34 幽霊
児玉は香夜子のアパートで目が覚めた。とても19歳の女が住んでいる部屋とは思えないカビ臭い和室だった。卯月と同棲しているのは明らかで、ブラッシングした派手なスーツが壁に下がっていた。卯月は児玉の金で遊んでいるのか、アパートに帰ってはこなかった。
「起きたの」枕元に付き添っていた香夜子が児玉に声をかけた。
「卯月からは逃げなきゃダメだ。俺が一緒に逃げられればいいんだけどよ、ダメみてえだから1人で逃げろ」
「病気治してから一緒に逃げてよ」
「俺の病気はもう治んねえよ」
「病気はなんなの」
「わかんねえけど、どんどん悪くなるみてえだ。血を吐いたのはもう何度目かわかんねえ。だんだん血が増えるんだ」
「病院行こうよ」
「俺には近づくな」児玉は自力で起き上がろうとした。
「病院行ってくれるなら、あたし卯月と別れるよ」
「ほんとか」
「うん」
「わかった。じゃ支度しろ。ぜってえ卯月には掴まんなよ。レディードールの近くに美神連合ってキャバがあっから、そこのママのリカに相談してみろ。卯月ごときのチンピラなら、リカがなんとでもしてくれっから」リカの名前を口にしたことが、香夜子の運命を大きく変えることになるとは、児玉は思いもしなかった。
「わかった。早く病院行こう」香夜子が児玉を起き上がらせると、シーツに大きな血のシミができていた。激しく下血していたのだ。
「これ、預かってくれねえかな」児玉は思い出したように、尻のポケットから青い石のついた指輪を取り出した。児玉の指先はカリントウのように黒く変色し、爪が剥がれ落ちていた。上腕から始まった皮膚の壊死が肩まで拡がっていて、もうほとんど左腕は動かなかった。まるでミイラの腕だった。香夜子はびっくりして手を引っ込めた。
「俺になんかあった時には、これをいわき市役所の涸沼ってやつに渡してくれねえか」
「いわき市役所のヒヌマさんね。わかったよ」香夜子はやっとのことで指輪を受け取った。児玉の形見として受け取るつもりだった。
「安物らしいけど、やつにとっちゃあ、でえじな指輪だからな」
「うん、約束するよ」
香夜子は児玉に肩を貸しながらアパートの外階段を下りようとした。力尽きた児玉は途中から崩れるように階段を転がり落ち、それ以上もう動けなくなった。脇腹の古傷が開いて腐った血が流れ出していた。いや、傷口はふさがっていなかったのだ。
「だいじょうぶ?」
「ダメかも。力がもう入らねえ」
「ここで待ってて」香夜子は階段に児玉を寄りかからせて表通りに向かって走った。置き去りにされた児玉の瞳に香夜子の女らしくなった後姿が遠ざかっていくのが見えた。
なにか言おうとしたが声にならなかった。児玉の体は腐った野菜のように、その場に溶け落ちた。
息絶えだえの児玉の背中にいつの間にか1人の男が立っていた。
「まだ、生きてるみてえだな」男は児玉の背中をこつこつと爪先で蹴飛ばした。
「おい、こいつを担ぎあげて向こうの路地に引っ張ってけ」
「へい」宇田川の指示で猪俣は児玉の体をずるずると階段下から引っ張り出した。
「担げって言ったろう。それじゃ引きずった跡がつくじゃねえか」
「すんません」
猪俣は児玉のボロキレのような体をやっとのことで担ぎあげ、路地を歩きだした。自分に命令している男が、留置場で一緒だった宇田川の変装だとは気づいていないようだった。気づいていたとしても、クスリをくれれば誰でもよかった。地震の後、猪俣はクスリを手に入れるためならどんな仕事でもやった。自衛隊員に混ざって死体を何百体も運んだ。背負って運んで洗って棺に入れるのだ。日当はよかったが、たいていの者は1日で逃げ出した。クスリがなかったら猪俣にもむりだったろう。少なくともまだ息をしている児玉を運ぶのはまだしも楽だった。
「そのへんに降ろせ」
「へい」行き止まりの路地裏に児玉を降ろすと、猪俣の背中にはべっとりと血のしみがついていた。だが、気にしていない様子だった。
「オメエはもう行け」宇田川はクスリを分けて猪俣を去らせた。
「児玉、起きろ。死ぬ前に聞いておきたいことがあるんだ」宇田川は児玉の脇腹を蹴飛ばしたが反応はなかった。
宇田川は児玉の口にクスリを含ませてから安物のウィスキーを飲ませた。ようやく児玉の目が鈍い光をわずかに取り戻した。
「俺だ、宇田川だ。わかるか」
児玉は反応しなかった。
「オメエに聞きてえことがある。オメエ、鷹目を殺したろう。そん時、鷹目はなにを隠したんだよ。オメエ見たろう」
児玉は小さく首を横に振った。
「言えよ。そしたらよ、卯月が2度とオメエの女に手出しできねえようにしてやるよ」
「殺ってねえ。俺、親分は殺ってねえ」児玉は小声で言った。
「じゃあ、誰が殺ったんだよ。そいつが全部知ってんのか」
児玉は首を垂れた。
「そいつは誰だ。どこにいる。どんなやつだよ」
「フェラーリ」
「あ、フェラーリがどうした。フェラーリに乗ってんのか」
「女をたのんます」児玉は目を瞑って動かなくなった。
サイレンの音が近づいてきた。香夜子が救急車を呼んだのだ。宇田川は児玉をその場に置き去りにして歩きだした。
放射能が児玉の全身の細胞を破壊していた。原発の青い光を見た日に、細胞という細胞が分裂によって増殖する能力を失った。あの時、児玉はもう死んでいたのだ。




