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ブルームーン ~震災悲話~  作者: 石渡正佳
第5章 転身
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58 指輪の帰還

 香夜子は生理痛を理由に事務所から休暇をもらった。実際、高校時代には、生理不順と生理痛に悩んでいた。だが、レディドールで避妊のためにピルを飲むことを覚えさせられてから、生理は4週ごとのプラセボの時期に規則的にやってくるようになり、生理痛もなくなった。ずっとピルを飲み続けていることは事務所も承知していたので、生理痛がウソだと気づいていたが、ほんとうの理由は聞かなかった。

 いわき駅までは上野駅から特急スーパーひたちで2時間10分、目的地のいわき市役所は無電柱化された綺麗な街路を歩いて15分ほどだった。受付で涸沼の所属を尋ねると、社会福祉課だとすぐにわかった。事務所の指示に反し、香夜子は久しぶりにマキシのワンピースを着ていた。駆け出しとはいえモデルとしてのオーラを放ち始めた香夜子は、脚を隠していても、市役所のホールに立っているだけで注目の的だった。地震の日から落ち込んだ泥沼を抜け出して、生来備えた気品を取り戻しただけではなく、内面を蝕み続けた苦しみが、憂いを帯びた色香へと熟成していた。

 「あのう、涸沼さんでしょうか」社会福祉課の窓口に立った香夜子は恐る恐る涸沼の顔を覗き込んだ。

 「そうですが、なにか」涸沼は怪訝そうな顔で見知らぬ女に対面した。

 「これ見てください」香夜子が示した指輪を見て、涸沼はあっけにとられた。

 「これをどうしたんですか」

 「私は城山と申します。堂本さんからこの指輪を預かって参りました。いろいろ取り込んでいて、お返しするのが遅くなりました」

 「ちょっと来てくれますか」涸沼は周囲の視線を気にしながら、香夜子を市役所の外に連れ出した。

 「どちらからおいででしょうか」

 「東京です」

 「だったらお帰りが便利でしょうから駅の方に行きましょう」涸沼はロータリーに停っていたタクシーに乗り込んで、駅に近い平本町通りに向かった。

 堂本が指輪を託したという城山は、美姫に負けないくらい美人だった。すらりとした長身のプロポーションはモデル並みだ。チンピラ風だった堂本とは釣り合わない。どういう関係なのだろうかと、タクシーの中で気になってしかたがなかった。

 涸沼が案内したのは美姫と最後に会った喫茶店だった。

 「確かにお返しいたします」小洒落た喫茶店に落ち着くと、香夜子は丁寧に挨拶しながら、指輪を涸沼に手渡した。

 とうとう美姫の指輪が自分の許に帰ってきた。それはうれしかったが、指輪が自分の意思で帰ってきたようにも思えて気味が悪かった。

 「確かに美姫の指輪です。ほら、MIKOと名前が彫ってあるでしょう。僕がプレゼントしたんです」涸沼の声は興奮気味に上ずっていた。

 「どうして堂本さんがこれを持っていたんですか」

 「産廃の処分場で拾ったと言ってました。それでどうして処分場に来たか調べたんです」

 「堂本さんとですか」

 「いえ、警察の方と」

 「それでわかったんですか」

 「わかりません。それにもう美姫を探す意味がなくなりました。指輪があった処分場で死体が出たんです」

 「美姫さんの」

 「たぶん」

 「そうですか」

 「堂本さんは今どちらに」

 「亡くなったそうです。この指輪がたった1つの形見なんです。だから手放したくはないんですが、涸沼さんに返すようにというのが彼の意思でしたから」

 「亡くなった? それはおかしいな。死亡届は出ていませんよ。毎日なにか届出がないか確かめているんです」

 「住所はまだここにあるんですか」

 「いわきのままで地震のあと異動されていません。でも、家は流失してなにもないんです。実際の居所はわかりません。どこで亡くなられたと聞いたんですか」

 「東大病院です」

 「それなら届出があるはずですね。堂本さんの死因は」

 「原爆症だと思います。新聞にも出たはずです」

 「確かに原爆症の犠牲者が出たという報道は知ってます。でも、死んだとはかぎりません。それに…」涸沼は堂本が偽者かもしれないと言おうとして止めた。市役所でも誰にも言ってない秘密なのだ。

 「ほんとはもう死んだのに、政府と東日本電力が隠したんだと思いますよ」香夜子はSORAの客が自慢げに話していた怪しげなネタを思わず口にした。

 「そんな、ありえないですよ」

 「だって何人もほんとは原爆症になってるって言う人が多いです」

 「それはあくまで噂ですよ」

 「そうかもしれませんけど」

 「ところで、城山さんは堂本さんの恋人だったんですか」

 「いえ、それは」香夜子は顔を曇らせた。

 「ごめんなさい、余計なことですね」

 「いいえ、いいんです。彼は命の恩人なんです。ガレキの下敷きになってるところを助けてもらったんです」

 「あの、城山さんが被災されたのは」

 「岩沼の自宅です」

 「なるほど。じゃあ、地震の時、堂本さんは宮城に居たんですね」

 涸沼はやっぱりちょっと変だと思った。堂本はいわき市の自宅で被災したと義捐金申請書に書いていた。それなら岩沼で城山を救出できるはずがない。だが、義捐金申請書の記載は形式的なものだ。堂本の両親は津波に流され、堂本本人だけが助かったとすれば、ほんとうは自宅にいなかったとしても不思議ではない。堂本が城山の恋人ではないということはウソじゃなさそうだ。だが、それなら指輪を堂本の形見のように大事にしていた理由がわからない。命の恩人以上の感情があったかもしれない。地震の日以来、無数の絆が切れ、無数の絆が生まれた。2人の間にどんな絆が生まれても不思議ではない。切れていた自分と美姫の絆も、この指輪のおかげでつながりかけたのだ。

 「堂本さんと最後に会ったのは」

 「仙台です」

 「仙台のどこ」

 「国分町です。クラブにお客さんとして訪ねてくれたんです」さすがに働いていたソープの入ったビルの前でとは言えなかった。

 「堂本さんが仙台に。そうでしたか。実は僕も何度か国分町に行ったんです。城山さんのお勤めのクラブはどこですか」

 「今はもう仙台にはいません」

 「ああ、今は東京でしたね。よかったら連絡先を聞いてもいいですか」

 「それはちょっと」

 「そうですよね。指輪を届けてくれただけですものね」

 「ごめんなさい」

 「いいですよ。僕も、そろそろ仕事に戻らないといけない」

 「あの、美姫さんのお写真とか、お持ちじゃないですか」

 「ありますけど」

 「見せてもらってもいいですか」

 「いいですけど」涸沼は携帯の待受画面を香夜子に向けた。

 「まあ」写真を見るなり、香夜子は固まった。写真の中の美姫はほとんどスッピンで、目を細めて幸せそうに微笑んでいた。それでもAKANEと顔の輪郭がそっくりに思えた。

 「どうしたんですか」

 「いえ、なんでもないです。きれいな人だなあと思って」香夜子は震える声で否定した。

 「もう美姫みたいな子には一生巡り合えません」

 「美姫さんは東京でお仕事とかは」

 「仕事はしたことありません。都内の大学で保母の資格を取ってから、地元の保育園に就職しました」

 「週末とかは」

 「土曜日に東京の友達に会いに行くことは多かったですね。いわきは意外と東京まで近いんです」

 AKANEが土曜日限定でフラッシュに出ていたという岡光の話と符合すると香夜子は思った。

 「そのお友達の名前とかは」

 「なにか気になることが」

 「いえ、別に」とっさの判断で何も言わないほうがいいと香夜子は思った。涸沼という男は信用ならないと、短い期間ながら男の欲望と虚栄に弄ばれ続けてきた香夜子の経験が警告していた。

 「城山さんの連絡先、どうしても教えてもらえませんか。指輪を届けていただいたお礼がしたいし。携帯がむりならお勤め先とか」

 「それはもっとむりです」

 「それはそうですよね」

 「私もう行きます」

 「ありがとう、ほんとに」香夜子の後姿を見送った後も、涸沼は仕事に戻る気がせず、自分のもとに戻ってきた指輪をじっと見つめ続けていた。

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