邪神さんと冒険者さんのコボルド退治15
翌朝。
窓の外は薄い金色で、花壇には植えたばかりのハーブの若葉は朝露をまとっていた。
出発を前に台所では朝から賑やかである。
「おはようございますですー」
「おはよう、フラウちゃんはよく眠れた?」
「はいですっ。シルちゃんもぐっすりでした」
身支度をしに台所にやってきたリラと
お弁当作りに奮闘中のフラウが挨拶を交わしている横では
フィルが朝食の準備に精を出している。
「フィルさん。お皿、出しておきますね」
「ああ、ありがとう」
アニタが背伸びをしながらお皿を棚から取り出す。
鍋の金属音がかすかに鳴り、皿に出来上がった料理を盛り付け、
テーブルに並ぶのは簡単な朝食——黒パンとチーズ、温め直した野菜のスープ。
……簡単な物だが慌ただしい中では十分頑張った方と自画自賛なフィル。
そんな朝食を皆で手短に詰め込み、
そそくさと身支度を整え、鞄のベルトを締め直していると、
玄関の方から小気味よいノックが響いてきた。
「おはようございますー、みんなは居るかい?」
ここ数日ですっかりサリアとアンジュが親しくなった村のご婦人達である。
(ちなみにフラウやリラ達村の住人組は元より仲良しである)
ここの所、こうして数人毎のグループで毎朝パンを焼きに来るのだが、
そろそろ一周したのか、最近では以前見た顔が増えた気がする。
昨日と同じく食材やパン種の入った籠を抱えて、
粉の香り、発酵した小麦の酸い匂いが家の中に広がる。
最近では窯の余熱で炊いたお風呂も楽しみらしく、
籠の中には石鹸やらタオルやらといった入浴道具が追加されたらしい。
……もうすっかり我が家はご婦人達の社交場になってしまったようである……
「あら、もう出発の準備なのかい?」
玄関を開けたフィルとフラウを見た先頭のご婦人が尋ねた。
今日はフィルだけでなく、フラウも旅支度をしているので気が付いたのだろう。
「おはようございます。ええ、昨日のうちにコボルド討伐が終わったので、今日は街に報告をしに行く事になったんです」
「おやまぁ、随分と早く終わったんだね! さすがだねぇ」
フィルの報告になるほどと感心するご婦人。
本気で驚いている様だがフラウからは昨日から巣を探し始めたと聞いていただろうから、
もう時間が少しかかると予想していたのかもしれない。
「それじゃあ、この家は暫くは使えないのかい?」
「ああいえ、家はこのまま開けておきますから自由に使ってください。今日は街に一拍して行く予定なので、明日の朝は僕たちが居ませんが扉は開けておきますからそのまま使って下さって結構です」
残念がるご婦人の問いかけにフィルが穏やかに答える。
この辺りに盗みを働くような人は住んでいないし(というかそもそも人が住んでいない)
鍵を開けっぱなしにしても問題ないだろうという判断である。
……まぁ実際の所は、
元より村人達が使っても良いと開放している倉庫の食料や燃料と
幾つかの家具や照明、食器や調理器具以外は
家の中に貴重品となるものが何もないから、というのが実際である。
このあたり、貴重品どころか生活に必要な品は全てバッグ・オヴ・ホールディングの中に収納して移動できる
冒険者だからこその発想かもしれない。
「まぁまぁ、そうかい。なら遠慮なく、窯は使わせてもらうよ。ここの窯は村のと比べて良いパンが焼けるんでねえ」
「生地もね、あの奥の棚がちょうど温かくてねえ」
「はは……そうなんですね」
フィルは愛想笑いを浮かべながら扉を開きご婦人達を招き入れる。
「ありがとうねえ。帰ってきたらまたご馳走させてもらうよ」
台所へ向かう間もご婦人達は賑やかなままで、
引っ切り無しにフィルやフラウに話しかけてきた。
「ええ、ありがとうございます」
「フラウちゃんも一緒に街に行くのかい? 良かったねえ」
「はいですっ!」
ご婦人に元気よく返事をするフラウ。シルはその足元で「わう」と小さく鳴いた。
ご婦人達に台所(と家)を任せて、再び出立の準備に取り掛かるフィル達。
リラが肩紐をぐっと引き締める。
「じゃ、行こっか。今日も気合い入れていこうね」
リラの言葉に少女達が頷く。
サリアが楽器を背負い直し、
アニタは魔法構成要素のポーチの中身を確かめる。
アンジュは胸甲の留め金をひとつずつ撫でるように確認し、
トリスは聖印を上衣の内側にしまった。
皆の準備が完了した一行はご婦人達も見送られて家を出る。
それから山道を少し歩いて、家やご婦人達が見えなくなった所でいったん立ち止まった。
「ここならいいかな。それじゃあフラウ、僕の腰に手を当ててね」
「はいです!」とフラウ。
「はい。フラウちゃんよろしくお願いしますね」とサリアが笑ってフラウの肩に手をかける。
「はいですっ……あ、ちょっとどきどきします」
あまり村人に高度な魔法を行使している所は見られたくないので、
今日は徒歩で家を発って人気の無い所まで移動してテレポートを使う事にしたのだった。
中央にフィルが立ち、今日はフラウがフィルの腰に手を当てて
そのフラウに他の少女達が手を当てる。
「じゃ、いくよ」
フィルがテレポートの呪文を短く詠唱すると、
視界を水面のような揺らぎが覆い、山道の匂いがぐっと遠のいた。
次の瞬間には、先程までとは異なる冷たい岩肌の匂いと、湿った風の肌触りが頬を撫でる。
――コボルドの洞窟、前日と同じ崖下の小広場。
「うわ、ひんやり……」
「朝の洞窟って、なんだか音が吸い込まれる感じがしますね」サリアが囁く。
「なんかバードっぽい言い回しだよね?」
「バードなんですー」
リラとサリアの戯れを横で聞き流しながら、フィルは洞窟の入口まで歩を進めた。
入口の前、土に刻まれた新しい足跡が朝の斜光でくっきりと浮かぶ。
爪のある二趾の深い跡が数つ、
その周りにさらに小さい、軽い歩幅の足跡が群れていた。
小さなそれらは洞窟の奥から外へ向かい、草むらで不意に散っている。
「……新しいね。昨晩のうちに動きがあったみたいだ」
フィルがしゃがみ込み、指で土を払う。
「小さい足が多い。たぶん、どこかに隠し部屋があって、卵や子供とかを隠していたのだろう」
後から追いついたリラが新しい足跡を見て眉を寄せる。
「コボルドを見逃しても良かったんですか?」
「いくつかのコボルドが逃げ延びるなんてことはよくある事だよ」フィルは淡々と告げる。
「僕らが倒した中に子供のコボルドはいなかったろう?」
言われて、皆の表情が静かに変わる。
「……そういえば、見なかったかも」アニタが視線を落とす。
「小さなあしあとがいっぱいです」フラウがそっと囁いた。
フィルは続ける。
「コボルドは同じ巣の仲間にも、卵を保管しておく場所のことを秘密にするそうだよ。おそらくは子供のコボルドもその部屋にかくまわれていたのだろう。相手も必死なんだ。僕らが見つけられなくても仕方ないさ。——追跡は、やめよう」
アンジュがゆっくり頷いた。「弱きものへ刃を向けるのは、私の誓いにも反します」
トリスも静かに言葉を添える。「ここでの務めは、街道への強盗行為を終わりにすることの方……ですものね」
サリアは肩で息を吐き、軽く手を振った。
「そうですね。じゃあ、追いかけっこはまた別の機会、に」
リラは少しだけ唇を噛んだが、やがて目を細くして頷く。
「……わかった。じゃあまずは、やるべきことをしよう」
全員口惜しさも見せるがそれ以上に安堵している様に見えた。
やはり敵対者とはいえ、人型種族の子供を殺すことに抵抗があるのだろう。
こういった場面では余程の事がない限り、大抵の冒険者は見逃す事を選択する。
無力な子供や赤子を殺すなんてことは、並みの精神ではする事が出来ないのだ。
たとえその所為で世の悪が尽きないとしても、
助けた相手から逆に恨まれ狙われたとしても、
こればかりは仕方が無い事だとフィルは考えている。
……まぁ、フィルぐらい経験を積むと情け容赦無く殺す事も普通にするのだが、それはそれである。
フィルは振り返る。
「じゃあ洞窟の遺体を火葬してくるから、みんなは外で入口周辺の見張りをお願いするよ。あ、トリス、済まないけど一緒にきてもらえるかな? 死者に祈りで弔ってもらいたいんだ」
「そうですね。ではご一緒しますね」
「了解」「こっちは任せて」「わかりました」
「はいです、がんばります!」フラウが小さな拳を握る。
シルが「わうっ」とフラウの腕の中で返事をして、フラウにいい子ですねと撫でてもらっている。
少女達が返事をする中、アンジュがフィルに向かって言った。
「あ、フィルさん。私も火葬にご一緒してもよろしいですか?」
「ああそうか、アンジュもパラディンだもんね。じゃあ一緒にお願いするよ」
「はいっ」
フィルはトリスとアンジュと共に洞窟に入った。
洞窟の中は昨日よりも冷え込み、足音が石間を乾いた音で返す。
通路を抜けて食料庫の扉を押し開けると、空気が重く沈む。
積まれた包みや粗末な棚に残る痕——昨日集めた遺骸はひとつの場所にまとめてある。
フィルは一瞬だけ目を伏せ、トリスとアンジュを見る。
「お願いするね」
「はい」「わかりました」
トリスは聖印を掌に乗せ、地母神へ小声で祈る。
「大地の母よ、灰は土へ、命は畝へ還ります。刈り終えた穂のように彼らをあなたの畑に休ませ、季節の巡りのうちに安らぎを与えたまえ」
石壁に反響することばは、土に眠る者、流れに還る者、火に抱かれる者、すべてに等しき安らぎを、という古い祝詞。
アンジュも手を合わせ信ずる朝日の王の名を呼ぶ。「暁の光よ、わたしたちの行く道を照らし、影に伏す者にも新たな朝を与えたまえ」
しばしの沈黙。祈りの残響の上を、鍾乳石から落ちる雫の音が通り過ぎる。
二人が弔いの聖句を唱える間、フィルは油瓶を取り出し、死体や衣服へ丁寧に注いでいく。
ちょっとした香油である。燃料としてはこの死体の数には小量すぎるし
これから行う火葬は油なんて無くても確実に全てを燃やし尽くす事の出来るものだ。
だからこれは火葬する者達への僅かな手向けでしかない。
それでもフィルの静かに慎重に、だが躊躇わず油を注いだ。
「……始めよう。長くはかけない」
聖句が終わり、油も撒き終えた事を確認して、
フィルは指を組みサモン・モンスターの呪文を唱えた。
目の前に渦巻く円環が浮かび空気がぴんと緊張して裂ける。
円環に亀裂のような光が走り、そこから炎が芽吹く。
ひとつ、ふたつ、みっつ。灯火ではない意志を持つ火の塊
——中型のファイアーエレメンタルが、ゆらりと立ち上がった。
炎の腕がくゆり、煤けた壁に炎の灯りが影の様に踊る。
「ここだ。死者を速やかに、完全に。……燃やし尽くせ」
炎の精霊は音のない頷きで応え、輪になって遺骸を囲む。
火花が走り、油に火が渡る。
短い唸りが空洞を満たし、乾いたものから順に火が移っていく。
熱が押し寄せ、石壁がぱちりと鳴った。
トリスが小さく祈りを結び、「母なる女神よ、灰を土へ——安らぎの畝に」と囁く。
アンジュは目を閉じ、胸に手を当てた。「暁の約束は灰にも宿る。朝の主よ、彼らを新しい夜明けへ」
炎は規則正しく仕事をこなし、黒煙が天井の割れ目へと吸い上がっていく。
「ここはもう大丈夫だ。外に出よう。煙を吸いすぎるのは体に悪い」
「はい」「そうですね」
三人は炎の唸りを背にして、食料庫を後にした。
通路にでると、熱と煤の匂いが薄まり、冷たい空気が肺に優しい。
洞窟の入口。
朝陽はだいぶ高く、木々の葉が光をはじいている。
見張りをしていたリラが洞窟から出てきた三人に気付きぱっと立ち上がった。
「おかえり」
「どうでした?」サリアが表情を和らげる。
「終わったよ。火は精霊に任せたからしばらくは近づかない方がいい」フィルが頷く。
フラウが懸命に背伸びして水袋を差し出した。「おみずですっ」
「ありがとう」フィルが受け取り一口。喉がほぐれて、思わず笑みがこぼれる。
アンジュとトリスも礼を言って水を受け取り、額を拭った。
「助かりました」
「ありがとうね。フラウちゃん」
リラは戻ってきたフィル達三人の様子を見て、ふっと肩の力を抜く。
「そっか……じゃあ、これで、一区切りだね」
アニタが周囲を見回し、頷いた。
「入口の周りもあの足跡以外は異常なしだよ」
アニタの報告に頷き、フィルが背負い紐を締め直す。
「よし、ここからは歩きで街へ向かおう。この時間は往来が増えるから街まで安全に行けるだろうからね」
「今出れば昼過ぎには着けるわよ」空を見て太陽の位置を確認してからトリスが皆に伝える。
「はぁい。街についたらまず冒険者の店に報告して、それから仕分け、で決まりですね」サリアが指折り数える。
「仕分けの時に鑑定だね」アニタ。
「私は……その後で良いので寺院に報告に行こうと思います。あ、良ければ皆さんも一緒にどうですか?」アンジュが微笑む。
「アンジュの寺院って朝日の王の寺院ですよね? 行ってみたいです!」
「わぁ~!」
アンジュの誘いにサリアが即答し、フラウも嬉しそうに声をあげる。
「シルは見張り係ですね。……あ、シル、それは見張りって言わない顔ですよ」
サリアが笑い、シルは得意げに尾を振った。
リラが皆の顔をぐるりと見渡し、にっと笑う。「じゃ、出発しようか!」
山道は昨日の風で落ちた小枝が多く、足元に影の縞模様が踊る。
遥か下では川が光り、遠くの街の尖塔が春霞の向こうに小さく見えた。
背後、洞窟のある岩場の上空には、薄くたなびく煙が一本、空へ溶けていく。
サリアがふっと鼻歌を始める。
明るい旋律が、朝の空気に紛れて軽やかに跳ねた。
「昨日のご婦人たちのパン、とっても美味しかったですね」ふいに呟いたアンジュが微笑む。
「はは、田舎のパンは都会と違って重くて味があるからね。街の人にもあれが好きな人は多いよ」フィルが前を向いたまま言う。
「それに家ごとに味が違うんですよ」とトリスが付け加える。
「そうなんですね。でもあれが好きだというのは分かる気がします」とアンジュ。
「むらのパンもまちのパンもおいしいですー」フラウが小走りでアンジュに並ぶ。
道の先に、風に揺れる野の花が群れている。
戦いの匂いは、もう靴の底にだけ残っている。