89 遺言書
「堂本さん、ご面会ですよ」マスクをした看護師が切れ長の美しい目を細めて笑いながら言った。
児玉は奇跡的な回復を見せ、白血病の進行も止まっていた。だが、余命半年の宣告は変わらず、無菌室での療養も続いていた。
「どなたですか」
「東日本電力から来た弁護士さんよ」
「通してください」
「はい」
大柄な檀弁護士がスーツの上からレインコートのような防護服を着て現れた。マスクをしているので、目しか見えなかった。大きなカバンにはビニールカバーが被されていた。背後に医療チームの栗源チーフが立会人として控えていた。
「ご依頼の調査が終わりましたので、ご報告にお伺いいたしました。ご指定の受贈人様、城山香夜子様の本籍住所が確認できましたので、包括遺贈の遺言書を作成しました。堂本様が急性放射線症又はその合併症でお亡くなりになられた場合の賠償金及び慰謝料は、全額を城山様の奨学基金として運用し、これに東日本電力の奨学金を同額上乗せします。奨学基金が必要無い場合には、基金は本人の意思で自由に引き出すことができます。遺言書の存在は生前は受贈人様には秘密にします。遺贈人様及び受贈人様のいかなる犯罪行為によっても、受贈の権利は失われません。これでよろしいのですね」
「いいと思います」
「もしもの話ですが、遺贈者よりも受贈者が先にお亡くなりになった場合はどうなさいますか」
「ありえませんよ。俺は余命半年なんです」
「仮の話です。なにも書かれていませんと、遺産は法定相続になります」
「身内は誰もいません」
「仕事なので調べました。ご両親が津波でお亡くなりになったと市役所にお届けですが、その後、お父様のご生存が確認され、こちらにもご面会にお見えですね」
児玉は宇田川のことかと思い当たった。
「親父には賠償金はやりません。ひどい父だったから死んだほうがよかった。その場合、賠償金は震災孤児のために使ってください」
「承知しました。後で、堂本様の署名をいただきます。立会人の栗本様にもご署名いただき、本日、遺言書を密封します」
「いいすよ」
書類の汚染が心配だったのか、壇弁護士はカバンを1度も開けずに踵を返した。
「あの」児玉が壇の背中に声をかけた。
「なんでしょうか」
「遺言というのは勝手に変更できますか」
「ご本人様の意思でいつでも変更できますし、複数作ることもできます。最後のものが有効です」
「俺以外、たとえば親父が変えるということは」
「それはできません。ただし、堂本様が禁治産者になり、お父様が後見人になれば別です」
「そうすか。すんません、こんな危険な部屋に何度も来てもらって」
「どういたしまして」壇はにこやかに微笑んで退室した。
「堂本さん、別のご面会人様がお待ちですけど、疲れてないかしら」壇が退室するのを待つように、看護師が声をかけた。
「親父なら断ってください」
「とてもお美しい女の方よ」
「女性? 名前は」
「城山香夜子さん」
「通してください」
「わかってると思いますけど、無菌室ですから、キスとかハグとかダメですよ」
「看護婦さん、ドラマの見すぎ。別に彼女じゃありませんよ」
「そう、じゃ余計なこと言っちゃったわ。だけど見たことないくらいきれいな方だし、とても心配そうにしてたからてっきり」
「心配なら盗撮したらどうです。この部屋、ビデオカメラがあるじゃないですか」
「これは研究用で盗撮用じゃないですよ」看護師は安心したような目で、回復著しい児玉の冗談を受け止めた。
看護師と入れ替わりに香夜子が入室してきた。弁護士と同じように防護服を着て、マスクをしていたが、切れ長の目は夢にまで見た香夜子だった。いまどきのモデル顔にするため、目尻を切開し、二重瞼をはっきりさせるプチ整形をしていた。マスカラの腕も上達していたので、目の大きさが倍にもなったように感じられた。それでも潤うような瞳の輝きは同じだった。
「会いたかったです」香夜子は今にも感極まって泣き出しそうだった。
「どうしてここが」
「警察で聞きました」
「警察?」
香夜子はしばらく沈黙してから重い口を開いた。「あたし、モデル事務所の社長を殺しちゃったんです。でも、正当防衛で無罪になりました。事務所は閉鎖、あたし、モデルからまた風俗に逆戻り。来週からから北新地(大阪)のSMショーに出ることになって、しばらく帰れないので、今日はお別れに来ました」
「いろいろあったみてえだな」
「ええ、地震の日からたった1年なのに、ほんとにいろいろあった。20年経ったみたく感じる。でも、堂本さんが生きててよかった」
「市役所の涸沼にはあの指輪を返してくれたか」
「ええ、返しました。でも、あの人、ウソつきよ。あの人だけじゃない、地震の後で出会った人は、堂本さん以外は全部ウソつきだった」
児玉も自分の名前を偽っていた。これ以上のウソがあるか。耳が痛かった。
「涸沼がウソつきとは」
「死体は彼女のじゃなかったの。別のモデルの死体だったの」
「勘違いだったってことか」
「今考えると腑に落ちないの。全部知ってたんじゃないかな。だって、3年前に振られた彼女のためにあそこまでするかな。ピストルを入手してヤクザを襲撃したのよ。しかも彼女は生きていて中国人のお金持ちと結婚していた。それだけじゃないわ。モデルが死んだ事故現場は彼女の旦那の別荘だったのよ」
「さっぱりわかんねえな」
「あたしもわかんない。だけど、なんだか涸沼さんがやってることは全部ウソっぽいのよ。これって女の勘よ」
「ヤクザを襲撃したってほんとすか。それで涸沼はどうなったんすか」
「銃刀法違反だけで罰金刑で済んだみたいだけど、市役所は懲戒免職だって」
「つまり失業か」
「あの人、意外とお金があるのよ。いつもキャッシュで払うの。それにいろんなお店の相場を知ってるっていうのかな、いわき市役所の職員にしては都内の遊びに慣れてるわ。そういうのってわかるの」
「なるほど」
病室の扉をノックする音がした。
「そろそろお時間ですが」看護師がドアの外から遠慮がちに声をかけた。面会時間は5分に限定されていた。
「もう終わります」香夜子が答えた。
「もうちょっとで出るとこだから、待っててよ、看護婦さん」児玉が冗談を言った。
「体に触っちゃいけないっていうから、せめてあたしの顔を見て」香夜子はマスクを外した。
「きれいです。前よりずっと」
「たった1年で何年分も歳をとったの。まだ20歳にもならないのに、もう豊麗線が出てきた気がするの。夜の仕事のせいよね」
「ぜんぜん気になりませんよ」そういったものの、白内障のせいで児玉には細かな皺は見えなかった。
「ありがとう、もう行くね」
「留学の夢は」
「夢は捨ててないよ。おばあちゃんになっても行きたい」
「そっか。金なら俺に任せてくれ。必ず作るから」
「うん、わかった。また来るね。それまで死んだらだめよ、天使さん」
「あ?」
香夜子はマスクを着けなおして退室した。




