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ブルームーン ~震災悲話~  作者: 石渡正佳
第3章 なりすまし
29/91

29 金縛り

 涸沼と別れていわき市役所を出た児玉は、国道沿いの食堂の「名物ソースカツ丼」の手書きの貼紙が気になって寄りこんだ。ソースカツ丼の名店は日本中にあり、東日本なら桐生や前橋が有名で、中退した高校のダチと無免許運転のバイクでツーリングしながら何度も食べたことがある。だが、福島にもあるとは知らなかった。男との逢引に忙しかった母親がたびたび作ってくれた手抜き料理がソースカツ丼だった。冷えたトンカツを甘口のソースにたっぷり浸し、キャベツの千切りと一緒に丼に載せただけ、つまりカツ定のオールインワンだったが、ソースを吸ったパン粉が、やわらかく揚げたヒレ肉とマッチし、どんなカツ丼より旨いと思った。児玉にとってソースカツ丼はお袋の味だった。

 児玉が小学生の時、父に捨てられた母は不幸ではないように見えた。再婚はしなかったが、すぐに男はいっぱいできたからだ。児玉を家族旅行に連れて行ってくれるお人好しの男もいた。男がどんなにかわいがってくれても、ほんとは自分にはなんの関心もなく、母の体が目当てだってことは子供心にわかっていた。

 仙台郊外の泉野公園に駐めた堂本のダンプに戻った児玉は、シートの上にごろりと横になった。やっと長雨が上がり、きれいな三日月が木立の影から昇りかけていた。狭い車内で月が一番きれいに見える位置に体を動かした。

 死体のそばで拾った指輪の因縁を思いがけず知ることになった出会いの不思議さが、児玉の心を占めていた。指輪は涸沼の手に戻りたかったのだろうか。いや、指輪が意思を持つなんてありえない。それなら誰の意思が自分を涸沼に引き合わせたのだろうか。偶然なんてありえない。どんな幸運にも不幸にも理由がある。それが母の口癖だった。

 偶然なんてありえないとすれば、どんな計略が涸沼との出会いに隠されているのか。処分場に捨てられていた女の死体、顔はつぶされていたが体は死体とは思えないくらいきれいだった。裸で死んだのか、死んでから裸に剥かれたのか、とにかく死んでから、処分場まで運ばれたんだ。

 そんなことをあれこれ考えながら、児玉はうとうとと眠りに落ちた。するとたちまち悪夢が訪れた。今まで見た鷹目の夢ではなかった。夢だとわかっているのに抜け出せなかった。体が金縛りにあってピクリとも動かせなかった。


 女が1人、月に憑かれたように、霧に沈んだ森の中をさまよっていた。歩き疲れた女を巨大な黒蟻の食指が掴みあげた。白くくねる女の肉体が、闇の中でゆらゆら揺れた。巨大な芋虫の背中に、女は藤の蔓で結わえられた。黒蟻の前足がチェーンソーになってうなりを上げ、女の体を切り裂いていった。女の薬指には指輪が青く光っていた。血の色をした酸っぱい雨が森を濡らした。

 巨大な黒蟻の群が、雨でぬかるんだ廃棄物の山を登っていった。女の死体を捨てにいく蟻の行列だった。最初の群は右の手首、2番目の群は右の目玉、3番目の群は左の耳朶、4番目の群は左の足首、5番目の群は左の目玉。群れなす蟻がバラバラになった女の死体を、捨てては帰り、帰っては運び出した。バラバラ死体が穴からはみ出し、堆く積み上がっていった。

 女の左手を運んでいた蟻が、出来心を起こし、指輪を盗もうとして薬指を切り落とした。そのはずみに、薬指に填っていた指輪がころりと外れた。

 わたしの指輪を返してよ。切り離された女の唇が動いたように感じて、群なす蟻が一斉に振り返った。唇を運んでいた蟻の群は、薄気味悪くなって逃げ出した。

 指輪を盗んだ蟻は、平気な顔で切り落とした薬指を後ろ足で蹴飛ばして、穴に転がし落とした。そして前足に唾液をつけて、盗んだ指輪を磨きだした。きれいな青色の石のついた指輪だった。

 わたしの指輪、わたしの指輪、わたしの指輪。女の唇は泥の中から大声で繰り返した。

 指輪を盗んだ蟻は、その声を聞いてぞくっと身震いした。痙攣が伝わるように蟻の行列がぞろぞろと後ずさりした。大きなうねりが行列の末尾へ伝播していった。いったん乱れた行列は、もう元には戻れなかった。ずるずると蟻の群は死体の山から逃げていった。

 わたしの指輪を返して。地面に転がった女の唇が繰り返した。誰ももうその声を聞いてはいなかった。蟻の群はバラバラになって、一目散に巣穴に逃げていった。

 大粒の俄雨が降り出して、巣穴を洪水が襲った。逃げ遅れた蟻を閉め出すように、巣穴がぴしゃりと閉じられた。何百もの蟻の群が、洪水に流されていった。

 巣穴の大広間では、一足先に仕事を終えた働き蟻が、大宴会を始めていた。バラバラ死体を始末した祝祭だった。命拾いした感謝祭だった。甘い蜜をたらふく食った油虫の腹を腐らせてこしらえた酒を、なみなみ注いだ杯を打ち鳴らし、辛い木の実を野火であぶったビスケットが大盤振る舞いされた。

 死体から盗んだ指輪は、女王様に献上された。女王様は指輪がたいそう気に入って、座蒲団のかわりに巨大な尻に敷いた。緑色の血管が浮いた胴体だった。緑色の血潮が卵胞を洗い続けて、新しい女奴隷の卵を、1秒間に何十も生み出せる奇跡の胴体だった。女王様は時々胴体をもぞもぞと動かして、側近たちに指輪を見せびらかした。

 側近たちは嫉妬して、女王様が油断したすきに、指輪をころころ転がし出した。女王様はあんまり肥満していたので、起きあがることすらできなかった。

 わたしの指輪を返してよ。女王様は訴えた。みんな聞こえないふりをしていた。

 指輪は側近たちの前足から前足へ、触角から触角へと受け渡された。

 わたしの指輪、わたしの指輪、わたしの指輪。女王様は悲鳴を上げた。ぐるぐると、金の指輪は側近たちの円陣を巡っていった。

 女王様は動かせない胴体を震わせ、細長い6本の脚で地団駄踏んで悔しがった。そしてとうとう渾身の力で指輪めがけて巨体を跳ねさせた。側近たちは右に左に指輪をゆらゆら揺らして、女王様の突撃をかわした。女王様は涙を流して悔しがった。それから指輪めがけて巨体をごろりと横転させた。側近たちは、巨大な胴体の下敷きになって押しつぶされた。その弾みに、指輪は女王様の胴体にすっぽり填り込んでしまった。もうそれっきり外そうとしても外れなかった。押しても、引いても、回してもだめだった。あがいても、もがいても、指輪はきつく締まるばかりだった。どんどん胴体が締めつけられて、とうとう女王蟻の胴体がブチリとちぎれてしまった。

 生き残った側近たちはお葬式も挙げないで、女王様の落ちた胴体と、胴体のない首を担ぎ上げた。女王様の首のない胴体と、胴体のない首は、道端に捨てられた。ちょうどそこへ真っ黒な深ダンプが、産廃を満載して突っ込んできた。女王様の首のない胴体と、胴体のない首は、タイヤに踏まれてこっぱみじんになった。そんなことは少しも気にせず、巣穴では、酔っ払った黒蟻たちが、指輪遊びをはじめた。輪潜りをしたり、輪乗りをしたり、独楽のようにくるくる回したり、ギロチン台の首輪にしたり。

 よく見るとギロチン台に1つの首がつながれていた。それは児玉の首だった。もがいても、あがいても、ギロチン台は首から外れなかった。留め金がガチャンと外れて、巨大な包丁がギュンとうなって、まっさかさまに落ちてきた。

 ギャー。バサリと首根っこが切り落とされ、ゴロリと頭が床に転がり、残った胴体からは噴水みたいにジュバッと血が吹き上げた。ギャー。


 児玉は運転席から転げ落ちてやっと正気に戻った。

 ははは、ははは。そうよ、私はずっとここで待っていたのよ。ははは、ははは。女の笑い声が地の底へと遠ざかっていった。金縛りにあっていた手足が鉄くずのようにずっしりと重くなって、すぐには起きあがることもできなかった。

 なんの因果でこんな指輪を拾っちまったんだ。なんで涸沼に指輪をすぐに返してやらなかったんだ。

 児玉は月明りに照らされた公園の築山に登った。昼間の雨がウソのように、星空は一点の曇りもなく輝き、遠くにそびえる名も知れない山の峰々が、水墨画で描いたような薄墨色に霞んで見えた。

 「オーッ」児玉は飢えた狼の遠吠えのような叫び声をあげた。

 「オーッ」谺が返ってきた。ヨダカが空中の蛾を吸い込むように、児玉は大きく深呼吸して、思いがけない方向へ動き出した風を胸いっぱいに吸い込んだ。

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