79 正体
涸沼は不思議な高揚感に一睡もできず、香夜子が目覚めるのを待たずに六本木に戻った。ここに立つたびになにかが起こる予感がして、これまで何度もそうしたように無電柱化すらできない戦後そのままの汚く狭い道路を、でたらめに歩き続けた。パリ風のオープンカフェで、若いカップルがダウンジャケットの背中を丸めて朝からいちゃついているのが、どことなく恥ずかしげに見えた。夜になると大挙して現れる黒人の客引きの姿は、四次元の洞窟に戻ったかのようにどこにもなかった。
「おい、あんた」聞き覚えのある声が雑踏の中から聞こえた。「運勢見立不明探索、開運変位器物呪詛、京膳架空大易大司」と楷書で書かれた小さな看板に見覚えがあった。愛犬のハスキーは一緒ではなかった。
「あんたが来るのを待っていたよ」京膳は分厚い毛布を膝にかけ、ダウンジャケットで着膨れした姿で、凍りつきそうなほど冷え切った路地裏に座っていた。だが顔はアルコールで紅潮していた。そう長い時間ここにいたわけでもなさそうだった。
「僕も会いたいと思っていました、目黒警部」涸沼は京膳架空の正体を見破っていた。
「なんでわかった」
「耳です。ずっと車を運転しながら警部の耳ばかり見ていましたから」
「なるほど迂闊だった」
「本当は誰なんですか。目黒警部はずっと前に殉職したと聞きました」
「名前がそんなに大事かね」
「とにかくご無事で安心しました。土佐犬に襲われておケガをされたかと心配していました」
「ジャレてただけだよ。あんたこそ無事でなによりだ」
「どこへ行ってらしたんですか」
「ちょいと閻魔様のところに、あんたの彼女の様子を聞きに行ってたんだ。なかなか豪勢にやってるらしいぞ。いい女はどこへ行っても床上手なもんだ」
「冗談はよしてください」
「ほんとうだよ。だけど実は閻魔様のとこの被告人名簿には、あんたの彼女の名前はなかった」
「美姫が死んでないと」
「そういう意味じゃないが、まあいいか」
「いろいろわかったのは目黒警部のおかげです」
「その名前はもういいよ。京膳と呼んでくれ」
「それも偽名ですね」
「まあ、そうだな。それよりあんた、どうしたんだ、青い顔をして」京膳は盲目の演技をしなかった。
「朝帰りで一睡もできなくて」
「さては女ができたか。いいイブを過ごせたわけだな」
「そんなんじゃありません」
「俺を舐めんなよ。女としけこんでたやつの顔は見ればわかる」
「あれから僕もいろいろあったんです」
「破鬼田に顎を折られたんだろう」
「さすがですね」
「その声なら誰だってわかる。俺は着替えてくる。ヒルズの前にある福建飯店を11時に予約しておくから、それまで適当に暇つぶしして待ってろ。暇つぶしは得意だろう」
「わかりました。それで予約の名前は」
「そうだな。岡光にしとこうか」
「いくつ名前があるんですか」
「かいじん21面相だからな」
「古い冗談ですね」
涸沼は京膳の露天の前を離れ、しらけ切った朝の六本木を乃木坂方面に歩き続けた。そこにツバサプロモーションの事務所があることは調べがついていた。




