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ブルームーン ~震災悲話~  作者: 石渡正佳
第4章 廃棄物調査
42/91

42 空似

 京膳と別れても、涸沼はまだ六本木にとどまっていた。夜が更けるにつれて賑やかさを増して艶やかになっていく往来を見ていると、上京したまま音信を断った美姫が、きっとこの町で遊んだことがあったに違いないと思われて、懐かしさに涙がこぼれそうになった。美姫がひょっこり路地裏から現れるのではないかという妄想に捕らわれて、行き過ぎる女たちの後ろ姿の群像に、1時間以上もじっと見入っていた。そんな妄想もやがては湖面のボートの波紋が消えるように徐々に薄れていった。

 涸沼は冒険を求めるような気持ちで、不案内な路地から路地へとわざとまた迷い込んでみた。一歩通りを曲がったとたん、ネオンとヘッドライトの点滅にぎらぎらしていた夜の巷は一変し、ごみごみした場末の路地裏が果てしなくどこまでも続いていた。迷路のように入り組んだ路地を曲がるたびに、真新しいカフェバーや、閉店したブティックや、麝香の薫るハーブショップや、煤けた骨董屋や、その他なにを売っているのかわからない雑貨屋などが不意に現れては消えた。

 1軒のスペイン風バルの前を通りかかった時、急に空腹を覚えた。カップルで利用する客の多そうな店の構えに、ちょっと気後れしたが、思い切って灰ってみた。店内は思ったとおりにカップルや女性ばかりのグループ客がほとんどだった。窓際の空席に案内された涸沼は、イイダコのタパスとグラスワインを頼んだ。ラバスク…それが店名だということに、コースターを見て初めて気がついたが、涸沼はバスク料理を知らなかった。料理が来るまでなにかして気を紛らわそうと、几帳面な小文字がびっしりと書き込まれた手帳を開いて、今日1日の調査の様子を記しはじめた。BGMに知っている曲が流れていた。ラベルの「亡き王女のためのパバーヌ」だった。

 「みこ…」その声の響きに、はっとして表を上げて周囲を見回した。両隣のテーブルにそれとなしに視線を逸らしたが、声の主はわからなかった。

 右隣は大学生風のカップルだった。男の方がなにか夢中で話していた。話題もわからないくらいの早口だったが、なにかを説得しているようにも聞こえた。女の方はなにも言わずに、厚くシャドウを塗った目だけは、じっと男を見つめながら聞き役に回っていた。横顔がちょっと扁平なのが惜しいが、とても気品のある顔立ちをした女だった。涸沼の位置からだとスカートの裾から伸びた太股が肉感的につぶれて見えた。話すことがこんなにいっぱいあるところをみると、きっとこのカップルはまだ付き合って間もないのだろうと思った。

 左隣は女の1人客だった。20代後半くらいで、こけた頬にビジネスライクな薄化粧をした、家具のように邪魔にならない印象の女だった。待ち合わせでもしているのか、冷タンが2つ置かれていた。ずいぶん前から連れを待っているのだろうか、冷タンの氷がすっかり溶けていた。彼女は夢中で文庫本に読みふけっていた。安っぽいミステリーでも読んでいるのだろうか、ページをめくる手がとても早かった。

 美姫の名を呼ぶ声が聞こえたのは空耳かも知れないと思って、再び手帳の書き込みを続けようとした。だが集中力がとぎれてしまったのか、1文字も書き進めることができなかった。

 もう1度そっと店内を見回した。隣の隣のテーブル、その隣と、奥に行くにつれて店内は暗くなった。石材を多用したインテリアに話し声が反響して、店内は沸騰するような喧噪だった。

 「みこ…」今度ははっきりとその声が聞こえた。みこと呼ばれたのは、3つ先のテーブルにいる制服風のタータンチェックのベストを着た、ショートカットの高校生のグループの1人だった。日焼けした高校生たちの荒削りな横顔は、暗がりでもはっきり目立つほど色白だった美姫とは比べようもなかった。日焼けといってもスポーツ焼けではない。チョコレートを塗りたくったようにサロンで均一に焼いた生気のない肌はちっとも魅力的じゃなかった。失望した視線が不案内な店内を再び走査したが収穫はなかった。

 涸沼は届いたばかりのタパスの味を一口試した。その時、どこかで見覚えのある顔が、視界に飛び込んできた。入口で案内を請う女の3人連れの1人が、美姫の学生時代の友達にそっくりに思えたのだ。プリクラのアルバムで見ただけで本人に会ったことはなかったが、特徴のあるその美形を見まごうはずはないと思った。背丈はちょうど160センチくらいで、写真と符合していた。涸沼は立ち上がって挨拶に行きたい衝動を必死にこらえた。3人連れの他の2人はもっとスラリと背が高く、いまどきのモデルのようにバストを自慢げに強調していたが、六本木ではそんなシルエットの女は珍しくなかった。女たちは男性客の羨望の視線を盗みながら、狭い通路で大きなトートバッグを横にして、細長い店の一番奥の空席へと案内されていった。涸沼の位置からはもう顔立ちを確かめることはできなかった。

 冷めたハーブティのポットを眺めながら、涸沼は少しずつ冷静さを取り戻した。仮に彼女が美姫の友達だったとして、それがなんになるだろう。どうせ美姫の失踪の理由なんて知っているはずがない。それに他人の空似ってこともある。涸沼は伝票を掴んで逃げるようにレジに向かった。

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