76 プルトニウム
東大病院の旧病棟は、戦後間もなく全国各地に建てられた結核療養所やライ収容所のようなコンクリート平屋建てのカビ臭い病棟だった。児玉を受け入れるため、その一角が放射線管理病室に急遽改築されていた。病室にはどんな微粒子も除去できるエアコンが設けられ、医療スタッフの除染設備も完備していた。かつて東海村臨界事故の急性放射線症治療に携わったスタッフが再招集され、医師15名、看護師や検査技師などのコメディカル40名の体制で必死の再生治療が試みられていた。東海村事故の2人は救命できなかったが、児玉は奇跡的に腸管細胞の再生性を取り戻し、下血が治まったために、一命をとりとめていた。しかし造血細胞は数度の骨髄移植を試みても十分には再生せず、貧血症状は改善しなかった。壊死した左腕の皮膚は人工皮膚の下で再生するかに見えたが、筋肉が萎縮してミイラの腕のようになり、結局切断するしかなかった。メラニンが作れなくなって褐色だった全身の肌がまだらに白くなり、白内障も深刻な状態だった。
朝から都心は台風15号の暴風雨に襲われていた。テレビでは近畿地方の土砂崩れのニュースを流し続けていた。
「堂本さん、お父様がご面会ですよ」看護師が笑顔で話しかけた。
「堂本ってだれ」児玉は自分の偽名を忘れていた。
「ご自分のお名前をお忘れですか」急性放射線症患者は精神異常をきたすと言われていたので、児玉が自分の名前を忘れても看護師は気に留めなかった。
「誰のオヤジっすか」
「やだ、堂本さんのお父様ですよ。除染が終わったら、お連れしますね」
「じょせんて」
「ここは無菌室ですから、お父様にも除染していただきます」
「はあ、そうすか」児玉は気のない返事をした。今さら父親が見舞うなんてありえないことだった。堂本の本当の父親は津波に流されたはずだし、児玉自身は幼い時に父親と生き別れて母子家庭で育ったのだ。しかし誰が姿を現すのか、なんとなく予感がした。児玉は正気だった。
「ほう、意外と元気そうじゃねえか」白い防護服に頭まですっぽりと包み、防塵マスクを着けて中年の男が現れた。だがかえってそのほうが目つきの特徴がわかった。
「やっぱ宇田川さんすか。なんにでも化けるんすね」
「よくわかったな。変装はわけえ時に劇団で覚えたんだ。俺は早変わりの天才、宇田川乱歩と言われてた。1人7役こなしたこともある。それよか、てめえ、ほんとに治ったのかよ」
「左腕は壊死しててダメだったんすけど、あとはなんとか。抜けちまった髪もうっすら生えてきましたよ」
「すげーもんだな。さっき医者から説明受けたよ。いったん白血球がゼロになったけど骨随移植で再生したってな。死んだ皮膚は豚の皮膚で再生させたそうじゃねえか。もうちっとで無菌室も出られるとよ。そうなりゃ女に会いに行けるな」
「白血病は治ってねえんですよ。いったん細胞が着いてもすぐ死んじゃうみてえで。それに今さら女なんか。原発の青い光を見たせいかアレがダメになってね。それよかなんの用事すか」
「てめえ、たんまり賠償金もらったろう」
「それが狙いすか。オヤジになりすまして横取りする気っすね」
「わかってんじゃねえか」
「あんたには1円もやりませんよ」
「女なんかと言いながら、城山香夜子に金をやるつもりだろう」
「違いますよ」
「ウソ言ったって顔に書いてあるぜ。女がどうしてるか知りてえだろう」
「元気にしてますか」
「あの女、意外といい玉だわ。卯月と別れて、今は都内にいんぞ」
「風俗はやめたんすか」
「今はモデルだわ。あの器量なら最初からそうすりゃいいものを、卯月の野郎のせいでムダな寄り道したな。純情な子ほど、いっぺんやっちまえば、次からは自分で股を開くようになる。卯月はそのあたりはプロのコマシだから。だがもう卯月には懲りたようだな」
「そうすか、モデルすか。スゲーすよ」
「それよか、オメエに買ってもらいてえもんがあんだ」宇田川は床に置いた重そうなアタッシュケースを指差した。
「なんすか」
「ここだけの話、プルトニウムだ。原発で盗んだもんらしい。こいつがあれば誰だって殺せるぜ。塩粒一つ飲ませてやれば、オメエと同じ病気で死ぬぜ」
「誰に飲ませるんすか」
「殺してえやつによ」
「そんなやついません」
「オメエなら放射能なんかもう怖かねえだろう。正直、俺は持っていたくねえよ。そうかといって捨てるわけにもいかねえし、困ってんだよ」
「じゃ、なんで手にいれたんすか」
「俺だって間違うことはあらあ。北(朝鮮)とかには売れんだろうが、こっちの命もあぶねえからな。何千万て金作れるやつ、オメエだけだからよ」
「いまだらまだ俺になにをしろってんすか」
「ついでにもう1つ、オメエが殺した鷹目のこと教えてくんねえかな」
「殺っちゃいないすよ」
「知ってるよ。殺ったのは破鬼田だろう」
「どうしてそこまで」
「そうそう、市役所の涸沼が捜してた女も破鬼田がらみだわ」
「ほんとすか」
「ああ、死体は破鬼田が運んだんだ」
「じゃ、あの死体はやっぱ」
「涸沼の女かどうかわかんねえよ。警察が調べてだいぶたつが、身元がわからねえみてえだ」
「いろいろあったんすね」
その時、看護師が無言でドアをノックした。
「タイムリミットみてえだ。またくらあ。死んでくれっといいと思ってオヤジに化けたんだけど、生きちまったみてえだな」
「おあいにく様っすね」
「生きたら生きたで使い道があらあ。俺はオメエが最初っから気に入ってんだ」宇田川は意味ありげな笑みを残して病室を出て行った。




