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ブルームーン ~震災悲話~  作者: 石渡正佳
第5章 転身
60/91

60 帰郷

 香代子は東京には帰らず、仙台に向かっていた。仙台は嫌な思い出ばかりではない。高校時代には週末になるたびに友達と遊んだ街だった。彼氏と遊ぶ友達もいたが、香夜子はいつも女だけのグループに入っていた。不思議なことに、一番町で夜遊びする高校生は女子ばかりで、男子の姿はついぞ見かけなかった。

 「空港まで往復お願いします」駅中の生花店で花束を買ってからタクシーに乗った香夜子は、控えめな声で言った。こんな無駄遣い、昔なら考えられなかった。レンタカーの方が経済的な距離だが、香夜子は運転ができなかった。

 「お出迎えですか」

 「いいえ、空港近くの実家まで里帰りです。といっても家はないんです」

 「ああ、なるほど。大変でしたねえ」運転手は香夜子が抱えた花束の意味がわかったようにうなずいた。

 仙台市内の慢性渋滞を抜け、空港に向かう仙台東部道路に乗り、数キロ隔てて海岸と並行に走るようになると、窓外の景色が一変した。盛土の上を走る高速道路の左側は津波に舐め尽くされて、なにもなくなっていた。被災地を縦横に縫う道路は復旧していたが、建て直された家は1軒もなかった。県道から海側は建築が規制されており、陸側でも安全に住めるのか家主に迷いがあったし、住宅を建て直そうとしても銀行ローンは組めなかった。津波被災地の固定資産評価額はマイナス100%となり、免税にはなるかわり担保価値がなくなっていた。道路という道路に張り巡らされていた電線は、まだ幹線道路以外は復旧していなかった。

 高速道路を降りて、臨空工業団地側から空港に向かった。工場は操業を再開していたが、滑走路の脇に積まれたガレキと被災自動車の仮置場はそのままだった。工業団地を抜けると、空港のターミナルビルが見えてきた。

 空港の周辺にあったはずの商店や飲食店はことごとく津波に流され、香夜子の家があった臨空ニュータウンは街ごと消失していた。香夜子の実家のように2階は無事だった家もいくらかはあったのだが、1階が流された家は全壊と見なされ、市役所が撤去したのだ。

 「このへんで停めてください」

 生まれ育った故郷だというのに、どこに家があったかもわからなくなってしまったので、適当にタクシーを降りて、実家の痕跡を探した。歩いても歩いてもなんにもなかった。故郷の思い出がなんにもない。復興はまだなんにも始まっていない。全壊状態でも撤去に同意しなかった家がわずかにあり、それを目印に基礎だけが残された自分の家をやっと見つけた。1階の間取りの痕跡だけが残った生家の前に立ち、花束を手向けて手を合わせた。両親との思い出を取り戻そうとしたが、思い浮かんだのは、ここから児玉に背負われて空港に向かった記憶だった。

 「海まで行ってもいいですか」香夜子の後をゆっくりと追ってきた運転手に言った。

 「いいよ。それにしても、ここらも気の毒なことだったねえ」

 タクシーは空港の東側の細道を海岸に向かった。空港周辺は津波の勢いが強く、基礎ごと流された家が多かった。香夜子の指示で、タクシーは松林の切れ目から海岸線に出る短い林道を進もうとしたが、倒木で林道は封鎖されていた。

 「海を見てきますから待っててもらえますか」

 「どのくらいかな」

 「15分くらい」

 「代金預かってもいいかな」海に身投げでもされては困ると思ったのか、運転手は不安そうな顔をした。

 「ああ、わかりました」香夜子はメーターを見て、2万円預けるとタクシーを降りた。

 ジミー・チューの華奢なパンプスが砂に埋もれるのも気にせず、倒木をまたぎながら林道を進むと、松が伐採された広場に出た。夏場開設される海の家が何軒かあったはずだが、津波の直撃で跡形もなかった。それどころか、500トンもありそうな堤防天端のコンクリートが何本も流されていた。親水式にしたのがあだになって最初にこの堤防が壊れたために、津波の威力がここに集中し、空港や香夜子の自宅を襲ったのだ。その証拠に周辺の堤防は、津波は越えたかも知れないが、原型をとどめないほど壊れてはいなかった。

 壊れた堤防に登ってみた。まだ復旧工事どころか測量すら始まっていなかった。地震の日、牙をむいた太平洋は穏やかに凪いでいた。冷静な人が、突然激昂して手がつけられなくなるように、静けさの裏に荒々しさが隠されている。海も人もなにもかも恐ろしい。なにもかもが人を裏切るんだと思った。

 それにしても、どうしてなにも始まっていないんだろう。原発の近くならなにも始まらなくても仕方ない。でもここは放射能も薄いはず。関東とそんなに違わないから心配ないって、撤去の同意書を持ってきた市の人が言っていた。なのにどうして復興しないのだろう。地震の後、たった半年の間にいろんなことが終わり、いろんなことが始まった。生きるために身を削ってがんばった。なのにここではどうして時間が止まっているのだろう。どうして街は元に戻らないのだろう。19歳の香夜子にも、なにかが間違っていると感づいた。

 高曇りの空から、冷たく固い雹が降り出して薄着の香夜子を嬲りだした。それを潮時にして運転手が要らぬ心配をすると思い、林道を戻りだした。なにもなくなって草原になってしまった故郷が、すべての苦しみを凍結させるように、みるみる氷の粒に覆われていった。一瞬だけきれいだと思った。だけど生足が凍りつくほど寒かった。なんでこのパンプスで来たんだろう。お父さんとお母さんに故郷の道をランウェイを歩くように歩いて見せたたかったから。そうじゃない。大学生の好きなモコモコブーツなんて大嫌い。いつだってパンプスを脱がず、お尻をきりっと引き締めて歩くのが、今のあたしのプライドだからだ。

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