、ミセス・ホールトン。
おれは今日も勝ったぜ、バカヤロー。