33 喀血
リカからの連絡を待ちながら、児玉はもうすぐ自分のものではなくなるダンプを公園に停めたままにして寝泊りを続けていた。同じように車中泊している仲間は多かった。燃料さえ続けば、車は冷暖房完備のカプセルホテルだった。だが、日に日に食欲がなくなり、下痢がひどくなり、コンビニの弁当を一口食べては捨てた。起きている時間の半分は公園のトイレで過ごした。トイレは密室のように見えて、音は筒抜けだ。ずっといると、いろんな場面に出会った。クスリの取引、引ったくり、高校生のウリ(援助交際)まであった。しかし耳がバカになったように、児玉にはなにも聞こえなかった。音は聞こえているのに意味がわからなかった。
ようやくダンプが売れ、名義変更も終わったとリカから連絡があり、児玉は重い脚を引きずって、もう戻ることがなくなったダンプの中の私物を公園のくずかごに捨てた。人目も気にせずトイレの洗面で体を洗い、ホームレス並みに汚い自分の身なりに気づいて、香夜子にまた会う日だけを想像して買っておいた、こざっぱりしたチノパンとTシャツに着替え、古い服も下着も全部捨てた。市内に移動する途中でスニーカーも買い換え、古いのは川に捨てた。
美神連合はまだ開店間もない時刻で、店内に他の客の姿はなかった。賓客でも来る予定があるのか、リカは銀座のクラブ並みに結城紬の和服を着ていた。
「あなた、どうしたの」リカはソファに浅くかけながら、驚いた顔で児玉を出迎えた。
わずか半月で児玉はげっそり痩せ、顔にも血の気がなかった。白いTシャツの下の胸板が見る影もなくしぼみ、袖口から覗く左の二の腕の皮膚はどす黒く変色して壊死が拡がっていた。
「さあな。最近もうなんも食べられねえ。食べてもすぐ出ちまう。真っ黒な便が出るんだ。血じゃねえかと思う」
「なにか悪い病気じゃないの」
「かもな。俺、原発の近くで青い光を見たんだ。そのせいじゃねえかと思う」
「それってまさか放射能のせいってこと。病院行きなさいよ」
「その前にやりてえことがあるんだ。早く金くれよ」児玉は座るのも億劫そうにダンプのキーをテーブルに投げ出した。
「ダンプは青葉山公園にあっから」
「鶴岡、例のもの」
リカに命じられて、黒服が児玉に茶封筒を渡した。中には帯封のついた札束が3つと、堂本の印鑑が入っていた。
「じゃ、行くわ」
「ちょっと待ちなさいよ。どこ行くつもりよ」
「野暮用だよ」
ダンプの売却代金の300万円を受け取った児玉は、まっすぐにレディードールに向かった。
「KAORIちゃんは先週で辞めましたよ」受付の黒服にあっさり言われ、児玉はあっけに取られた。
「どこに移ったか知んねえか」
「さあねえ。KAORIちゃんはかわいかったから、どこでも売れっ子だと思うけど、ちょっと問題があってね」
「なんすか、問題って」
「言わなくても、あんたもわかんでしょう」
風俗嬢の問題といえば、クスリか病気か男だ。だが、どれも香夜子のイメージには合わなかった。
「移った先くれえ教えろよ」
「ここらだとは思うけど。ねえ、ほかにもいい子いっぱいいますから、40分だけでも遊んでいかないすか。そしたらKAORIちゃんの移籍先の情報教えないこともないすから」
「いいよ、自分で探す」
「そうすか。じゃあまた気が向いたらお願いしますよ」
児玉は重い足取りで地上への階段を上がった。自分で探すとは言ったものの、土地勘もなく、知り合いもいない国分町は外国と同じだった。ランパブよりもっとやばい店に移ったに違いない。それだけはなんとなく確信があった。ピンサロか、ヘルスか、それともソープか。だが、国分町だけでもそんな店が100軒以上もあった。
児玉はだめもとで風俗案内所に入り、店番のチンピラにいきなり声をかけた。高校を中退してすぐ、児玉も川崎でやったことがある最低の仕事だった。
「先週までレディードールにいたKAORIを捜してんだ。わかったら1万やるよ」
「ほんとすか。じゃ、ちょっと待ってください。すぐっすから」店番はどこかに電話をかけ始めた。
児玉は手持ち無沙汰に店の壁に飾られた風俗嬢のインスタント写真を物色した。どの写真も近接フラッシュのせいで顔の地肌が白く飛んでいる。ヤクザの息のかかった店の子じゃなければ、ここに写真は出ない。KAORIの写真はないだろうと思ったが、一縷の望みで写真を見続けた。
「おい、児玉」いきなり名前を呼ばれて振り返った。声をかけたのは宇田川だった。
「オメエ、女を捜してんだろう。あの女には男がいんだ。やめとけや」
「なんでそんなこと知ってんすか」
「俺のこと知ってるやつのことは俺も知らねえではすまさねえ。それが俺の性分だって前にも言ったろう」
「じゃ、柳生さんのこともご存知ですか」
「あいつは死んだわ」
「え、ほんとすか」
「ピッキングでやめときゃいいものを、強盗団なんかに入っから利用されてポイだわ」
「やっぱ6億円事件がらみなんすか」
「しっ、声が高えよ。おまえもばらされんぞ。外へ出ろや」
「でも」児玉はまだ電話をかけ続けている店番の男を見た。
「女の居場所なら俺が知ってっから」宇田川が小声で言った。
「ほんとすか」
「こっちへこいや」
宇田川について児玉は案内所を出た。
「女はどこすか」
「知りたければ10万出せよ。オメエ、ダンプ売った金持ってんだろう。先に金だ」
「ほんとになんでも知ってんすね」児玉は万札を10枚出した。
「金持ちはちがあな。お前が捜してる女はよ、この先のファッションビルの4階にあるソープに移ったぜ。店の名前はパフューム学院、女の源氏名は前と同じKAORIだわ。店を変えても名前を変えねえってことは、だれかを待ってるってことだな。過去を捨てたきゃ名前を変えるもんだ」
「ほんとなんすね」
「いっぺん遊んでみたからまちげえねえよ。ありゃまだガキだな。なにやらせてもてんでなってねえよ。だけど性格は素直で風俗向きだわ」
「なんでソープなんかに」
「男のせいだわ。その男ってのがよ」宇田川は言いよどんだ。
「なんすか」
「男の情報も知りたかったらあと5万出せや」
「俺の知ってるやつっすね」
「金出したらおせえてやる」
「本人に聞いたらわかりますよ」
「ち、しみったれが。まあいいわ。ただでおせえたら。卯月だわ。覚えてんだろう」
「卯月は強姦で捕まったって」児玉は唖然とした。
「犯られた女が告訴を取り下げたんだよ。そのあと、どういういきさつか知らねえが、KAORIとできたんだ。卯月のこったから、最初はこましたんだと思うけどよ、今じゃ卯月がいなくては1晩もあかせねえ惚れこみようだ」
「卯月がヒモってことっすか」
「まあ、そういうこったな。だからよ、もうあきらめな」
「ゆるせねえ」児玉の目が血走った。ガレキに挟まれたケガで動けない香夜子を犯そうとしてズボンを下ろした卯月の醜い尻が目に浮かんだ。
「オメエ、なにやらかしてもいいけどよ、俺がおせえたってのは卯月には内緒だぜ」宇田川は殺気を感じてあわてて言った。
「余計なこと言いませんよ」
「ならいいわ。そいでよ…」
児玉は宇田川を無視して歩き出した。
「ばか、頭冷やせや」宇田川は仕方なさそうに児玉の後を追った。児玉は香夜子の移籍先だと聞いたソープの入ったビルに入っていった。
「おい、待てよ、なにするつもりだ」宇田川が児玉を止めた。
「女を連れ出すんすよ。ソープなんて冗談じゃない。自分のためならまだしも、卯月に貢ぐためなんて許せないすよ」
「連れ出してどうすんだ」
「一緒に逃げるつもりっすよ」
「アホか。オメエの女じゃねえだろう。ついてくっと思うか」
「やってみなきゃわかんねえでしょう」
「店に乗り込むのはよせや。袋にされんのが落ちだ。いくらてめえの腕っ節だって、半端な店じゃねえんだぞ」
「じゃ、どうすりゃいいんで」
「朝まで待てや。そうすりゃ女が降りてくんだろう。そこを待ち伏せりゃいいだろう。女のためを思うなら無用のトラブルは避けろや。今てめえが乗り込んだら、女だってだたじゃすまねえぜ」
「確かにそうっすね」
「頭冷やして酒でも飲むか」
「酒はだめなんすよ。最近なんも受け付けねえ」
「そういや、オメエちょいと痩せたな」
「俺、ここで女を待ちますから」
「目立ちすぎんわ。こっちこいや」
宇田川が児玉の手を引こうとした時、卯月と香夜子が連れ添ってやってきた。これから出勤だったのだ。せめて路上では女子大生っぽいショートパンツくらい履かせてやればいいのに、そのままピンサロなら出られそうな真紅のキャミソールドレスを着せられ、おまけにこれは俺の女だと誇示するかのように、豊満な胸に卯月の手がずけずけと差し込まれているのを見て、児玉は切れた。
「卯月、てめえ」血相を変えた児玉が2人の前に立ちふさがった。宇田川はとばっちりを受けまいと、卯月に見とがめられる前に姿を消した。
「てめえこそ、なんの用だ」
「城山さん、こんな男といっしょにいたらだめんなるよ」
「あなた、どうしてここに」香夜子は驚いた顔で児玉を見返した。
「金ならあるんだ。こんな店辞めて進学でも留学でもしてくれ」児玉は有り金が入った封筒を香夜子に渡そうとした。
「ほっといてよ」
「そうはいかない」
「てめえ、それっぽっちで俺の女どうする気だ。すっこんでろや」卯月が児玉に掴みかかった。
児玉はすかさず卯月の腕をひねり上げ、得意の一本背負いで投げ飛ばそうとした。だが、いつものように力が入らず腰砕けになった。
「なんだ、口ほどにもねえ」卯月が児玉の胸倉を掴み返した瞬間、児玉は喀血し、卯月の腕が赤く染まった。
「てめえ、なんのつもりだよ」卯月はぎょっとして児玉を突き飛ばした。児玉は路上に転がった。
「児玉さん、だいじょうぶ」香夜子が児玉にかけよった。
「こんな病人ほっとけや」卯月は腕についた血をぬぐいながら言った。
「ひどい血よ。救急車呼んで」
「こんな野郎、おっちんだって誰が悲しむかよ」卯月は香夜子の手を取って立たせようとした。
「だめよ。ほんとに死んだらどうすんの」香夜子は卯月の手を振り払った。
「いいから来いや」卯月は香夜子を引きずるように立たせた。
「卯月、今日んとこは店を休ませてやってくれや」自力で立ち上がった児玉はまるで幽霊だった。
「寄るんじゃねえよ。てめえには関係ねえだろう」児玉の白いTシャツを赤く染めた血を見て、卯月はおぞましそうに飛びのいた。
「この金でなんとか頼んますよ。足りなければまた用意しますから」児玉は道路に落ちた封筒を拾い上げた。
「いくらあんだよ」卯月は児玉が差し出した封筒の中身を確かめた。ダンプの代金と不法投棄で稼いだ金の残りを合わせて400万円近く入っていた。
「ふうん、なるほど。今日んとこはオメエに女譲ってやるわ。せいぜいかわいがってやんなよ」思わぬ金を手に入れた卯月は引き上げたほうが得策と判断した。血まみれの児玉を見て喧嘩だと勘違いした野次馬が集まりだしたバツの悪さもあった。
「病院行こう」香夜子が児玉を抱きかかえながらタクシーを停めた。
「病院はだめだ。行ったって治らねえよ」
「だってこんなに血が」
「長くねえってわかってんだ。もう俺にかかわんなよ。卯月に掴まんねえとこに1人で逃げろ。金はあとでまた作ってやる」
「だめよ。とにかくタクシーに乗って」香夜子は停ったタクシーにむりやり児玉を押し込んだ。児玉は転げ落ちるように後部座席に乗り込み、そのまま意識を失った。




