13話 レギルジアの異変
「トーネルト事件、その後の調査の具合はどうです?」
「全然手応えありませんな。本当に全くない。
調べても調べても、改めて分かるのは、トーネルト男爵がアホだった、ってことと、クソみたいな奴だった、ってことくらいですかな。
もし巻き添えになった無関係な被害者がいたとしたら、巻き添えくって可哀想に、安らかに眠ってくれ、と祈ってやりたいね。」
トーネルト事件から1ケ月、衛星都市レギルジアの警邏隊第二隊隊長ドーイー・グラニと調査隊の第一隊隊長、シモン・ベルモンドは、都市運営を担う統括委員会からトーネルト事件の詳細聴取のための3度目の召喚を受け、所定の業務を終えた後、夕方から都市長本庁舎の待合室に集まっていた。
ドーイーからすればほとんど分からないことだらけなので、事件当日の「到着してから現場を離れるまで」の状況を報告するのみで、こちらは事実確認の為だけなので変わりがないのは問題ないが、毎度進捗のない調査報告をしなければならないシモンが毎回統括委員会から責めを負うのを可哀想に思っていた。
シモンが調べた限り、状況報告については捜査が全くと言っていいほど進んでおらず、どうやら被害者側であるトーネルト男爵が子飼いのならず者を動かしていた形跡があり、翌日まで邸宅にいた人間が全員無事だった場合は何かしらの相手に対して荒事を起こす側だったような噂があった、ということが新たに分かった程度だ。
トーネルト男爵側が邸宅にいた人間全員(外に出ていたならず者の下っ端も一人)が死亡したのみで、対外的に『新規に荒事を起こしてトーネルト男爵の関係者に襲われたと思われる人物』はいなかった。
厳密に言えば、事件当日の半日前にあたる昼間にトーネルト男爵が指示したと思われる”趣味”の被害に遭いそうになった者達はいた。
調査してみたところ商売敵の関係者ではあるのだが、店主の親族というわけでもなく、ここ数か月で商店の売り上げに貢献した女性とその姪とのことで、おそらく貴族という立場を利用し、その商店の店員とその家族を”趣味”も兼ねて誘拐し、自分は娯楽を手に入れ、その商店には嫌がらせをするという下衆にとって一石二鳥の所業を行おうとしたものと思われる。
ただ、被害者達は到着の遅れを気にした顧客の通報を受けて出立したドーイーの率いる警邏隊の迅速な追跡によって無事に何事もないうちに保護されたと、ドーイーからも確認が取れている。
雇用主である商店もいくら調べてもほこりのほの字も出てこないほど真っ当この上ない商売を営む老舗でもあり、賢明な経営者が盤石の地盤を固める大店でもある。
飛んでくる火の粉を振り払う程度のことはするだろうが、幾度かに亘る事情聴取などでも報復に燃えるような者には見えなかった。
あの事件はそのあまりの証拠の少なさやどういう状況であれば調査隊が焼滅処理をするかまで計算にいれて事件を起こしていたように思える。
あまりにも周到に犯行が計画されていると思われる為、半日前の事件の報復としてあそこまでの惨劇を行うには時間があまりにも少なかったと思われる。
時系列として当日の日中に行われた”趣味”以前にアグリア商会とのトラブルは抱えていなかったと各方面の聴取から明らかになっている為、調査隊を幾人も集めて何度も会議を開いているが、全員一致で”時系列的にアグリア商店並びに関係者は容疑者としては白だ”、と結論づけていた。
加えて、トーネルト男爵は大きいトラブルは抱えていないとしても、随分とあちこちで小さないざこざを多数起こしており、その数はどれが該当するかなどと言い始めると収拾がつかない程の数であり、怨恨の線から追おうにも特定するのは難しい状況だ。
部外者からすれば、一様に皆、『関わると面倒なので、出来るだけ関わらない、関わりが避けられないなら適当にあしらう』のが当たり前だったようで、関連のあった貴族、商人、傭兵やハンター、果ては親族までもが『特に親しくはしていなかったので何も知らない、関わり合いになりたくないのでもう来るな』の一点張りだった。
人によっては、トーネルト男爵が犠牲になったことを伝えると「いい気味だ。」とまで言ってのける者も多くいた。
調査を進める上で発覚したことで、ほとんどの案件で通報を受けていないので実数は不明だが、トーネルト男爵は主に身寄りのない一般人の女性・・・特に美しい女性を誘拐して、屋敷内で拷問か凌辱を楽しむ、という趣味を”日ごろから”嗜んでいたであろう形跡も存在した。
シモンとは別部隊の調査隊隊長から、以前に行方不明の女性の調査をした結果、トーネルト男爵に突き当たったことがあったらしいが、男爵邸への調査令状を取ろうとした際、男爵側から『こちらの屋敷で働いてもらっているから調査は必要ない』と断られた事例があったことを教えてもらった。
トーネルト男爵と仕事をしたことがある商人達に話をした際には、『屋敷の中から叫び声や呻き声が聞こえたので、我々は玄関までしか入らないようにしていた。その声の大半は女性の声で、拷問か何か酷い暴行を受けているような音も聞こえていた』と複数人が証言していた。
”そういった用途”で使っていたであろう地下室の焼け跡は比較的形が残っており、残された痕跡は拷問趣味の金持ちが設営する地下牢のような様相であり、明らかに拘束されていたであろう遺体の痕跡もあった。
拷問等によって彼の邸宅で死亡した被害者達は何十人、何百人という人数に及ぶ可能性もある為、死体処理の方法についても調査を進めているところだ。
数が多すぎるので、その全てを敷地内に埋めているとは考えにくい為、外部に死体処理を担う業者か協力者がいるだろうという考えだ。
シモンが明確に言えるのは、あの日、トーネルト邸に存在していた事件前後数時間以内に死亡した死者の数は『鑑定』術式によって22人と確認できている、そしてトーネルト男爵本人だけは死体が比較的綺麗に残っていたため確認が取れており間違いなく殺されている、ということだけだ。
数は確定であるが、特徴のある物をつけている遺体・歯や骨の背丈でおそらくこれは誰それの遺体だろう、というのが推測で判別可能なだけで、身元を証明する類の物全てが消し炭となってしまった今となっては、正確に誰が死んだのかは分からない。
屋敷内にあった遺体22体のうち18体は『鑑定』術式と都市にある戸籍情報から様々な分析が行われてレギルジア都市民であることは確認できたが、残りの4体は行方不明届が出ていないもしくは出生登録自体されていない被害者か、もしくは都市外の者だろう。
「あれから、事件前後に似たような死因で死んだ者はいないかも調べても、そういった記録は一切出ていない様子でした。
流行り病等の感染病を警戒していましたが、毒の可能性の方が濃厚です。
トーネルト男爵邸の外部に出ていて収容所に収監されている間に死んだ下っ端は、ほぼ同時期に死んでいるから関連があるかと保存していた遺体を調べてみたんですが、こちらは毒も病気も痕跡を検出できませんでした。
医者の見立てでは、あいつは心臓麻痺が死因。
タイミング的にトーネルト事件と関連を疑いたくなりますが、他の被害者とは死因が異なるから・・・まぁ、おそらく屋敷で我々が目撃した被害者が受けた”何か”を受けなかったんでしょうな。
酒飲みのトラブル等で収監直後に心臓麻痺やら脳出血やらで死んだ者がいるとも聞くので、その類かもしれません。
あの屋敷で起きた惨劇と同じタイプの死因だったなら、吐瀉物と糞便を撒き散らしながら全身の穴という穴から血を流して苦しみ悶えながら死んだでしょう。
周囲に撒き散らすタイプのモノであったなら、更に至近距離にいた刑吏や看守の人間も下手すると死んでいたと思われますし、まぁ関連がなくてよかったと言えばよかったのですが・・・。」
「なるほど、そうでしたか・・・あの男、死にましたか・・・。
あの男は我々がトーネルト事件の起きたであろう日の日中に叩き込んだのですよ。
商人の3歳か4歳くらいの小さな娘とその叔母を誘拐して商人を強請ろうとしていたようで、幸いなことに誘拐されかけた女性と幼女は我々が到着するまでなんとか堪え、我々の手で無事に保護することができました。
逮捕した男はトーネルト男爵子飼いの誘拐担当班・・・誘拐の実行犯であり、要するに常習犯だったようです。
重罪ですので、死罪か鉱山送りだ、覚悟しろ、どっちにしろ生きては帰れんぞ、と去り際に告げた記憶はあります。
ひょっとするとそのストレスで心臓に負荷がかかったのかもしれませんね・・・。」
ドーイーは市街で身寄りの少ない人間、特に夫を亡くした子供のいない女性を狙った誘拐と思われる事件、もしくは行方不明事件について、以前から迷宮入りした事件が多いことを気に病んでおり、トーネルト事件に関わる前日の夜は、おそらく今までの事件の犯人の実行犯を逮捕できただろうことにとても満足していた。
シモンも同様に迷宮入りする誘拐事件が多すぎることに疑問を持って調査してくれて、その後、トーネルト男爵が貴族特権で隠蔽を重ねていたことを教えてもらった。
トーネルト事件が起きなければ、この件も捜査中止、再び迷宮入りになっていたことだろう。
あの日、誘拐されかけた幼女は自分の娘よりも小さいというのにしっかりしており、叔母は妙齢のとても美しい女性ではあったが賢母の雰囲気を漂わせながらも見目麗しく、二人とも装いを高級な物にすれば貴い身分の人間だと言われても理解できるような者達だった。
誘拐の常習犯に捕まってしまったら、拷問・凌辱趣味のトーネルト男爵の手に落ちてしまっていたら、あの館でどのような目に合っていたのか、想像に難くない。
そう思うと、今までの被害者は助けられなかったが、今回、あの二人だけでも無事に助けられて、本当に良かったと思った。
そして、今後同様の誘拐事件が大幅に減るだろうと思われることも素直に嬉しかった。
そうだ、我々はまさにこのような仕事をする為に警邏隊という仕事を選んだのだ。
ドーイーは一連の処理の最中、目を輝かせながら感謝の意を見事に述べた幼女と、その幼女の叔母の美しい女性の感謝を思い出し、少し暗鬱としていた気分を持ち直した。
あの幼女なら、自分の息子の嫁に欲しいと思う親も多数いるだろう、まだ誰の手も回っていないなら自分の息子の許嫁にでも欲しいくらいだ、とあの日思ったものだ。
あのような幼女を誘拐し、自分の欲のままに非道な拷問や凌辱を行う貴族に献上し、生活の糧を得るなど言語道断だ。
自分も娘を持つ親であったことも影響したのか、あの時はかなり強い語気で刑罰の類を伝えた気がする。
そして、翌日、トーネルト男爵一味が全滅したであろう状況を確認したとき、大変な事件が起きたという感情とは別に、ざまあみろ天罰だ、と思う自分がいたことも否定できない。
「ドーイー殿が奴を逮捕したことは私も調書で見たので知っておりますよ。
私も、その場にいれば、私も娘を持つ身、同じように言い、その際には語気も荒ぶったことでしょう。
気になさることはありますまい。」
「シモン殿・・・ありがとうございます。
・・・その誘拐未遂事件の関連もあり、我々もその後、似たようなトラブルや事件がなかったか部内で調べてみたが、トーネルト事件について繋がりそうなものはついぞ見付からなかった。
何処で調べて誘拐に手をつけていたのか分かりませんが、被害者の遺族や親しい知人等もほぼ見当たらない次第でして、逆に言うと仇討ちの為に暗殺者や権力者を味方につけられそうな者もいない状況でした。
シモン殿の力になれず申し訳ないです。」
「はは、何をおっしゃいます。
貴方がたはその武力を以って現場を制圧する為にいらっしゃる方々だ、このような調査は我々の仕事というものです、お気になさらず。
そもそも分野が違いますからな、警邏の方々が現地に呼ばれていなかったとしても不思議ではありません。」
「そうですね・・・。
しかし、シモン隊長殿でも原因の分からぬ事件というのも不気味ですね・・・。」
「以前より明確に進捗した所があるとすれば、あそこまでの被害をもたらす呪術を使用できる者は、
今の所、戦貴族でも確認されていない、とシュムーズヴェルト支部長からも確認が取れたので、あの惨劇の原因が遠距離から行われた呪術術式である、という可能性だけは除外していい、ということが分かったことくらいですな。
せめて、殺害方法が分からずとも、下手人さえ分かれば逮捕してから聞くなり処理もできるんですが、容疑者すら湧いてこない。
塀や門には我々が調査に入った段階では不審な手形や足形の痕跡もなかった。
普通に門から案内されて入り、屋敷の内部まで入りこめた人物、又、屋敷内から脱出する際も屋敷内の人物に送迎されて屋敷の外にまで出ることが出来た何者か、がおそらく犯人でしょうが、現在のところいたとしてもそれが誰だったのかは誰にも分からない状況ですね。
トーネルト男爵が自ら犯人を引き入れた末の出来事でなければ、門番が犯人に買収されていたという線が一番濃厚ですが、門番は邸宅内に自室があったようで、焼滅処理の際に一緒に焼けてしまっていて、証拠も何も燃え尽きてしまっている。
まぁそのように推理はできますが、証拠は何もない、正直お手上げです、何も分かりません。
トーネルト男爵が亡くなった後は誰かがその権益を競い合って取合うのかと思えば、お貴族様達はおろか、こういう時に飛びつくであろう商人達も皆一様に触れたがっていない。
引継ぎ手がいないと困る仕事については統括委員会から指名を受けた、新参のお貴族様が色々引き継ぐらしいが、横槍も入っていないそうで。
ひょっとすると関係者の中では縁起の悪い”アンタッチャブルな案件”に指定されているのかもしれないですな。
トーネルト男爵はいたらいたでウザいし迷惑だが、いなくなったからといって誰も得をしないとなると、暗殺する価値があったのかすら分からなくなってきますし、恐ろしい人間の逆鱗に触れたか、被害者の怨恨の線が濃いような気もしますが・・・。
あぁ、あと、主に実害を受けていたであろう一般人は皆身寄りのない者ばかりだったと思われるので、知人・友人程度は数人いたとしても、トーネルト男爵の荒事を担当する子飼いのならず者を含めて22人、屋敷から一人も逃がさず殺すほどのかなりの手練れの暗殺者を高額の報酬を支払ってまで雇うことはないかと。
それにそこまで手練れの暗殺者であれば、一般人に雇われるほど不用意なことはしないだろうし、となると誰が?という堂々巡りになるのですよ・・・。」
「つまりはやはり解決の道は見えん、ということですね・・・。
貴方の立場を考えますと、胸が痛みます・・・。」
「はは、そこはもうこの仕事ですから、慣れたものですよ。
最近はなかったことではありますが、ね・・・。
それに、証拠が全て無くなったとしても、あの場の処理として焼滅処理をしたのは間違っていなかったと思っております。
以前、レギルジアの南東にアッテンビローという村があったのはご存知ですか?」
「えぇ、確か小さい農村ですよね、山奥の渓谷沿いに集落のある・・・。
なくなったのですか?」
「その村は、もう存在しません。
10年前になりますか、公表されておりませんが、トーネルト男爵邸と同じような症状を起こす流行り病が蔓延し、村民がほぼ全滅しました。
例年ならば村から農作物の行商に来る荷馬車が来ないことを不審に思った商人の通報で発覚し、我々調査隊のみが派遣されましたので、貴方がた警邏隊も、ひょっとすると若い都市運営陣も知らないかもしれません。
その村は、トーネルト男爵邸とは違い、大規模探査術式でまだ生存者が確認できている段階で、村ごと焼滅処理を行いました。」
「なっ・・・。
聞いた事がありませんよ、そんな話は!」
「これは調査隊にも厳罰を科す箝口令が敷かれましたからな。
近くではありましたが都市から離れていて人目に触れぬ場所でもあった為、目撃者もおそらくいなかったことでしょう。
私もまだ若かった、生存者がいた段階で焼滅処理を行うことに当時の上司である隊長に噛み付いたりもした。
だが、その時、当時の隊長にも言われましたよ。
集落ごとほぼ全滅するような流行り病を、もし、調査にきた我々が都市に持ち帰って広げてしまったら、都市が滅びてしまう。
流行り病は、その存在が発覚した段階で、調査時には発生源に近付かず、可能ならば発生源の近辺ごと焼き尽くしてしまわなければならない、と。
感情は反対しておりましたが、私の理性はそれで納得しました。」
「たしかに、もしそうなったら、全住民が死なずとも、都市としては運営できない、都市が滅んだと言っても過言ではなかったでしょうな。」
ドーイーは、生存者ごと村落を燃やし尽くしたシモンの感情を理解することはできないだろうと思った。
確かに、その生存者を何とか救出してから村落を燃やせば良いだろう、他に方法はなかったのか、と思うところもあるが、それで救出した者と共に調査隊が全滅した場合、誰もその状況を報告する者がいなくなる。
都市は調査特化の技術を持つエキスパート達を失うことになり、調査隊が連絡を絶ったことを更に調査する人間が送り込まれ、連鎖的に犠牲者を増やす可能性もあり、更に最悪、都市まで感染が広がった場合、都市の機能不全に陥る可能性すらある。
理性的に見れば、焼滅処理を実行したシモンや焼滅処理を指示した領主は間違っていない。
が、おそらく実行したシモンを含めた調査隊は複雑な感情を抱いたのだろうことは容易に推測できる。
「今回のトーネルト事件については、犯人がいる可能性が濃厚ですが、私はこうも思うのです。
あそこまでの症状を起こす毒を数人ならともかく、漏らさず22人に盛るのは生半可なことではない。
もし感染した直後に死亡するレベルの強烈な流行り病が存在し、それが何かしらの媒介で保存された状態で搬入され、その荷物が屋敷内でご開帳され、屋敷内で爆発的に蔓延し、生ける者は皆感染し、死亡したとすると、最早、全て焼失してしまった現場から辿れる範囲では特定は不可能。
ひょっとすると持ち込んだ者もそんなに危険な物だとは知らず、開帳と同時にその場で死んだかもしれません。
もしくは、一定範囲内の人間を呪殺する類の呪物を屋敷内で発動させ、自爆で屋敷内を全滅させた可能性も否定できない。
どちらにしろ、現段階から我々に辿れる調査はここまで、ということになる。
燃え尽きた先に物証はあったかもしれませんが、焼滅処理は我々がどうするか決めたものですし、そもそも外部にも痕跡が一切ありませんから、内部に入ってしっかり調査を行ったとしても、痕跡は見付けられなかったかもしれない。
全ては預かり知らぬところで完結してしまった事件、ということですね・・・。
首謀者が描いたシナリオ通りに事件が起きたのだとしたら、今回の犯行は完璧です。
少なくともこの事件においては、犯人は現場どころか、この都市内に一切不審な痕跡を残していない。
もし今後、同様の事件があったとしたら、その犯人の素性が知りたいですよ、本当に。」
「邸宅外部のカタギの人間には一切被害を出していないところから見るに、自分の仕事にプライドとポリシーを持っているんでしょう。
邸宅内部にいたかもしれないカタギの人間は、事件当時には既に死んでいたかもしれませんし。」
「えぇ、私もそう思います。
ひょっとすると、被害者達が苦しんで死んでいたのは、ひょっとすると我々の知り得ない依頼者からの要望だったのかもしれませんな。
トーネルト男爵一家に可能な限りの苦痛を与えてから殺せ、とでも依頼されたので、敢えてあぁいう殺し方をした、というのも有り得る。
殺し方の指定まで行うとすると、暗殺者はより高額な報酬を要求するでしょうし、それを是とした依頼者は、かなりの怨恨を抱いていたのではないでしょうか。
となると、大金を持った一般人の知己を誘拐して殺してしまった、という線もあり得ますが・・・被害者が特定できないだけに、その依頼者が誰かなどは尚更特定できませんね。
あくまで推理まで、ということになります。」
「なるほど・・・。」
ほんの少しの沈黙の後、時計を見たドーイーは、召喚された予定時間を大幅に超えていることに気付いた。
今回の事件については既に2回呼ばれていて、数分の遅れや前倒しはあっても、1時間近くも遅くなることはなかった。
議論が白熱しているのだろうか、ひょっとすると自分とシモンの知らないような何かが見つかったのか。
ドーイーが時計を見るのに釣られて時計を見たシモンも、同様の感想を抱いたようだ。
「何か、あったんでしょうかね。」
「いい方向のものであればよいですが・・・。」
そう言っている内、数分もしない内に、役人の一人が控室のドアをノックし、入ってきた。
顔面が蒼白としているようにも見える。
「失礼します、統括委員会付き事務官、アンドレイ・クレーニヒです。」
「どうぞ。
・・・君、大丈夫かね。
体調が悪いなら、医務室まで送って貰うよう言伝るが。」
「いえ、大丈夫です、お気遣いありがございます。
ドーイー・グラニ様、シモン・ベルモンド様。
トーネルト事件について、詳細聴取の予定でしたが、その予定が急遽なくなりました。」
「なくなった?
どういうことだ?」
「クラーク卿が会議中に倒れられ、その場で死亡が確認されました。」
「クラーク卿が!?」
クラーク卿、クラーク・ロキプログメンとは、レギルジアの子爵階級にある貴族の一人だ。
都市の運営を担う上で重役をこなす統括委員長の娘を妻に迎えた新進気鋭の子爵で、統括委員長からトーネルト事件の調査と解決を委託されていた貴族でもある。
ドーイーはほぼ名前しか知らないが、シモンが今回の事件について逐一報告を調査隊支部長を介して上げていた人物だ。
年齢的に見てもまだ40台半ばであり、体格も良く、持病もあったとは聞いていない。
半ば嫌な予感を覚え、シモンはこれを聞かずにはいられなかった。
「毒、か?」
「毒・・・!?」
「・・・はい、駆け付けていただいたお医者様も、症状から見ておそらく毒ではないか、と。
他の方々が無事な為、ワインに仕込まれたのではなく、グラスに毒が塗られていたのではないか、とのことでした。
ただ、給仕もおらず、グラスは会議室に置いてあった食器棚の物を皆さまが自由に自分で手に取って使用されていた、とのことですので・・・。」
「クラーク卿をピンポイントで狙ったのではなく、統括委員会を狙った無差別の毒殺ではないか、ということだな・・・。」
「誰が使ってもおかしくないグラスに毒を仕込んでいたのか・・・。
この本庁舎の、関係者しか出入りを許されない最上階の、統括委員会が開かれる会議室の食器棚の、会議で使われるグラスに?
それではまるで”今回の件を調べるな、これは警告だ”とでも言いたいような犯行だな。」
「・・・それで、統括委員長は何と?」
「シモン調査隊長殿と同意見のようです。
『全員殺せる状況で、ただ一人を殺すことを選択したことから、これは警告であると推測する』と。
そして、『この件の追跡はここまでとし、関係者に箝口令を敷き、記録は厳重に封印し、有事の際に確認できるよう複数の者で所在は確認できるように関係部署に指示するように』とのことでした。
「封印指定になったか・・・。
しかし問題は、トーネルト邸宅だけの話ではないぞ、今までの誘拐・行方不明事件、そして今日の事件、そして統括委員会の会議室に侵入されて工作をされた件の調査はどうなるのだ?
それらも封印指定とされたのか?」
「おっしゃる通りです、特に侵入された件については、本庁舎の警備を担う警備隊の面子もあり、徹底した調査を警備隊長が主張したのですが、統括委員長が却下されました。
統括委員会を構成する貴族の方々に、これ以上犠牲者を出すわけにはいかない、と。」
「何もしないことの危険性より動いたことの危険性の方が高いと判断されたということか。
まぁ、それは致し方がないかもしれんが・・・根本は解決できん、これから同様の事があったら犯人の思うがままだ、ということだぞ。
クレーニヒ殿は何か聞いておられないのか。」
「ここまでの手練であれば、解決までに都市上層部がどれだけ犠牲になるか分かりませんし、致し方ないことかと私も思います。
これまで、私も報告書を何度も拝見致しましたが、記憶する限り、足取りはおろか、単独犯なのか複数犯なのか、トーネルト邸宅に犯人が侵入したのかそうでないのかすら定かではない・・・。
今日の事件も全く同様なのではありませんか?
クラーク卿のご家族や後継者への配慮は必要だと思いますが、我々運営陣からすると、今回犠牲になったのが一人だったことに首謀者へ感謝せねばならない状況なのです。
全滅させようと思えば全滅させることができるがしなかったことに感謝しろ、と言外に言われているのです、我々は。」
「・・・不甲斐ないな、こんなにもどうにもならない状況というのは・・・。」
「ここだけの話ですが、統括委員長が、もし首謀者側から正当な主張があれば認めるつもりもある、という内容の密書を領主様から預かっておられました。
ですので、あまり深入りするのもよした方が皆さまの今後の為には良いと助言致します。」
「・・・となると、よもや、トーネルト事件は領主様の・・・。」
「不敬だぞ、ドーイー殿。
それに、不用意でもある。
不確実なことを不用意に発言すべきではない。
誰の耳があるかもわからんのだぞ。」
「・・・申し訳ない、ありがとうシモン殿。」
「統括委員長もひょっとするとそういうご配慮もあって封印指定とされたのかもしれませんが、一役人である私には分かりかねます・・・。
とにかく、お伝えすべき内容はこれで全てです。
もうクラーク卿の御遺体の搬送も終わっている頃でしょうから、私は現場の処理に向かわねばなりません。
申し訳ありませんが、各々の部署に戻られましたら、文書には残さず、口頭でこの件への箝口令を実施、書類関係を全てまとめて保管封印作業に取り掛かっていただけますでしょうか。」
「「は、了解致しました。失礼します!」」
ドーイーとシモンを送る馬車が本庁を出発し、それを見送った統括委員会付きの本庁舎勤めの事務官であるアンドレイ・クレーニヒは胃が絞られるかのようなストレスを感じていた。
ドーイーもシモンも善良で優秀な隊長であり、彼らに意図的に意識誘導するかのような情報を与えなければならなかった。
それが例え意見することが許されない上司からの指示だったとしても、自分の心は軋む。
と言っても、ドーイーはともかくシモンは気付いていたかもしれないが・・・。
そして、統括委員会で貴族の一人であるクラーク卿が毒殺されたというのに、”たまたま”医者が本庁舎内にいて、それが”たまたま”毒に詳しい医者で、”たまたま”委員長以外誰も知らない書簡と今回の事件後の委員長の決定した指示がほぼ同一であることを、関連付けて考えれば、今回の事件の流れを把握している者なら誰でも分かる。
今日の事件は『内部の犯行』である、ということが。
そして、今から打合せの次第を報告しに行く上司こそがその内部犯行の首謀者、もしくは実行犯であることを半ば知った上で向かわねばならない。
「失礼します。アンドレイです。」
「入れ。
・・・彼らは行ったか。」
「はい。しかし、よろしいのでしょうか。」
「これで良い。
領主様からの書簡は、直々の書面で
『状況証拠と人的被害を鑑みて、今回の事件の解決は困難と考え、この事件に関するこれ以上の捜査を一旦打ち切りとし、同様の事件が発生するまでは封印とする。もし実行した犯人から、認めるべき内容の犯行声明があったとしたら、領主の権限でそれを認めることも辞さない。』とあった。
その旨の会合の途中でクラーク卿が亡くなったのは非常に残念ではあるが、議会の決定と領主様のご指示はほぼ同様のモノだ、封印処置で問題はなかろう。
おそらく、今日の事件の犯人は、この書簡の存在を知らなかったのだろうからな、せめて今日の会議の後に犯行をためらってくれたならよかったのだが・・・。」
内心では、失笑すらわく話だ、どの口がそう言うのだ、と。
レギルジアは若い都市であり、開拓都市から昇格したのは最近のことである。
各都市の運営を担う者達は、開拓都市から昇格する際、必ず都市ごとに自分達のポリシーを掲げて都市運営していくことを決めている。
レギルジアは、都市開拓の先陣を切った中央貴族だった先々代の領主様が、中央貴族の身分を捨てて開拓都市長として生涯働き、人生を40年の開拓で終えた偉業を名に残すため、領主家の名を取ってレギルジアと名付けられた。
その先々代領主の献身を讃え、ここレギルジアでは領主を中心として都市を全ての者達が盛り立てることを至上とする方針が定められた。
政治にあたっては、領主様の決裁を必ず得ることを義務付け、都市の発展に全力を傾けることを誓い、政局闘争を愚とする一致団結を至上方針とする、という目標を徹底し、順守することを目標としている。
だが、このレギルジアで最高指導者に相当する領主様は、無能ではないが、内政については上がってきた書類の決裁のハンコを押すくらい、統括委員会内は子飼いの副委員長へ丸投げしていると言ってもいい。
逆に、外部の都市との交流、外交といった仕事は積極的に動いており、自分を中心に効率的なシステムを構築して自分の仕事としており、現在の主な活動は都市を代表する首長としてではなく、言ってみれば外務大臣のような役割を担っている。
トーネルト事件の犯人は都市外の暗殺者の可能性が高いと思われる、というシモンの報告書の話と合わせて考えると、都市外の手練れの暗殺者を雇う伝手と資金力があって都市内の貴族を誅罰しようという首謀者は動機以外の要因で消去法で容疑者を消していくと、最終候補になるであろう容疑者は、都市外の有力者と懇意にしていて、かつ資金力もある領主様が第一候補だ。
だが、領主様がどういった動機でトーネルト男爵の一族郎党を、表立って取り潰しという形を取らず、表に出せない方法で全滅の憂き目に合わせたのかは分からない。
動機だけでいうと、アンドレイを含め一部の人間しか知らない繋がりの方にも懸念がある。
トーネルト男爵と敵対する貴族と、アンドレイの直属の上司でもあり統括委員会の副委員長たるアンドレアス・カーディガーは懇意にしており、アンドレアスは自らの派閥を拡大する為にその貴族を統括委員会に参加させたいと思っており、席が空くのを待っている状態であったことをアンドレイは知っている。
又、領主様と直接交流があるのは委員長ではなく副委員長であるアンドレアスであり、プライベートでも領主様とよく一緒に食事をしたり、遊興に赴いているのを知っている。
アンドレアスが委員長に据えられなかったのは、政局闘争を避ける為、領主様と距離の近すぎるアンドレアスを委員長にすると委員会が領主様のイエスマンに染まる可能性があるので、表向きにパワーバランスを取る為の配役だったとも聞いている。
そういう事情を知っている人間からすると他人事のように語られてもある程度推測はできる。
領主様の伝手を使ってトーネルト男爵を暗殺してもらった、もしくはアンドレアスも知らない何らかの外部要因でトーネルト男爵が暗殺された、そのどちらかはアンドレイには分からないが、アンドレアスは領主様からその事件が封印されると聞いて事前に聞いて知っており、それに乗じて今日の事件を計画したのだろう。
トーネルト事件に関連した会議にて委員会メンバーを無差別で一人殺害する様を装って何らかの方法で恣意的にクラーク卿を毒殺し、自分の子飼いを富ませ、委員会の派閥の幅を広げようとしているのだろう。
自分は副委員長の部下であるので、委員長の部下であるクラーク子爵を悼むのは派閥の一員としては正しくないのだと思うが、かなり遅い結婚で委員長の娘と結婚し、確かまだ結婚して5年くらいで子供も去年生まれたくらいだっただろう。
本当に可哀想に思う。
「なぁに、実際にこの件は、相当レベルの高いヒト族の、それも都市外の暗殺者の犯行なのはほぼ確定だろう。
大規模な事件や貴族が関わった事件は大抵資料に目を通してはいるが、こんな事件は私も生まれてこの方目にしたこともないし、耳にした事もない。
シモン率いる調査隊がこれだけ捜査して痕跡が皆無であるということは、今後も同様の事件が続いたりしない限りは捜査自体が進捗しないだろうこと、誰の目にも明らかだ。
シモン・ベルモンドは調査隊の隊長として数々の実績を上げている優秀な調査隊員だ、こんな事件にずっと拘束しておくわけにはいかんし、この事件は封印指定でよかろう。
逆に痕跡を発見し、犯人まで辿り着いた場合には、それはそれでどう解決するのか、という問題があるから、その対策は考えた方が良いかもしれん。
もし、遠距離から指定範囲内の人間を全員毒殺する能力者とかであったなら、自分の痕跡を消すために都市ごと全滅させる可能性もあるかもしれん。
追跡して捕捉しても逮捕・拘束する手段がないのであれば、被害を拡大するだけの愚行はやめるべきだろう。
相手の能力や事情等が分かればまだ対処方法もあるかもしれんが、現況は足跡すら見つかっていないのだ、今現在、逮捕・拘束する手段なしで捜査するのは無謀だというものだ。
討伐を目的として戦貴族の方々が動員してもらえる場合であっても、やはりその手続きの最中に情報が洩れる可能性もある、もし戦貴族の方々よりも強い場合は更に最悪だ、より強い戦貴族の精鋭部隊による報復で都市ごと焼け野原になるかもしれん。
そして・・・もしくは犯行がいずれかの戦貴族の方々の手によるモノだった場合は、それよりもさらに最悪だ。
藪の蛇どころか、洞穴に眠る龍をつつくようなものだ。
下手をすると統括委員会と都市に関連する貴族が全員入れ替わることになるぞ。
それでは元も子もない。
だから、『封印指定』だ、これ以上、我々がクラーク卿の死を追求することもされることもない。」
委員会の決議の前に事件を起こし、元々封印指定とする予定だった事件に見立てて政局闘争の疑いを避けつつクラーク卿を殺し、事件の封印の後押しと子飼いの貴族の委員会入りを推し進める。
極めて合理的だが、極めて利己的でもある。
目の前にいる人物は、知らぬ存ぜぬでまるで他人事であるかのように話すが、”我々が”、という言葉に、一蓮托生である、というような意味合いを少し感じる。
つまりお前にも逃げ場はないのだぞ、と脅されているということでもある。
「それに、クラーク卿の台頭は委員長の権限を強める要因になっていたのは確かだ。
統括委員会は世襲制であってはならない、そういう意味ではクラーク卿の犠牲は委員会の将来の火種を消すことになった。
ある意味、尊い犠牲で委員会内の和が保たれたともいえるだろう。
『一人の犠牲で全てを丸く収める』、それが委員長の判断でもあるのだから、我々は最早何も言うべきではない。
『今回の件の犯人が今日起きた事件の犯人とは別人』であったとしても、な。」
「・・・事件の犯人がこの事件を察して偽装を看破した場合、トーネルト事件の犯人からの報復等はないのでしょうか・・・?」
「あるかもしれんが、我々は立場を明確にした、『お前のことは探さないからこれで勘弁してくれ』と。
もしクラーク卿の首だけでは足らないのなら、私の首くらいはくれてやろう。」
「御冗談を・・・。
副委員長がいらっしゃるから統括委員会は公正な議論の場となるのです、ここレギルジアで政局闘争が皆無なのは副委員長のおかげであることは、委員会のみならず皆知っていることです。
その貴方が真っ先に犠牲になるなど・・・。」
アンドレイは自分の口から滑り出した言葉に、自分で驚いた。
心にもない言葉がこれほどなめらかに出るほど、自分の口は染まってしまっていたのだな、と。
だが、アンドレアスはその言葉が響いたのか、とても満足気な顔をしていた。
「そう言ってくれるか。
しかし、終わったことをいつまでも話していても始まらん。
これからのことを考えよう。
今はとにかくクラーク卿の家の問題を片付けねばなるまい、領主様の館に向かおう。」
「そうおっしゃるかと思い、既に玄関ホールに馬車を待たせております。」
「流石だ、アンドレイ。
では行くとしよう。」
アンドレイはアンドレアスの後ろに付き従い、馬車に向かう。
領主様の館まで15分程度の道行きを同道し、館の内部まではアンドレアスと共に入ったが、館の応接間にはアンドレアスのみが通され、アンドレイは館の使用人達に案内された。
隣室ではなく、少し離れただだっ広い控室に通され、一人になる。
しばらくは出されたコーヒーをちょびちょびと飲んでいたが、飲み終えた頃。
「(くそったれ・・・。)」
小声だったが、我慢ならず言葉が出てしまった。
控室には誰もいなかったと思ったが、不用意だったと周囲を見渡す。
やはり誰もいなかったので、安心し、コーヒーを淹れ直そうかと思案しながら椅子に座った。
(もうこの仕事を辞めるべきかもしれんな・・・。私には向いていない。)
子供の頃は、都市を守るために働く討伐隊に入りたかった。
だが、討伐隊の養成所で3年間鍛錬した結果、”戦闘系アビリティ適正なし””戦闘能力の成長見込み、戦闘センス共に並以下、討伐隊編成は生命への危険性高し””養成所講師から座学等で殊更に高い事務処理能力有りとの報告有り””本庁舎の事務官に空席有り、そちらに推薦する”。
という流れで事務官にはなった。
事務官の才能はあったようで、統括委員会付きにまで上り詰めた。
だが、トーネルト事件もそうだし今日の事件もそうだが、この仕事を続けていくことに耐えられそうにない。
どうやら自分には悪党の才能はないらしい。
全く以って納得できないし、心はいつも逆立っている。
委員会付きの事務官次席、副委員長付きであるプロであり、仕事をこなすことにプライドも持っているので仕事に手を抜くつもりはないが、拭えない罪悪感、ねばりつくようなストレスを発散しなければ自分の心が壊れてしまうような気がした。
都市のポリシーである一致団結など表向きの表面だけで、内部には汚い政局闘争は存在している。
ただ、領主様が”一応”委員会から上がってきた議案についてのかじ取りをしており、アンドレアスであってもしっかりと、必ず、委員会を通して議決を取っているので、体裁上は領主様を至上としてる状況となっているのでタチが悪い。
領主様の手元に至るまでの裏の派閥争いは隠しきれていないが、内政については報告を受けて数値としては状況を把握はしていても、領主様は委員会の派閥の内情については詳しくない、というか興味を持たれていない。
領主様が副委員長と懇意にしているのも、元々2人が幼馴染だったということもあるし、委員会を掌握するために行われているものではないのは知っている。
領主様が外交に出た際にどこの誰に何を送ろう、とか、どこの都市の領主や戦貴族、有力貴族からお誘いが来ているがどこを優先するか、とか、どこの誰と誰が政略結婚するそうなので結婚式に出席するか書簡を送るか決める、とかそういう外交的な打合せをすることが多いので、実質仕事のようなものでもあることも。
そこで出た話から領主様は思いついた方策を統括委員会の議案に挙げる常識的な部分もあり、しかもそれもちゃんと議決に決定を委ねて強行するわけでもない。
傲慢さもなく、一応アンドレイが知る限りは差別的な意識も一切なく、貴族は元より一般人や平民にも平等に接する為、一般層からの支持も厚い。
外部の都市との交流・外交はしっかりこなしており、外部の評価は高いが、それに伴う出費に糸目をつけない浪費癖もある程度に貴族的ではある。
世間的に見ればこれくらい、存在として”良い領主”然としている訳だ。
だが、一般的に見れば有能な領主であったとしても、悪意や差別的意識がなくても、”悪行”は数多く行われる。
アンドレアスの今日の領主邸への訪問は、クラーク卿暗殺の成功とそれごとトーネルト事件の封印に成功した報告、クラーク卿の遺族と委員長を納得させるだけの手厚いアフターフォロー、それに伴って自分の子飼いの貴族の委員会への招聘、新規参入の提案、そしてそれを受け入れてもらえた場合の対価の提案も行っているのだろう。
何せ指示を受けてその提出書類の大半を作ったのがアンドレイなのだから、提出したであろう書類の内容はほぼ知っている。
「(せめてグラニ隊長やベルモンド隊長を含めた彼らの旗下の隊員たちの善性に報いるような報酬を、予算から捻出できないか本庁の事務官たちに検討させよう、最早私のストレスを少しでも晴らす為にはそれくらいしかない。
こんな反吐が出る仕事がしたくて事務官になったのではないのだからな・・・。
最前線で働く者達に報いるシステムを構築しよう、それが私の最後の仕事だ。
終わったら、身の安全を確保して、職を辞そう。
何、戦闘はできなくとも肉体労働に身をやつすくらいならできるはずだ。
いや、事務官の仕事であっても他領であれば・・・。
そうだ、いくつか候補を挙げて、懇意にしている方に書簡を送ってみよう・・・。)」
周囲に人がいないことを確認していたので、小声なら問題ないだろう、と考え、一人の時に議案をまとめる時のようにブツブツと小声で一人言を呟いていた時、耳元から極小の声が聞こえた。
「(アンドレイ・クレーニヒ。
聞こえますか?)」
「っ!?」
誰だ。
いや、周囲を見回しても誰もいない。
空耳か?
「(アンドレイ・クレーニヒ統括委員会副委員長付き事務官次席。
聞こえますか?)」
聞こえる。
蚊が喋るかのようなか細い声だ。
喋っているのは少女・・・いや、幼女と言ってもいいような声だ。
まさか透明になって隠れているのか?
声だけをどうやって届けているのか?
耳元で音が鳴っているような気もする。
「(聞こえる。一体何者だ。)」
「(良かった。私の名前はヴァイラス。
貴方のいる部屋の机に、錠剤が入っています。)」
「(何のことだ?)」
「(どう使うかはお任せします。
何処で手に入れたか聞かれた場合は、ありのまま、”この屋敷のこの部屋にあった”とおっしゃっていただいて結構ですよ。)」
「(どういうことだ・・・?)」
「(私の名前はヴァイラス。覚えておいてください、アンドレイ・クレーニヒ。)」
ダンダン、と従僕が控室の扉を叩く音が聞ける。
嫌な予感しかしない。
外から自分を呼ぶ声は悲壮感の漂うものだった。
「大変です、アンドレイ様!!
アンドレアス様が急にお倒れに!
アンドレイ様をお呼びになっています!」
「すぐ行く、先に医師を向かわせてくれ!」
ヴァイラスと名乗った何者かの仕業なのか?
・・・確か机に錠剤が入っているという話だった。
開けてみると、確かに錠剤の入った、美しい装飾のついた透明の小さな薬瓶があった。
薬瓶の下には、”解毒薬”とだけ書かれた紙が挟まっていた。
本物かどうかは分からないが、一応、持っていくことに決めて、懐に入れ、アンドレアスの元へ向かった。
そこには、青ざめた領主様と、苦悶しながら床で体を丸めて息も絶え絶えに呼吸をするアンドレアスがいた。
「アンドレアス様!!」
「アンドレイ!
アンドレアスが急に倒れたのだ!」
「うぅ・・・。
毒・・・ですかね・・・。
はは、・・・まさか・・・話していた通りになるとは・・・。」
「しゃべるでない、アンドレアス。
一応、医師は呼んでもらっているが、まだきていない。
アンドレイよ、アンドレアスの治療は出来ぬか?もしくは、何か知らぬか。」
「アンドレアス様は現在、病でもありませんし、持病という持病もありません。
本日の出来事の流れから考えますと、選択肢は限られるかと・・・。
となると、解毒剤が必要になるかと思いますが、医師の診察が必要かと思います。」
「やはり、そうか。
しかし、アンドレアスが用いた毒とは症状が全く違う、これは死に至る毒なのか?」
「申し訳ありません、私は毒には詳しくなく・・・生命の危機にまで陥るかは分かりません。
ただ、実はこちらの部屋に来る前に、控室でこのような薬瓶を見つけました。」
「解毒薬・・・!?
どういうことだ!?」
「分かりません、ただ、私が来た時には既に机の引き出しに仕込まれていたようです。」
「・・・実行犯が、ここに来るまでか、ここに来てからアンドレアスに毒を盛り、更に解毒薬もこの屋敷に置いて行ったと言うのか?まさか警告のためにか?」
「分かりません、ですが、この解毒薬をアンドレアス様に服用してもらわなければ生命に危機が及ぶかもしれません アンドレアス様、聞こえますか、どうされますか?」
「はぁ、はぁ・・・ぐぅ・・・飲む、その薬を、くれ・・・。」
アンドレアス様に薬瓶に入れられていた錠剤2錠と、水を渡し、服用を確認した。
飲んで1、2分もすると、急激に症状は緩和したようで、アンドレアス様も落ち着いたようだった。
どう見ても特効薬と言って過言ではない解毒薬だったようだ。
人間を卒倒させるほどの毒を身体に浸透させた後に、その症状を一瞬で治癒させるほどの特効薬等、
そこらに転がっているとは思えない。
おそらく犯人が自分や関係者を癒す為に毒を作成した時に同時に作成した治癒薬だろう。
「はぁ、はぁ・・・。
お見苦しい所をお見せ致しました、申し訳ありません、ご領主様・・・。
助かったぞ、アンドレイ・・・よくぞ薬を見つけてくれた。」
「そうだな、これはアンドレイの功績だ。
とりあえず安静にしておれアンドレアス。
医師は呼んである、別室で治療を受けるといい。」
「お気遣いありがとうございます。
・・・おそらくこれは私への懲罰ですね・・・。
誰かは知りませんが、随分いい耳と手を持っている。
どうやら私の不用意な行動が招いたことのようです・・・。」
「で、あろうな。
この薬瓶を見ろ。
これはこの地より遠き領地を治めておられる戦貴族、”白”の領地特産品の装飾ガラス瓶だ。
この辺りでは出回ってすらおらん、私ですら来客用のワイングラスでいくつか持っている程度だ。
わざわざこんなもので薬を寄越す意味など、一つしかない。
分かるな、アンドレアス?」
「そのような希少な、高価な薬瓶を警告の為だけにポンと出せる資金力、領主様の館に侵入し、私に毒を盛り、その解毒薬まで誰にも感知されずに用意できる能力を持った組織か個人に、手を出してしまったようですね・・・。
私だけに毒を盛られたということは、首謀者まで確認した上で『余計なことをするな、次は殺すぞ』と言いたい、というところでしょうか。」
「命まで取られなかったのは、犯人にとっては何らかの関連で利用価値があるのだろうな。
・・・殺すつもりがあるなら、お前だけでなく私も、この館にいる者全てが簡単に殺せるのだろうよ。
全く恐ろしい犯人よ。
よもや我が館に逗留する全ての者に気付かれずにこのような工作を許すとは・・・。
面白い。」
「面白い・・・ですか?」
「我が館には、北方開拓区を管轄する戦貴族、”灰色”のアキナギ家から分家筆頭アキナギ・ホノカ殿が領主邸の警護責任者として来てくれている。
彼女は対人・索敵に優れた護衛のエリート、本家を含めてもトップクラスの実力者だ。
アンドレアスは勿論、アンドレイも彼女を見たこともあると思うが、彼女の元来の性格は臆病だったらしく、常時・・・そう、日中も食事中も入浴中も就寝中も、絶えず24時間365日、半径300m以内の人間やモンスター等、自分に脅威を及ぼす可能性のある存在を常時索敵することでようやく安心して生活できるほどの警戒心の持ち主なのだそうだ。
本家の方々の索敵能力はもっとすごい、と彼女は言っていた。
我々のような非戦闘員には考えられないほど過酷な訓練を積んで、戦貴族が領主の護衛として派遣しても問題のないレベルまで仕上げられてから、ようやく警護業務につくことができるのだとも言っていた。
もしこの館でテロなり窃盗なりするには、まず彼女を無効化するのが必須事項であり、事実ここ5年で彼女の監視の網を抜けた者は存在せず、・・・いや、例外ではあるが一人だけ、彼女に捕まらなかった人がいたか。
まぁあの方のみだから、ホノカ殿の名誉の為にも言っておくと例外を除いて皆無と言っておこう。
話を戻すが・・・今起こった事件に対して、ホノカ殿はアンドレアスが倒れた瞬間から動き始めてくれてはいるが、いつもであれば事が始まる前には動き始めてすぐに発見・捕縛し、誰かを使って報告は上げてくれている。
そんな彼女に捕捉されず、事件の障害として排除すらせず、3時間前に起きた事件の報復に即応するなど、最早、通常の人間に可能な沙汰ではないな。
レベル100であるホノカ殿を欺きながら完璧な手腕で処理している辺り、ひょっとするとレベル100を大幅にオーバーした化け物かもしれん。
つまりは守り神クラスの化け物も絡んでいるかもしれんということだ。
何にせよ、両手を上げるどころか、両膝と額を地面に擦り付けながら助命を乞わねばならん。
ただ、そこまでの存在にまだ殺されておらんのだ、我々は自分達の能力を誇っていい、利用価値があると思ってもらえたのだからな。
聞こえているかな、犯人殿。
我々はどうしたら貴方から許してもらえるのかな?
いるのだろう?」
アンドレイは言葉に出来ない思いを抱いていた。
犯人がアンドレアスに毒を盛った方法も、解毒薬を用意した方法も、自分の耳に何処からか囁いた言葉を届ける方法も、全て検討もつかない。
ドーイーやシモンに自分も言ったことだ。
領主様の言う通り、殺されていない、という事実に感謝しなくてはいけない状況であるのだ、今は。
ゴクリ、と唾をのみ込む音が響く。
自分の喉の音なのか、と驚くくらいの音に感じる。
領主様は服装を正し、膝と手をついて、額を地面につける。
「私、衛星都市レギルジアの都市長であり近隣領地の領主たるスターリア・モルスト・レギルジアが申し上げる。
我々は貴方を一切追わないし、貴方の手に一切抵抗しない。
可能な限り、望まれた物を用意し、献上する。
どうか姿を見せてくれないだろうか。
言葉を聞かせてくれないだろうか。
私は貴方を崇拝する。」
領主様の言葉は、色々な含みを持っていた。
地方貴族のカーストの中でも最上位に近い侯爵の地位にあり、最敬礼を超えた降伏の礼である土下座をする姿はアンドレアスですら見たことがないだろう。
だが、犯人はそんな人の館で、戦貴族分家筆頭クラスの戦闘エリートを欺きながら容易に犯行に及び、トーネルト事件を含めて、ここまで犯行声明を一切上げていない。
そして、捜査不能であることは今起きてる最中の事件でも明らかなことだし、抵抗不能であることはホノカとアンドレアスで証明してしまっている。
超高級品である薬瓶を脅しに使う程度には資金に余裕があり、これだけの手練れなのであればその界隈では神に等しい階級にいることだろう。
であれば、望まれた物はきっと用意しなくても、この犯人なら全て欲しい分だけ自分の力で手に入れることができる。
それは、領主様、アンドレアス、アンドレイ、戦貴族であるホノカ、その他諸々の命であっても例外ではない、と考えているのだ。
領主様は完全に全てを理解して呼び掛けているのだ、完全にお手上げであることを理解している、と。
いや、お手上げを超えてしまったが為の話かもしれない。
歴代貴族は100%に至るレベルで建国王を自らの王であると定め、崇拝している。
例外はなく、どの都市であっても、領主様になろうともいう貴族になると、自分の先祖よりも建国王を神の如く崇拝し、定期的に霊廟へも足を運び、詣でている。
ヒト同士の強力な結束で守り神やモンスターからヒトの生活圏を確保してきたヒト族にとって、ヒト族同士での権力闘争はご法度、そして戦貴族達の選出した王の決定は絶対であり、そこには神にも等しい崇拝がなければ反感が発生するものだからだ。
本来であればそう存在を規定されている上位貴族が宣誓する。
ある種、これは叛逆であったとも言える。
これが、犯人の心に適ったのかはわからない。
だが、返答はあった。
【私の名はヴァイラス】
荘厳な声がその場にいた3人の耳元で響き渡る。
その声を聴いた瞬間、3人は同時に人生が塗り替わるような強烈な多幸感を感じた。
アンドレイも、気が付いたら膝立ちになり、手を組んでいた。
無意識に、神に祈るかのような姿勢になってしまっていたのだ。
領主様は顔を上げていたが、その顔は最早変質者の域に達しているかのような表情だった。
「(不味い、ひょっとしたらこれは麻薬の類ではないか!?)」
そういえばこの声の主は、レベル100の戦貴族を欺きながら誰にも知られずに、アンドレアスに毒を盛った犯人だ、ひょっとしたら三人とも麻薬を何らかの形で体に入れられたか!?
自分でも考えられないほどの多幸感に不信感を抱きながらも、自分の体は祈りの姿勢から動くことはなかった。
「おぉ・・・女神、ヴァイラスよ。
なんと美しく心地よい声なのだ。
私は貴方に従属致します。」
「りょ、領主様・・・!いけません・・・!
そのような発言、もし王家に伝われば・・・。」
「構うものか。
アンドレアス、アンドレイ、お前たちには分からないのか。」
領主様は立ち上がり、両手を広げて天井を見上げた。
まるで、目の前に宝の山を見つけた冒険者のような清々しい顔だ。
「女神ヴァイラスは、我々を殺すつもりはないのだ。
殺すつもりなら、おそらくレギルジア全住民も即殺可能なのだ。
私には分かる。
トーネルト男爵達も、アンドレアスも、毒を盛られたのではない。
”体の内側から冒された”のだ。」
「体の、内側から、冒された・・・?」
「そうだ。
この尋常ならざる多幸感は、まさしく人体の脳内麻薬の異常分泌が原因だろう。
私は元々『来訪者』だ、前世の記憶から、そういったものがあるのは聞いたことがある。
そして、アンドレアスが倒れたのはおそらく心臓の鼓動に関する障り。
トーネルト事件に関する被害者は、皆もがき苦しんだ末、上から下から全ての体液を撒き散らしながら死に絶えた。
これらは呪術でもなければ毒でも病気でもない。
本人の意思を無視して肉体を思うように操作され、被害者の意思に背いて被害者本人の身体が自らを害したのだ。
おそらくそこに距離も、時間も、関係ないのだ。
女神ヴィーラが”そう”と思えば、武器も毒も病もなくとも、対象は自らの身体の制御を気付かぬうちに奪われ、我々のように、トーネルト男爵たちのようになるのだ。
つまり、女神ヴァイラスはまさしく神たる存在なのだ、違うか?」
「おぉ、なんということだ・・・。」
「まさか、そんなことが・・・。」
いや、確かに合理性はある。
シモン達、調査隊の上げてきた調査報告書を読んで何回も考えたことだ。
トーネルト邸に犯人は出入りしておらず、呪術が行われた訳でもなく、病が広まった訳でもなく、死体に残存する痕跡を残さない毒を一人一人にわざわざ注入して殺したとしか思えないが、そんなことが可能な人間がいるとはとても思えない、と。
いっそ、都市の外縁部にあたる地域一帯で発生した事件で、かつ惨殺事件が頻発していたのなら、都市外から侵入した強力な殺人者や魔獣等の仕業だろうかとも推測できるが、都市の中心部にほど近い場所で、そこだけが襲われ、事件前後に一切目撃者も痕跡も残っていないという例外極まりない事件なのだ。
【スターリア・モルスト・レギルジア。
貴方は真に私に従属を誓うのですか。】
「女神ヴァイラス、貴方が望むのなら、きっと何もかもが叶うでしょうに。
私ごとき一地方都市の領主など、息をするよりも容易に殺せるのでしょう。
そんな貴方が、失礼を働いた私を生かしてくれている。
神である貴方が、私に何かしらの価値を見出してくれている。
それだけで私には従属するだけの意味があるのです。」
【ならば、いくつか『注意』だけを伝えておきます。
一つ、本日行われた便乗事件のようなものは今後、類似事件も含めて一切を認めません。
これは貴方がたであっても、その他の者であっても同様です。
関係者全てを殲滅します。
ですので、重々気を付けるように。
もし私が行った殲滅であれば、貴方たちには分かるようにします。
そして、私の殲滅を代替しようとする者も許しませんので、神の代行者を自称するような輩の命の保証はしません。
二つ、『私』について、戦貴族などから求められた際には貴方がたの知る限りにおいて報告することを許可しますが、虚偽を用いての誇張・誇大報告は許しません。
知ることが出来たことのみを正確に報告し、私の言葉をそのまま伝えなさい。
私は、生命を司る者、ヴァイラス。
私を信仰する者へ病等の耐性の恩寵を与える者です。】
「全て了解致しました、女神ヴァイラス。
お言葉のままに。」
【では、早々に私に従属を誓った貴方に、一つだけ私の恩寵を下賜しておきます】
何も存在しなかったはずの領主様の右手の甲に、突然謎の紋様が現れる。
最早、神の御業であることは疑う術もない。
領主本人は勿論のこと、傍で見ていたアンドレアス、アンドレイも神の御業を見た感動で打ち震えている。
「女神ヴァイラス、教えて下さい、これは一体何なのでしょうか。」
【『鑑定』等では能力を判別できない、毒、病、呪いなどの状態異常を完全に防ぐ完全耐性を秘めた紋様です。
又、その紋様が現れている間のみ、一度、装備者の急所への攻撃を完全に防ぐことができます。】
「おぉ・・・なんという・・・。
有難く頂戴致します!」
「ということは・・・これで領主様は一度に限り、暗殺から完全に身を守れるということですか。
しかし、人間の命が通常一人一つであることを思えば、破格の恩寵ですね・・・。
流石は生命を司られる神、女神ヴァイラス様。
我々二人の信仰もお受け取りいただけますでしょうか。」
「貴方こそはまさに神でございましょう。
このアンドレイ、女神ヴァイラス様を神と崇め、崇拝致します。」
【構いません。
貴方がたの生活が安寧なることを祈ります。】
「「「ははぁ!」」」
唐突に、自分を覆っていた多幸感が薄れ、現実へと引き戻される。
そしてその落差と、領主様の右手の紋様が、女神ヴィーラの存在をその場の3人に示していた。
アンドレアスなど、突如芽生えた信仰心からか、跪いて祈る姿勢から微動だにしていない。
「ご領主殿!!
何があったのですか!?」
外部の確認に走り回っていたアキナギ・ホノカ嬢が報告に部屋に入ってきたが、確かにその景色はいきなり見たら全く理解できない場面だっただろう。
領主様は幻覚で宝物でも見つけて歓喜しているような体勢だし、アンドレアスは教会の神像の前で跪く敬虔な僧侶もかくやという姿勢だし、自分はと言えば呆けるようにボーっと虚ろな目で前を見ているだけだったのだ。
三者三様に意味不明な状況であり、傍目から見るとこの状況はカオスだろう。
「我々3人は、女神・・・そう、神の降臨に立ち会ったのだ。
そして私にはこれを授かった。
ホノカ殿は、何も感知できなかったのでしょうか?」
まるで自慢げに手の甲をホノカに見せびらかすかのようにした領主様は、新しいおもちゃを買ってもらって友達に見せびらかしてマウントを取ろうとする子供のような屈託のない純粋な笑顔だった。
ホノカは訝し気にその顔と紋様を覗き込んだが、記憶にある様々な紋章や紋様のどれにも該当しないようだった。
部屋の隅々、天井付近まで全て確認したが、特に何も痕跡が見当たらず、訝し気な顔はそれより良くなることはなかった。
「・・・貴方がた以外は、ここ数分この場に存在したという反応がありませんでした。
空間の揺らぎや透明化を無効化するパッシブソナーでも300m圏内に歪みすらありません。
・・・本当に何者かがここに現れたのですか?
女神ということは・・・女性?体格はどのくらいありましたか?服装は?」
「姿形については何も分からん。
流石に姿は見せていただけなかった。
だが、その麗しい美しい声は、まさに女性だと感じた。
女神、とお呼びしても訂正を受けなかったのでおそらく間違いないと思う。」
「・・・アンドレアス殿、アンドレイ殿、間違いありませんか?」
「あぁ。
領主様のおっしゃることに間違いない。
女神に誓って、虚偽は言っていないことを保証する。」
「私も同様です。
あの声の主こそ、まさに神でしょう。
情報が必要なのであれば提供致します、女神ヴァイラスから、正確に伝達する場合に限り、情報を共有することを許す、と伺っておりますので、『女神である』ということは間違いないと私も保証致します。」
「アンドレイ殿まで・・・。
・・・ご領主殿、その手の紋様、書き写させていただいても?」
「構わないが、触れるのは勘弁してほしい。
神から下賜された貴重な紋様なのだ、もし貴女に何かあると大変だ。」
「・・・アンドレイ殿、あとで少し宜しいか?」
「アンドレアス様の送迎の役がございますので、お帰りになられるまででしたら。」
「結構。
アンドレアス殿は回復されたようですが、医療班に治療させますので、医療室まで介添えを就けて移動なさってください。」
「了解した。
ホノカ殿に従おう。」
ホノカは何やらの術式を発動させて領主様の手の紋様を書き写しているようで、書き写された紙に描かれた紋様は寸分の狂いもないように見える。
作業が完了したホノカは部下を集め、何やら指示を出した後、アンドレイの元に来た。
「お待たせしました、アンドレイ殿。
あの中で一番お話される内容について信頼できると思った貴方に詳細を伺いたいのですが、宜しいですか?」
「構いませんよ、ホノカ殿。
まず、我々に語り掛けられた神は、生命を司る神、女神ヴァイラス。
そして、詳細を語る前に一つだけ、女神ヴァイラスは『正確に我々が理解した情報を伝える場合のみ許す』とおっしゃられておりましたので、知る限りのことのみをお知らせします。
推測を挟んでお伝えした場合我々もどうなるか分かりませんし、もし言伝で虚偽や誇張過少表現が入った場合、我々を含めて貴方がたもどうなるか分かりません。
それを理解した上で聞いてください、危険を冒すリスクをとりたくないという場合は、説明が必要とするなら私が出向くよう手配致しましょう。
さて、簡単に表現しておきますと、彼の女神様は、そこに存在したことすら貴方に悟らせずに、アンドレアス様に死に至るほどの体調不良を何の脈絡もなく起こし、私の手元に解毒剤を用意し、アンドレアス様に警告をお与えになりました。
その際の強烈な多幸感は、人間の本能を直接刺激するようなものでした。
これに関しては私の身体のことなので推測を述べさせていただきますが、血液などを調べていただいても構いません、薬・・・麻薬のような物は一切検出されないでしょう。」
「・・・それは暗殺者が非検出性の毒を盛ったとか、その解毒剤を用意していた策略などではなく、ですか?」
「私や領主様、アンドレアス様は勿論戦闘能力は一般人並みですので、ホノカ殿レベルの暗殺者がいたとしても察知は不可能だったかと思いますが・・・これはそういったものではないと思います。
というのも、・・・いや、何にしても推測になってしまいますね。
私が述べられる事実はそこまでです。
正直なところ、私は自分が幸福である、と感じると共に、恐ろしいとも思っているのです。
生命を司る神、女神ヴァイラス。
正直、行政上、知っておかなければならない八百万の神の主要な神々の名は知っていると思っていた私でも、その神聖なる名はお聞きしたことがなかった。
しかし、その存在感、その能力、そのお役目は最早、主上の神と言っていいでしょう。
生命という我々の実感の伴う分野を司るお方であるが故か、我々が今まで信仰してきた神とは明らかに違う現実感を伴っており、しかしかと言えば通常ではありえないほど、自動的に身体が動いて祈る姿勢を取ってしまうほどの、本能に訴えられるほどの存在感。
様々な八百万の神の話は聞いた事はありますが、口伝で伝わる神々を最初に目の当たりにした者は、皆こうなったのだろうか、とか、色々考えさせられたりしております。
王族の方々に叛旗を翻すつもりは毛頭ありませんが、こればかりは体感してしまうと信仰してしまわざるを得ません、女神ヴァイラス様はそれほど、圧倒的で絶対の能力を持っていらっしゃるのは間違いないのですから。」
「・・・ひょっとして、アンドレイ殿がそうお感じになられたのは、今おっしゃられた事以外のことが背景にあるのですか?
確か、本日はトーネルト男爵の邸宅で起きた事件の会議が行われていて、その際にクラーク卿が倒れたのだと聞いておりますが・・・その辺りと関連が?」
「これは推測になるので申し上げられませんが、私が女神ヴァイラスを神だと信じるに能う根拠については、その辺りに経緯が存在した、という事実だけは申し上げておきます。
ただ、どなたに報告なさるのかは知りませんが、事実に即した部分以外についてはそれ以上の推論を行わないようにしてください。
私の身一つが犠牲になるのであれば大きな損失はありませんが、戦貴族の方々に被害が出た場合は人類にとって大きな損失となりますので。」
「・・・つまり貴方はその女神様に処罰される場合、我々戦貴族の人間でも容易に殺される、と、それほど絶対的な能力があると、そうおっしゃっているのですね。
・・・貴方がたがそこまで唐突に信仰に目覚めるとはとても信じられないのですが、念のために洗脳されていないかの検査をさせていただいてもよろしいですか?」
「えぇ、その辺りは調べて下さい、私自身も気になるところでして・・・。
ですが、彼の御方の能力は本物です、これに関しては、最上級の警戒と、最上級の崇拝が相応しい。
しかるべき方々への周知が済みましたら、箝口令の施行をお願いしてください。
こちらも私の権限の許す限りの最大限の箝口令を敷く予定ですので、その旨は重々お伝えください。」
「・・・分かりました、となると頭の悪い私では粗相があるかもしれません、お言葉に甘えますが、事情聴取の召喚があった場合は、アンドレイ殿にも同道していただいても宜しいでしょうか。」
「構いません、それが無難かと私も愚行致します。」
「ありがとうございます。
しかし・・・。」
「しかし?」
ホノカの目線は、彼女が尊敬してやまない、自分よりも遥かに幼いが比較にならないほど優秀な姪のいる都市、カンベリアを向いていた。
「ヒノワ様には私から報告することになるでしょう。
こんなことを言ったら怒られるかもしれませんが、あのお方にとってそんなに”面白そうな事案”を報告して我慢できるのかが想像がつかないのが心配です・・・。
もし興味を持たれた際には私にはお留めすることができないのですが・・・アンドレイ殿、御助力いただけますか・・・?」
「・・・私がお力になれるかは分かりませんが、万が一にホノカ殿とヒノワ様に害が及んではいけませんし、ご報告の際はご連絡下さい。」
「助かります。」
その日から、レギルジアは少しずつ変化していく。
アグリア商会で各資材の手配を取りまとめる番頭のメッスビィは今までにない種類の発注が相次いでいることに気付いた。
普段は修繕等に必要な資材だけのやり取りだけで小規模な取引が多い、取り扱いの少ない特殊な建築資材の発注が、かなりの金額に上っている。
請求先は領主スターリア・モルスト・レギルジア宛、発注元は神殿建築を専門で行っている業者だ。
そして、今部下たちの報告書に目を通している間にも、領主から石像彫刻の専門家を連れて打合せにきてくれと打診があり明朝訪問すると約束した、と記載がある。
どうにも大きな商いの予感がするが、都市内に広がる情報網に一切何の脈絡もない大きな商いというのは得てして異変を示す一端であることも多い為、気になった。
「ホリガム、ご領主様からのご依頼の品だが、どういう話になっておる?」
「はい、なんでもご領主様の館の一部に、神殿のようなものを新設されるとのことで・・・。
石像彫刻工房の主、レシエル殿と共に明朝、石像や柱の彫刻について打合せにお伺いする運びとなっております。」
「・・・見積ではなく、発注か?
何故、弊社にいきなりお声がかかったのだ、いつもであればご領主様の親友、アンドレアス殿の傘下の商店から様々な物を取り寄せていらっしゃたのではなかったか?
まさか仲違いでうちに声がかかったわけでもあるまいし・・・。」
「いえ、そこまでは私も・・・。
ですが、建築資材卸のグッデンホルン商会も、弊社同様に神殿建築に用いる建築資材の発注があったと聞きましたし、他都市との交易の多い商会にはかなり声がかかっているのではないでしょうか。
おそらく、都市内の商会だけでは賄えないような量の資材を必要としているとか・・・。」
「・・・となると、神殿の新築ではないのか?
しかし、何の脈絡もなく大規模な神殿を、唐突に新築する運びとなったとは思えんのう・・・?
ひょっとすると、ご領主様の御身体の具合が悪いのかもしれんな。」
「どうした、メッスビィ。」
「は、これはアグリア様、丁度ご報告したいお話が今発生したしまして・・・。
こちらをご覧ください。」
「・・・神殿、それもかなり大きな物を新築される予定のようだな。
しかし、何故また急に・・・?」
「ご領主様の御身体の具合が悪いのではないでしょうか?
ご領主様ほどであれば、医師や治癒術者のお知り合いはたくさんいらっしゃると思いますが、既に匙を投げられているような類のモノに冒されているという可能性はありませんでしょうか。
であれば、建国王の威光にあやかり、一種の神頼みを行うおつもりで神殿を新築なさる、ということもありうるのではないでしょうか?」
「いや、おそらくそれはない。
他都市の都市長への贈答品についてアンドレアス殿から話が聞きたい、とのことで先週、顔を合わせて打ち合わせる機会があったが、そういう話は特に聞いておらん。
アンドレアス殿と言えばご領主様の側近中の側近、知っていればその際に私に何か治療法はないか、とか、著名な治癒術者はいないか、くらいの話はあっただろう。」
「確かに・・・。」
「会頭、番頭、これは私が又聞きしたお話なのですが、よろしいでしょうか?」
「お、なんだホリガム、何か知っているなら教えてくれ。」
「私がお聞きした限りですが、何でも『抽象的な女神の彫像について経験のある者が望ましい』とご領主様から伺っている、とご領主様の執事のウェルリーさんから連絡がありました。
抽象的な、という表現は良く分かりませんでしたが、姿形についてあまり伝承や情報のない女神像を造るつもりなのではないか、と思うのですが・・・。」
「女神・・・か。
農家の人間が信仰している豊穣の女神様くらいしか思い当たらんが、メッスビィ、お前は?」
「・・・そうですね、私もそれくらいしか思い当たりません。
今年はレギルジアも豊作ですし、他都市も不作だとは聞いておりませんが・・・。
それに、豊穣の女神様は、豊満な肉体をお持ちのふくよかな女性像、という物が既に多数存在していると思います。」
「そうだな、まぁ詳しくは明日聞いてきてくれ、なるべく情報は多くもらってくれ、頼んだぞホリガム。」
「はっ、了解致しました!」
レギルジア領主が豊穣の女神の神殿を新たに新築する、という噂話がそこかしこから囁かれ、信仰の深い農家達からは大歓迎、というムードが広がっていたが、領主本人から正式な発表が行われるのは一月後だと公布された為、別の女神の神殿が建つのではないか、という推測も生まれ始めた。
民衆はこれはレギルジアの都市への領主の気遣いだろうと、領主様万歳!といった賞賛する声が多く聞かれたが、その一か月という期間は領主・アンドレアス・アンドレイによる各方面への根回しに費やされる時間だったことを知る一般民衆はいなかった。
公布前の根回しとして様々な情報が領主達から有力者を中心にもたらされるが、その情報は様々な推測も呼んだ。
そして、忠告に従わない商魂たくましい商人達は、便乗商法を始めようとした段階で、謎の死を迎える。
中でも一番強欲で有名だった商会に到っては、一番最初に売り始めた者が最も得をする、と、アンドレイの忠告に従わず、適当にでっち上げた美しい女性像の偶像を作成し、これが女神ヴァイラスの姿でありこれを崇めれば長生きできる、と言ったような文句も付けた商品を売ろうとしたのだ。
しかし、その商品開発の話が出た当日の夜、その商会に所属する商人は勿論、その家族や一族郎党、旗下の商人達も含めて200人に及ぶ数の人間が胸に謎の紋様を浮かび上がらせて悶絶して死亡した。
トーネルト事件に続いて原因不明、関係者以外の死亡者や巻き添えの者が存在しない、という恐ろしい事件の再発に、都市内の事件を調査する調査隊、特にシモンを筆頭としたトーネルト事件調査担当の隊の面々を戦々恐々とさせた。
勿論、この話を聞いた領主達3人も顔を青ざめさせ、全力でもって、根回しした面々に忠告を行った。
『決して、商売に連動させるな。
伝えられた情報以外を伝えてはいけない。
余計な推測をしてもいけない。
ただ、生命を司る神を信仰せよ。
でなければ、彼の商会と同じ運命を辿ることになる』
と。
商品開発の打合せを行った当日の夜に都市に広がっている商会に関連する一族郎党が余さず殲滅されたこと、そしてそれらの遺体全ての胸に謎の紋様が描かれていたことも合わせて伝えられた。
公布まで何が起こったのか分からない事件に遭遇した民衆は恐怖と混乱を巻き起こしたが、正確かどうかは不明だが、彼らの元にも女神ヴァイラスは神の声を授けたらしく、事のあらましを聞いた。
声を授けられた民衆は皆一様に跪き、手を組んで祈りのポーズを自動的にとってしまった、と広く伝わった。
一月後、公布が行われる頃には、レギルジアは『生命の女神ヴァイラス』を都市を庇護する女神だと信仰する都市へと変貌を遂げさせた。
公布後、数か月経つ頃には、統治者でなくても気付くほど、極端に流行り病などの病死者が減り、農作物が豊作と呼ばれる年を上回るほどの豊作が続き、都市外に出た猟師による狩猟成果も激増し、都市周辺のモンスター被害が激減し、合わせて危険なモンスターの激減という現象も発生した。
最早、恩寵を疑う声もなく、レギルジアは『生命の女神の恩寵を受けた都市』として近隣都市に噂が広がっていった。




